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大谷翔平
kimioitosaki.hatenablog.com
ネットアートショップ「きたいぶんしギャラリー3000」に私の水彩画作品4を出品しました。下記サイトからご購入になれます。どうぞよろしくお願いします。 kitai3000.theshop.jp 写真家である私がなぜ絵を描くのか?と言えば、もともと私は絵を描くアーティストになりたかったのですが、才能がなくて断念し「写真」に転向した経緯があったのです。 しかし実を言えば私には「写真」を撮る才能もなく、それで写真を立体化した「フォトモ」の技法を編み出したのでした。それで私は写真家・美術家と名乗るようにしてるのです。 ところが実際に私は美術家を名乗りながら絵が描けず、それを不十分なものとして感じていたのです。そもそも写真と絵画とは別物ではなく、根っ子は同じものなのです。 写真はカメラで撮るものですが、「写真」の発明以前から「カメラ」は存在していたのでした。もともとカメラは絵を描くための道具で、レンズ
フッサールの『現象学の理念』を久々に再読したんですが、もう10年以上前に読み始めて、それで何年かかけていちおう現象学は分かったといえる地点まで来たんですけど、もちろん「分かった」といっても「分かる」ことに限界はなく、繰り返し読む価値があるんですね。 それと実はメルロ・ポンティの『知覚の現象学』も読んだのですが、メルロ・ポンティはフッサールの継者的な位置付けなんですが、私の師匠の彦坂尚嘉先生がメルロ・ポンティのことは全然評価してないのです。 それでどんなもんかと思って確認のために『知覚の現象学』の序文だけ読んだんですね。 というのもAmazonのレビューによると、この序文は「現象学とは何か?」という解説においてフッサールより分かりやすいと書いてあったのです。 それで読んでみたのですが、自分の主観としては確かに良くないんですね。 私はこれまで竹田青嗣批判を何度かしましたけども、けっきょくメルロ
あらゆる自然科学はその出発点に関して言えば素朴である。自然科学が探求しようとする自然は自然科学にとって単純にそこに存在する。#フッサール 厳密な学としての哲学 心理学はこのように心的物的な自然連関のうちに自明的に存在している心的なものをその自然連関のうちにおいたままで学的に研究しこれを客観的妥当的に規定しその形成と変化及びその去来の法則性を発見することをその課題とするのである。#フッサール 厳密な学としての哲学 この素朴さは自然科学に常に付きまとっているものでそれは例えば自然科学的な方法的操作のあらゆるところにつまり自然科学が直接の経験を引き合いに出してくるあらゆるところに常に繰り返し現れて来るのであるそして実際あらゆる経験的科学は結局他ならぬ経験そのものに立ち止まってしまう#フッサール 厳密な学としての哲学 自分の何が間違っていたかと言えば「非人称芸術」という結論を先に持ってきてその正し
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