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ドラクエ3
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エドワード・サイード(中野真紀子訳)『ペンと剣』(ちくま学芸文庫)。実は去年のクリスマス頃に読み終えてたんだけど、こちらにアップする暇がなくてほったらかしてた。 98年に単行本として出版された本の文庫化。この本はインタヴューということで、サイードの「肉声」が聞ける。それがとてもいい。インタヴュアーのデーヴィッド・バーサミアンもかなりスゴイ人で、イクバール・アフマド、ノーム・チョムスキーへのそれと合わせて、インタヴュー三部作を物した人物。この3人にインタヴューしてるってのもスゴイ。表紙のサイードの写真がめちゃんこカッコイイ。 文学の政治理論といったらいいのだろうか、『オリエンタリズム』による大転回をもたらした理論家であり、同時にパレスチナ問題にコミットし続け、かつ希望を語り続けた不屈の知識人でもあった。次の部分は、そんなサイードの本質と言っていいやり取り。 「──あなたの好きなグラムシは、自
ドゥルーズと現象学を対比したときに、「ドゥルーズのいうこととサルトルは似てるところもあるのだが、現象学に傾倒したサルトルは現象学をどのように受容したのか」という疑問をもったのだが、少しメモをしておく。ドナルド・D・パルマー『サルトル』より。 ドイツに留学して現象学を学んだサルトルは、『自我の超越』という文章を発表し、現象学的方法を用いつつ、しかし、フッサールとは異なる結論に到達した。それはいかなる内容のものなのか。まず、「非反省的意識」と「反省的意識」の区別から。 ・・・私は路面電車の駅へと向かってとおりを歩きながら、若葉の芽吹く木々を見たり、向こうからくる魅力的な女性に気づいたり、好みのネクタイを見つけたりする。このとき意識の対象は、木々であり、人々であり、ネクタイだ。サルトルによれば、この非反省的意識に「私」はない。 交差点を曲がったところで、電車がちょうど発車し、遠ざかっていくのが目
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