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大谷翔平
nekonaga.hatenablog.com
ジョージ・バークリー『人知原理論』の新訳(ちくま学芸文庫、宮武昭訳)が刊行されていたので読んでみた。 バークリーと言えば、一般的にはあまり知られていないが(しかし、実はカリフォルニア州バークレーは彼の名に由来する)、哲学史に親しい人にはおなじみ、いわゆる「イギリス経験論」の代表論者の一人である。他にジョン・ロックやデイヴィッド・ヒュームがいるが、年代的にはその間にいるのがバークリーだ。三人のこの分野での主著を並べてみると、ロックは『人間知性論』(『人間悟性論』とも)、バークリーが本書、ヒュームが『人性論』(『人間本性論』とも)となる。 もっとも、知識は経験に由来すると考える点では三人の思想は共通しているが、そう主張する動機については、とりわけバークリーは他の二人に比べると異質である。ロックやヒュームが、ニュートンらによって行われ始めた「実証科学」のスタイルを人間精神の探求においても適用しよ
「哲学は役に立たない」。一般的にはそう言われることが多い(とされている)。しかし、哲学者ならこれに対してこう答えるはずである、「はい、その通り」。 これは、面倒な人を避けるための一つの返し方でもあるが、要するに反論はしないだろうということである。というのも哲学者は、「役に立つかどうか」という発想そのものにも、そんなことを気にしているような人自身にも、端的に興味がないからだ。だから、何と言われていても別に構わないのである。実際、私が知る限り、逆に「哲学がいかに役に立つか」を説いている人というのは哲学者ではなく、むしろ反対のタイプの人である。 では、あらためて哲学とは、あるいは哲学者とは何かである。基本から言えば、周知の事実かもしれないが、そもそも「哲学」とは古代ギリシア語の"φιλοσοφία (philosophia)"の訳語である(西周の元々の訳では「希哲学」と言ったが、後に縮まった)。
ダニエル・カーネマン『ダニエル・カーネマン 心理と経済を語る』(以下『心理と経済』)と『ファスト&スロー(上)・(下)』(以下『F&S』)を再読したので紹介することにする。一般的にはこの分野は実用的側面に注目して読まれがちだが、人間本性の探究という意味で何度読んでもおもしろいものがある。 ダニエル・カーネマンは、実際は生え抜きの心理学者であるが、ご存じの通り「行動経済学」の創始者の一人として知られており、2002年にノーベル経済学賞を受賞している。現在のところカーネマンの知性に日本語で触れられるのはこれら二つの著作だけであるため、どちらも貴重だと言えるだろう(厳密に言えば『心理と経済』は日本オリジナル編集なので、邦訳著作は『F&S』だけである)。 比べてみると、初の一般向け著作である『F&S』の方が有名だが、同書が多くの研究内容を具体例豊富にかみ砕いて解説しているのに対して、『心理と経済』
(この記事は以前に公開していた「常識とは何か(1)」と「常識とは何か(2)」の内容を一つにまとめて加筆したものです) 「常識とは何か」。これを説明するのは簡単ではないだろう。もっとも、言葉にできなくとも人は、「私は常識を知っている」とか、「私は常識をわきまえている」と思っているのであるし、また他の人もそう思っているし現にそうである、とも思っている。あるいはそのこと自体も一つの「常識」なのかもしれないが、ともあれそのあたりの重層構造に注目しつつ、われわれにとってなじみのある概念としての「常識」というものが実際には何であるのかについて、簡単に整理してみることにする。 わかりやすいところからいえば、第一に「常識」とは、読んで字の如く「常に持っていると想定される知識」のことだと言えるだろう。これはつまり「知識」の話であり、「一般常識」などと言われるものが典型だが、要は、想定される範囲において誰もが
なぜ人は宝くじを買うのか。宝くじで当たるためである。宝くじ自体を持っていなければ、宝くじで当たることはない。 では、なぜ宝くじで当たりたいのか。それは、大金を手にしたいからである。あるいは、「夢を買う」という人もいる。 「夢を買う」というのは、どうやら、当たろうが当たるまいが、買って当たるかどうかを確認するプロセスが楽しいらしい。 もっとも、それが理由なら、たまたま当たっても当選金はいらないはずである。しかしそうは言わないから、ただの嘘である。 つまり、人は大金を手にしたいから宝くじを買う。しかし、大金を手にする方法は他にもあるから、これも理由にはならない。 もちろん、大金を手にするのは簡単ではない。だから、少ない労力で大金を手にできる確率にかけていると言うことはできる。 もっともこの場合、大金が当たる確率よりも、宝くじを買いに行く途中に交通事故で死ぬ確率の方が高いことは忘れている。 ある
