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戦後社会の最初の欺瞞は、やはり戦後憲法や天皇の扱いにあるのではないか。 安冨は『原発危機と「東大話法」』で、戦後の配給のようすを写した写真を掲げて、戦争中のマインドコントロールが解けた人々は、こんなに屈託なく笑うのだという趣旨の説明を行っているが、本当だろうか。戦争中だって人は笑うときは笑っただろう。 私が再三言っているのは、戦後日本が民主主義というのは大嘘だから、日本は立憲君主国なのだと事実を諸外国に表明するか、天皇を退位させて本当の民主主義国家になってくれ、ということである。私自身は反天皇制だが、べつに天皇制をやめたからって日本がよくなるとは思っていないから、とくに現状の天皇制を転覆させようとは思わない。しかしだったら立憲君主制の看板を掲げてくれよ、というわけ。 私は、仕組みを変えたら損する人が必ず出るのだから、仕組みを変えるときは慎重になったほうがいい、という感覚を持っている。不当利
http://anond.hatelabo.jp/20100211143209 「増田」とやらについては疎いのだが、たまたま読んだこれは「釣り」じゃねえのと思ってしまう。文章が妙に整理されている。 それにしても、「なんとなく女の子に引け目を感じる」というのは普通のことだと思うが、「会社の女同僚は姉やおかんのように脳内変換してしの」ぐというのは驚いた。「しのぐ」ものなのか。そういう考え方もあるのか。後段の「目の前の女の子に欲情して、それを隠さなくても許される」というのとも関連するのだろうが、「欲情する」ことが、もう筆者氏にとって「客観的」であるのにも近い、それをしたらすぐ相手にばれる何ごとかであるわけだ。それはうぬぼれだろ(笑) と思ってしまう。つまり欲情なんて主観にすぎない。主観は通常は表現されなければ他人にはわからない。 最近になってわかってきたのは、時代がどうとか評論家的なことはべつに
さて、松沢呉一は、「唐沢氏が出典を書かない、原文通りにしないのは、そうすると、 許可が必要になると思っているんじゃないのだろうか」と書いている。 http://tondemonai2.blog114.fc2.com/blog-date-200902-4.html なるほど。これは目ウロコだった。たしかにこういうセンスをもった人、私の身近にも、います。 なんで唐沢が労多くして益のない活動にいそしんでいるかの理由が、ほぼ完全に理解できた。やはり悪意でやってる人じゃないよこの人。 リンク先の「3. 出典を書いてしまうと、自分の手柄にならないから」というのは疑問だ。かつて唐沢がそういうこと(木村和久がみうらじゅんの発想を横取りしようとしたようなこと)をしたことがあるのだろうか。「脳天気」を平井和正から…というのが、そうか? 潮健児のは、またちょっと性格が違うだろうし。 前から私は、追求側と唐沢との
…凡人であっても善人じゃないんだよね。常盤貴子はヤクザの愛人やってきわどい生活をしていたわけだし、大泉洋は初恋の相手に再会したら奮発してポルシェ買っちゃうようなお調子者だし、堺雅人は自分の会社が後ろ暗いことに手を染めてても中学時代の片思いの相手をみつけるまでなんの行動も起こさなかった奴だし。 だから大泉の佐々木蔵之介への「説教」を、善人が悪人へ正しきことを述べ垂れていると解釈することが、そもそも間違っているわけ。大泉は「お前は部外者のくせにいい気になって状況をかき回すんじゃねえよ。お前みたいなやつはよくいるよ。勝手に他人を決め付けて、ああだこうだって言いやがって、なんにも見えてないくせに」って言ってるんだよ。明きめくらが。 (まあその大泉も堺のことが見えてなかった、というオチになるわけだけど…)
自分でも、公序良俗を守って模範的な行動をする人々に対する嫌悪がココまであるとは思わなかった。http://d.hatena.ne.jp/samurai_kung_fu/20080529 常盤貴子の動機をまったく理解してないんじゃないかとしか思えない。必死になってなにがなんでも自分が子供を産もうとすることのどこが「公序良俗を守って模範的な行動」なんだ? 堺雅人が自分の職をなげうってまで協力するのが「模範的」か? ポルシェのローンを組むのが「模範的」か? このひと、「編集のテンポが良くストレスが無い。撮影や照明もやわらかな画面作りに成功していた」とか、映画の外面にばかり気をつかって、その作品が何を伝えようとしているのかをまったく見ていない。映画のソムリエにでもなりたいのか? ホワイソーシリアス? って、まず自分に向けて問えよ。「言い訳じゃないがボク自身は別にアウトサイダーじゃない。レジの列はち
インド人が死体を風葬にしたり、川に流したりするのは、死者が死んだ瞬間にどこかべつの場所に転生しているからだと、インド人が考えているためであることを知れば、実感としてはともかく理屈のうえでは理解できる。だから死体をぞんざいにあつかうのかと。もちろん、日本人のわたしにとって「ぞんざい」に見えるだけなのだが。 日本人が死んだ場合は、古代では速やかにモガリ場に連れていったし、中世なら土中に隔離したし、近代になると火葬するわけである。方法が問題なのではなく、死が穢れだからである。 猫猫先生や大塚英志、養老孟司がいうように、嫌煙志向に代表される、「最近の」日本人の強迫的な健康志向は、本当にナチズム起源だったり、ナチズムから影響されたりしているのだろうか。まったく根拠のない理由でも、穢れを感じるものはそれを忌避するという日本人古来の生理的嫌悪感が発動されているのに過ぎないのではないか。それこそ、3氏らこ
阿佐谷隆輔脚本、大木萠監督の『花火思想』が物凄くいい。 この不思議に面白くて尚且つ力強くもあるという映画の宣伝の一助になってくれればと思い、以下の文章をしたためるのである。 私はたまたま井土紀州監督の『マリア狂騒曲』の上映後の飲み会で阿佐谷さんと大木さんと、それから『花火思想』のスタッフの面々と知り合った。 『マリア狂騒曲』の上映後のアフタートークで、井土監督と大木さんが『犀の角』について語っていた。 『犀の角』は私も試写会の映写をやったことがあったと思う。世論に乗っかってカルト宗教の信者を虐める若者達のフォーメーション、隊列が薄の原に展開する様がいまだに印象に残っている作品だ。 大木さんはその『犀の角』に参加していたという。 そうなのか、『犀の角』か、と数年前のことを思い出しながら会話していたら、大木さんのコンビニバイト話が思いのほか面白かったのである。 映画の神様は不思議な配剤をするも
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