むかし宮中某重大事件というのがありました。どんな事件であったかは本筋と関係ないので略します。1921年に起きたこの事件で、山県有朋が大衆から批判されて、政治的な力を最終的に失いました。 明治憲法には内閣の規定がなかった、などとよく習いますが、もうひとつ法律になっていないものがありました。(実質的な)総理大臣の指名方法です。最初のうちは、元老の集まりで天皇に推奏する候補者を決めていました。元老になるには「元勲優遇」といった文言の入った勅語をもらうのですが、その会議のボスが山県有朋や伊藤博文であったわけです。 国民や議会からこのシステムが分離されている限りデモクラシーも何もないわけですが、この元老会議に財界と関係の深い井上馨や松方正義、そして陸軍と官僚組織を牛耳る山県有朋が加わっていたことで、利害調整の場となっていました。山県が失脚したことで、利害調整の場がなくなってしまったわけです。 昨年の