なぜ本を読むのか。理由は人によっていろいろあるだろう。大きく分けると、(1)必要に迫られて読んでいる場合と、(2)楽しくて読んでいる場合があると思われる。 (1)必要に迫られて読んでいる場合とは、仕事の関係で読んでいるとか、先生に言われて読んでいるとか、何か役に立つ知識を得るべく読んでいる場合などに分かれるであろう。 (2)楽しくて読んでいる場合、多くの人は「本を読むこと自体が楽しい」と言う。しかし、これも分けられる。読むこと自体が楽しいとは言っても、ページをめくる動作にフェティシズムを感じている人は少数派であろうし、インクのしみを眺めて悦に浸っている人もまれであろう。 したがって、ほとんどの人は内容を楽しんでいると思われる。つまり、「読むこと自体が楽しい」とは、読むという動作や行為そのものを楽しんでいるわけではない。読んで内容を理解して、それによって脳内の意識状態が変化することを楽しんで
「教養とは何か」。一見すると不毛な議論になりそうな問いではあるが、これについて考えられる限り考えてみたい。いくつかの議論を参照しつつ、なるべく多様な「教養」観を挙げてみることにするが、特に目新しいことを言うつもりはないので、流し読みしつつ、自分なりに「教養」について考える踏み台としていただきたい。 「教養」とは何かを探るのが難しいのは、そもそも言葉としての「教養」が、定義されないままに比較的自由に使われているからだろう。「教養」はその内容以前に、言葉の意味自体が時代や地域によって異なる。あるいは同じ社会でも複数の意味が混在していたりするが、現代の日本に限っても、その意味は自明とは言えないだろう。 日本における「教養」という言葉は、少々おどろきだが、もともとは"education"の訳語として使われ始めたものらしい。もっとも、それをもって「教養」が「教育」と同じ意味だ、というのは明らかに実感
酒井伸雄『文明を変えた植物たち―コロンブスが遺した種子』を読む。 周知の事実だが、現代のわれわれにとって身近な植物の中には、アメリカ大陸原産のものが決して少なくない数ある。これが何を意味しているかというと、それらはいずれも、大航海時代にヨーロッパ人たちが持ち帰るまではそれほど世界に広まっていなかったということである。こうした植物は「コロンブスの遺産」と呼ばれている。 コロンブスの業績と言えば、有名なのはもちろん「新大陸を発見した」である。本人はインドと思っていたにしても、世界史という意味では「新大陸を発見した」のはコロンブスである(実際はだいぶ前にヴァイキングや、そもそもアメリカの先住民が到達しているが、問題はその後の歴史にどれほど影響を与えたかということである)。 あるいは、それとは別に「人間を発見した」というのもある。つまりコロンブスは、時のヨーロッパ人の多くが抱いていた「外の世界には
理論神経生物学者、マーク・チャンギージーの研究をご存じだろうか。いつかふれようと思って機会を逃していたのだが、ここで簡単に紹介しておくことにしたい。 チャンギージーの著作で邦訳されているのは『ひとの目、驚異の進化: 4つの凄い視覚能力があるわけ』と『<脳と文明>の暗号 言語・音楽・サルからヒトへ』の二冊だが、大まかに言って前者が視覚、後者が聴覚についての本である。ただ、研究方法自体が新しいので、退屈な本ではまったくなく、むしろ多くの人が楽しめるだろう。 両著作とも内容が豊富で示唆に富んでいるが、ここではチャンギージーの研究の基本的な視点と、二冊目の一部で扱われている「音声言語の本質的な特徴」についての話を特にとりあげることにしたい。ちなみに一冊目では、様々な側面における視覚の特徴について、従来の説明を順番に批判していて、下の動画のような内容もある。 www.youtube.com さて、チ
ショーペンハウエル『読書について』(1851)を再読したので、それについてふれてみたい(私の中では「ショーペンハウアー」の方が自然なのだが、引用文献の表記に従うことにする)。読書論の古典として読み継がれているものだが、基本的には現代でも通用するアドバイスを含んでいるものである。 ちなみに、日本語訳ではそのまま『読書について』というタイトルで本が出ているが、実際にはこれは主著である『意志と表象としての世界』の注釈書『余録と補遺』にあるアフォリズム形式の文章である(日本語訳するとたった20ページである)。ただし、便宜上ここでは本として扱うことにする。 最初から余談になるが、『読書について』と言えば、よく引用されるのは次の部分である。 読書は、他人にものを考えてもらうことである。(岩波文庫、斎藤忍随訳。以下同) この一文は、しばしば「名言」として扱われていたりする(同じ言葉は『思索』の中にもある
