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ドラクエ3
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既に店頭に並んでゐるはずだが、第六巻が出た。私の方は、予定を早めて9月に出ることになつた最終巻校了!これで、秋の「明暗」の演出を済ませれば、まぁ、父親の面...既に店頭に並んでゐるはずだが、第六巻が出た。私の方は、予定を早めて9月に出ることになつた最終巻校了! これで、秋の「明暗」の演出を済ませれば、まぁ、父親の面倒を見るのも十分、いや十分過ぎるだらう。 その第六巻から、何箇所か気になるところを挙げておく。第一は芥川比呂志との対談で、当時上演した「罪と罰」を話題にしてゐる。芥川がポルフィーリーを演じた。ここでドストエフスキーや「罪と罰」の意図や主題について云々しようといふのではない。恆存の脚色について語るつもりもない。で、早速抜粋――その一。 ≪芥川 ポルフィーリーは原作でも脚色でもそうですけれども、三十五六くらいの男でしょう。ところが、読んでみると、かなり……。 福田 ふけて感ずる。
週刊新潮で読んだのだが、避難所を慰問なさつた両陛下に至近距離で携帯のカメラを向ける輩がゐるとか。年輩の被災者は概ね感謝してゐたやうだが、若者のマナーを新潮が嘆いてゐる。福島県二葉町の人々が避難した埼玉県の旧騎西高校でのことださうだが、町役場の担当者は、近くで両陛下にカメラ向けるのは失礼だから控へるやう、前以て注意はしてゐたらしい。一二週間前の、やはり新潮だつたか、被災者の若者が両陛下の前で胡坐をかいてゐたと写真入りで報じてゐた。 新潮は「マナー」といふ言葉で片づけてゐる。カタカナ語で片づけるところなど如何にも週刊誌的だが、私はやはりせめて礼儀・礼節と言ひかへたい。さらに言へば、人間のあり様とでもいふべき問題だと思つてゐる。人との付き合ひ方、人との距離の取り方とでもいふものが、昨今まるで意識されず、無視されるやうになつてゐはしないか。そんな躾も無くなつて久しいといふことか。 陛下をなんと心得
山雀(やまがら)麗澤の評論集、文春の戯曲集に漸く追ひついて、玉川大学出版部から恆存の対談・座談集が出ることになつた、宣伝――。 全七巻で文学、政治、演劇、さまざまなジャンルの対談座談を纏めた。編集者が数へたら対談相手が百三十名を超えてゐるらしい。人数はさておき、私はこの七巻に収められた対談座談のタイトルとその人々の名前を眺め、福田恆存その人よりも、むしろ恆存を媒介とした昭和史七巻と感じてゐる。近々にチラ・・・
前掲記事を掲載した年末、恆存評論集の第十六巻の再校に目を通してゐた。この巻の中心は「否定の精神」だが、その一節を読んで少々驚いた。驚いたといふのも大袈裟かもしれないが、前掲、前ゝ掲記事を書きながら私が感じてゐたことを、もう一歩先に歩を進めて書いてゐるからだ。 〈ニヒリズム〉と題した短い節である。その一節が妙に腑に落ちる心持がした。「否定の精神」は短い節に題を付し、将棋倒しのやうに次へ次へと主題を変奏してゆく逆説的エッセイの連続で一冊の評論集になつてゐる。したがつて〈ニヒリズム〉の一節も前の一節を受けてゐるので少々分かりにくいかもしれぬが、以下に引用する。 **************************************** 〈ニヒリズム〉 究極において幸福をめざさぬ思想はニヒリズムだ、と。さうにはちがひない。が、それはかういひあらためるべきだ―― ニヒリズムの匂ひのしない思想は
『鹿鳴館』を二度も私が観に行つたのは、偏に日下武史といふ現代には稀な知性を備へた俳優の演技を確かめたかつたからであり、初演時には、見事とは思ひながらどこか物足りなさを覚えたからなのだが、「凱旋公演」では期待通りの名演技を見せてもらへた。他の共演者は総じて四季独特の朗誦術に雁字搦めになつてゐて、せりふを肉体の中に取り込むことが出来ず、リアリズムからは程遠いと言はざるを得ない。 だが、今の私は四季だけを、そのマナリズムともいへる朗誦術ゆゑに否定する気にはなれない。もしそれを論ふなら、他の劇団、他の舞台は如何なるせりふ術を身につけ、聴かせてくれるか。 これは我が劇団昴についても同様である。昴は確かにせりふを大事にしてきた。福田訳のシェイクスピアをそれなりにこなしてはゐる。が、せりふを肉化してゐるかといふ点では決して合格点は付けられない。人物の造形をせりふの肉化、すなはち劇的リアリズムに昇華する所
英国の舞台を観た時に感ずることだが、上手い下手はさて置いて、彼の地の俳優の演技には底流に厳然とした基準があるといふ事、おそらくはシェイクスピア以来の演劇の歴史と伝統が生み出したせりふ術と、生身の役者が自分とは別の人格を舞台上に現出させる演技術とを多かれ少なかれ身に付けてをり、しかも、誰しもが共通の演技術を身に付けてゐるといふ事だ。 他でも書いたことだが、私にとつて忘れがたい舞台がある。初めて英国を訪れた昭和四十三年のこと、ストラットフォードで三夜連続でシェイクスピア劇を観た。『リア王』『トロイラスとクレシダ』『お気に召すまま』の三作品である。一晩目に観た舞台に若いが実に上手い役者がゐた。シェイクスピアの詩形ブランク・ヴァースを見事に美しく聴かせてくれるし、『リア王』のエドガーといふ青年の苦難と信念とを的確に演じてゐる。感心してパンフレットの俳優紹介に丸印を付けて宿に帰る。翌日『トロイラスと
大分前の事になるが、私のブログが正仮名遣ひであることに疑念を表し、あれは主義主張なのかと聞いて来た知人がゐる。主義だ主張だと、そんな大それた話でもなんでもなく、単に過てる「現代かなづかい」に苛立つ、それだけのことなのだ。 例へば、「おめでとう」、といふ仮名遣ひに違和感を感じるだけの話なのだ。めでたいから、正月なり慶事に際して、「おめでとう」と書くのだらう。つまりめでたい=愛でたいからだらう。あるいは「珍しい」物事を「愛でたく」思ふから、その物事を大事にしたいのだらう。 大事にしたく思ふ、愛でたく思ふ、すなはち、「めでたく」思ふから「おめでたう」と書くのだ。「たう」は「たく」のウ音便であり、といふことは「おめでとう」と書いたら、そのウ音便を元に戻すと、「おめでとく」となつてしまふではないか。めでといなぁ、なぞと言ふか。形容詞の語幹が、変つてよいものか。「おめでとう」と書いて違和感が無い方は、
今さら、町名変更の愚を言ひ立てる気も起こらぬが、南アルプス市だとか伊豆の国市など、呆れる以前に、そんな名前を付けて恥づかしくないのかと思ふ。決めた方々の感覚と私のそれとは未来永劫絶対に相容れないであらう。知性と感性、共に疑ふ。 たしか、愛知の方で何とかセントレア市といふのが出来かかつて、流石にそこまではと、まともな感覚の方々が反対してつぶれたと思ふが、つぶれなかつたら、今頃は日本中の笑ひものだらう。 伊豆の国市がなぜをかしいかといふと、国といふものは市より大きなものであることが一つ、そして第二に、伊豆の国と言つたら、普通は伊豆半島全体をイメージする。合併前の韮山町・大仁町・長岡町以外だつて伊豆だ。他の町から文句は出なかつたのだらうか。伊豆の国を占有されて構はぬのか。 南アルプス市に違和感があるのは、カタカナ町名といふ事だけではなく、恐らくかういふ事だらう。ヨーロッパの美しい峰々がアルプスと
まったく更新しないブログ……只々、申しわけなく恥ずかしい。 実は、今人生最後の仕事と思って進めてゐる仕事がある。 父・福田恆存の書簡を集めて刊行しようと思う。その仕事に忙殺されている。 で、まだ、しばらくブログには戻れそうもない。楽しみにしていた方がいらっしゃるとしたら、お許しいただきたい。ひたすら、平謝りである。 また、その仕事が終っても、その後、この年齢の(昭和23年生)私に、どれだけの余力と命が残っているか。弱気ではないが、口では「100歳まで生きるゾ」と豪語しているが、平均寿命では後10年も生きることはない。まぁ、家系を見ると90歳は越すつもりでいるが……90超えたブロガーも、面白いか。
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