nekonaga.hatenablog.com もうすぐこのブログも始まってから一年になるが、今トータルで見てみると、アクセス数がダントツで多いのはやはり上の記事である。しかし、皮肉にもこれは一番さらりと書いた類のものであったので、あらためてダーウィン進化論について、今度は力を入れて書いてみることにしたい。気が向いたら続編としてダーウィン進化論の「どこがおかしいのか」についても書こうと思うが、とりあえず本質的な主張を理解しないことにははじまらないので、今回は「何がすごいのか」に限る話である。 ちなみに、「ダーウィン進化論」というのは、「ダーウィンが主張した進化論」であって、ダーウィンの進化を論じたものではもちろんない。しかし、ここではこういう略称がふさわしいのは、単に「ダーウィン」とか「進化論」としたら、それはそれで不正確だからである。これについても煩雑になるので今は置いておくが、要は、進
本など読んでいると、「ノーベル経済学賞を受賞した○○が」みたいな記述に出くわすことは少なくないと思うが、「経済学賞にロバート多すぎではないか」と思ったことないでしょうか。 個人的には何度もそう思って、いつも放っていたのだが、何度放っておいてもまた出くわしてしまって、もうこれに付きまとわれるのが嫌になったので、意を決して調べてみることにしたのである。 受賞者リストはウィキペディアを参照したが、結果、ノーベル経済学賞受賞者にロバートは8人いた。76人中だから、ロバート率は10.5%である。個別に列挙すると次の通り。敬称略。 1987年 ロバート・ソロー 1993年 ロバート・フォーゲル 1995年 ロバート・ルーカス 1997年 ロバート・マートン 1999年 ロバート・マンデル 2003年 ロバート・エングル 2005年 ロバート・オーマン 2013年 ロバート・シラー 賞自体が設立されたの
ノーム・チョムスキー『我々はどのような生き物なのか』を読む。副題は「ソフィア・レクチャーズ」だが、去年3月に上智大学で行われた講演を書き起こしてまとめたものだ。しかし、二日間にわたる講演の全文(質疑応答含む)のみならず、講演直前に行われたインタビュー、そして編訳者による長めの解説も収録されており、全体として「チョムスキー」その人についての格好の入門書となっている。もちろん、最新の見識でもあるので入門に留まるものでもないのだが。 チョムスキーは、どう紹介してよいのかわからないが、ともかく現代世界最高の知性を持つ人物の一人とされている。本書の編訳者の一人である福井直樹氏(MITでの直弟子でもある)は講演前の紹介で、紹介することは「不必要であり、不可能」と述べているが、ともかく短時間では無理、とのことだ。したがってチョムスキーが被引用数ランキング上位に入っていることなどを述べるにとどめている(ま
今週のお題「人生に影響を与えた1冊」 はてなブログの「今週のお題」なるものが「人生に影響を与えた1冊」ということであるので、大きな影響を受けた小室直樹氏の著作から「今読むべき」という意味で『日本人のためのイスラム原論』をとりあげてみたい。 小室氏は、知っている人にとっては紹介するまでもないが、社会科学界の怪物である。経済学、社会学、政治学、法学、心理学、文化人類学等々、あらゆる領域をいずれも時の最先端の研究者から学びつくし、その上で研究を重ねるとともに多くの弟子を育て、なおかつ一般向け書物も数多く著した知の巨人である。その業績や人物像についてはとても書ききれないので、興味を持ったら少なくともウィキペディアを参照されたい(小室直樹 - Wikipedia)。 2010年に逝去なされてからも書店へ行けば多くの本が並ぶ小室氏であるが、今年5月に『小室直樹 日本人のための経済原論』として著作が新た
「フェムニズム(feminism)」という言葉がある。しょっちゅう耳にするわけでもないが、ごくたまにしか耳にしない言葉でもない。むしろ、ますます浸透してきている言葉だと言えよう。しかし、これはいったい何を指しているのか。ひと言で説明できるものであろうか。気になり始めるとどうも頭を離れなかったので、少し考えてみた。 まず、語源的には言うまでもなく「feminine+ism」であり、そのままでは「女性主義」である。もっともこれでは何のことかわからない。そこで語源学辞典をみると、フランス語の「féminisme」に端を発するものだが(1837)、ひとまず現代的な意味といえる「”advocacy of women's rights”(女性の権利の擁護・提唱)」というニュアンスでの使用例は1895年からだという。 つまり、はじまりは「フェミニズム」という言葉が浸透する以前(フランス革命以降の自由の追
最も強い者が生き残るのではなく、 最も賢い者が生き延びるのでもない。 唯一生き残るのは、変化できる者である。 というダーウィンの「名言」があるらしい。先日とある記事を読んでいたら紹介されていて、私ははじめて知ったので気になって読み進めてみると、なんと、「ビジネスで生き残るにはダーウィンも言っているように変化するしかない、そうしないと生き残れない」ということであった。 まあどんな言葉で元気が出るかは好みの問題なので別に否定はしないが、ダーウィンの引用に関しては一見したところ曲解も甚だしいので、そもそもダーウィンがこの言葉をどこで言っているのかを調べてみた。すると、言ってなかったことがわかった。どうも誤解されたまま引用されたのがそのまま教訓として広まってしまったようだ。 ダーウィンの進化論を知っている人なら、上の言葉をダーウィンが言ったと聞いてもどことなく疑問を持ちつつ納得はするかもしれないが
nekonaga.hatenablog.com 「時間は流れているのか」について考えているところであったが、前回、「時間は流れている」とする場合の類型を簡単にみた。今回は、「流れていない」と考えることもできる場合についてみてみることにする。 まず、「現在」「過去」「未来」という区分で言えば、われわれはふつう、「現在」だけが実在しており、過去や未来は実在していないものと考えている。つまり、過去はもう過ぎたから「ここ」にはあらず、未来はまだ来ていないから同様に「ここ」にはないとみる。ここで重要なことは、いずれにしてもわれわれは、「現在」なるものを決まって「一瞬」だとみなしていることである。これは、けっこう核心をついている直観である。 なぜなら、科学的に言えば、われわれが「現在」を認識する方法と「過去」や「未来」を認識する方法は、実は同じだからである。冷静に考えてみればそうだろう。そもそも、過去
「読書」を語るのに切り口はいろいろあるが、ここでは「本を読む」という行為について考えてみたい。 「本を読む」ときに何が起こっているかと言えば、文字言語を順を追って認識していくことによって、「本」というひとまとまりの形で表現されている「内容」を認識することであろう。つまりは文字を読んで何かを認識する。したがってそこで起こるのは「文字」という媒体を通しているとは言え、内容としての本と読者の直接的な関係である。だから「本を読む」という行為は、現代ではふつう「一人でやる」ものである。 もっとも、黙読が広く「ふつう」のこととなったのは10世紀ごろのことだとされているから、読書の歴史において黙読の歴史がいちばん長いのかは定かではない。アウグスティヌスの『告白』には、アンブロシウス(4世紀に生きた人である)が一人で「声を出さずに」本を読んでいる様子が出てくるが、「ところで彼が読書していたときには、その目
岡田尊司著『統合失調症』を読む。 新書ながら、理論と実例をバランスよく入れつつ、症状や認知、歴史的背景、社会との関係などが平易に解説されており、統合失調症理解についての入門書として広くおすすめできるものである。 幅広く多くの本を読む読書家でも、統合失調症に限らず精神疾患を扱った本は特別な理由がない限りあまり読まないかもしれないが、本書によれば統合失調症をもつ人は百人に一人と決して珍しいものではなく、あるいは自覚していないだけの人も大勢いると想定されるから、実感としては疎遠でも大人の教養としては明らかに無視できない分野である。 ちなみに、近年では多くの精神科医が本を出しているが、少なくとも著者はあくまでも治療行為の延長として執筆を行っているというスタンスのようである。 そもそも統合失調症とは、幻聴や妄想、無気力、自我障害(自己とそれ以外の境界があいまいになる)などの症状がみられる疾患で、たと
時間は流れているのか。一般的には、流れているであろう。しかし、流れていないという考え方も可能であるから、これについてみてみたい。結論から言えば「時間は流れていない」と考える方が現代的には整合性がとれるのだが、とは言え「時間は流れている」という考え方の方が一般的には今でも主流であるから、今回は先にそちらの方をみておこう。 人類の歴史にみられる「時間は流れるものである」という考え方は、農耕が始まってから発生したとする説もあるが、いずれにしても大きく分けて三つのものがある。これは、一口に「流れる」とは言っても「どう流れるのか」というところから出てくる違いである。 一つは、「時間は過去から未来に流れる」というものである。これは西洋で伝統的であったものだが(一般的には今でも主流だろう)、この場合の問題は、過去から未来に流れる途上として現在があるのなら、過去によって現在も未来も規定されてしまうところで
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