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大谷翔平
ohtsubaki.jp
あきらめていた労働者が声を上げる瞬間 —2013年、3年9ヶ月にわたった大椿さんの労働争議が終結。そして大阪教育合同組合(以後、教育合同)の専従役員として本格的に働き始めましたね。 私の争議を担当してくれた専従役員の方からの誘いもあって、争議中も教育合同の仕事を手伝っていましたが、争議終結後は腰を据えて、私も専従役員として働くことになりました。 2014年にその方が退くことになり、専従役員は私ひとりになりました。小さな労働組合ですから、専従役員は何でも屋です。労働相談、団体交渉(※注)(以下、団交)はもちろんのこと、組合費の管理、機関紙の発行、集会の企画、共闘労組や市民団体とのやりとり等。時々手伝いに来てくれる人はいましたが、基本的には自分で仕切らなければなりません。労働組合の既得権益とか、どこの話だって感じです。 特に団交は、最初の頃、毎回ドキドキしながら憂鬱な気分で行っていました。たい
すでに私たちは、一緒に生きている ー大椿さんのパートナーは、外国人なんですよね? はい、スペイン・バルセロナ出身のカタルーニャ人です。最初は選挙の中で、それをオープンにすることには抵抗がありました。日本に限らず、世界的にも排外主義の空気が広まりつつある今、「外国人をつれあいにもつ」ということが選挙活動にどう影響するだろうという不安と、彼にバッシングの矛先が向けられるんじゃないかという不安があったんです。 それと、これは労働組合の執行委員長をしていた時から意識してきたことですが、弾圧の材料に使われるかも知れないという恐怖がありました。労働運動の歴史は、国家権力からの弾圧にどう対峙してきたかという歴史だとも言えます。今、連帯ユニオン関西地区生コン支部に向けられている苛烈な労働組合弾圧を見てもわかるように、どんな無理筋な理由でも、逮捕しようと思ったら逮捕する、それが国家権力というものです。 彼の
正規雇用で安心して働き続けたかった —現在、大椿さんは労働運動を活動の中心に置かれています。そのきっかけは何だったのですか? 自分自身が有期雇用の末に雇い止めとなった経験からです。私が大学を卒業した1996年、すでにバブルは崩壊し、新卒採用は超氷河期でした。私はさまざまな仕事をしながら生活していました。ただ、すべて非正規雇用です。 バブルのころにはじまった「フリーター」という言葉がすでに市民権を得ていた時代でした。「縛られない自由な働き方」「新しい雇用形態」「自分探しのつなぎ」として「フリーター」は位置づけられていました。私は女性問題にかかわる仕事に就きたいと思っていましたが、そんな仕事はほとんどなく、就職先が見つからないまま卒業しました。それからはさまざまな非正規労働に携わりつつ、少しでもいい仕事が見つかるように、社会福祉士や保育士の資格を取りました。最初は「自分探し」だったかもしれませ
多様な人の政治参加を阻むものは —初めての選挙、しかも国政です。活動を始めて、あらためて感じることはありますか? 選挙に出ると決めてから、「選挙って、“出たい”と言って出られるものじゃないんだな」というのをすごく実感してます。周りから「出てくれ」と推されて出るものなんだ、と。 あまりにもいろんな方から「決意してくれてありがとう」と言われるんで、最初は驚いたんです。でも今は、それぐらい候補者を見つけることが大変なんだということがわかってきました。 今回、私は「選挙という機会を通じて、非正規労働者で雇い止め解雇に遭い、労働組合を通じて闘った君の意見を広く訴えてみないか」というお誘いがあったので決断に至りました。でも日本の選挙制度は誰にでも開かれていて、誰でも挑戦できる制度にはなっていないですよね。とりわけ国政はね。 まず、供託金だけで比例区なら600万、選挙区なら300万が必要なんですよ。元・
実家や地元の文化に 生き方を左右される —シングルかカップルか、子どもがいるかいないか、正規か非正規か。立場や状況の違いによって、女性たちが出会えない、つながりにくいという現状があると思います。大椿さん自身はどう感じていますか? 私は岡山県のすごい田舎で生まれ育ちました。そのまま地元で暮らしている同級生も多くて。数年前に同窓会があって参加したら、地元で、20代前半に結婚した子が多かった。すでに離婚して再婚したという子もいるし、子どもが3人いる子も結構います。「私がやってないこと、全部やってるなー」みたいな気分になりました。 高校卒業後、県内で就職・進学した同級生と、大学進学のために県外に出て、その後も自分で働いて暮らしていくという道を選択した自分とでは、暮らしぶりがあきらかに違うなぁと思います。自分があのまま地元で暮らしていたら、どんな人生だったかな?と時々考えます。窮屈だった気もする一方
反差別の原点は部落差別の体験 —プロフィールに「好きな言葉」として、水平社宣言(注1)の「人の世に熱あれ、人間じんかんに光あれ」を挙げられています。この言葉を選んだのはなぜですか? 子どもの頃、身内で部落差別を体験しました。いとこのお姉ちゃんが被差別部落出身の男性と駆け落ちをして結婚したんです。その駆け落ちの前後に居合わせてたんですよね。私は12歳、小学6年生でした。 当時は毎年、年末年始には親戚の家に集まって過ごしていました。12月30日、20代だったいとこのお姉ちゃんが、私ともう1人のいとこを「喫茶店に行かない?」と誘いました。そして3人でお姉ちゃんの車に乗って出かけたんです。 喫茶店に着くとお姉ちゃんは「2人はここに座って」と私たちを別の席に座らせ、パフェか何かを頼んでくれました。そして彼女は私たちとは違う席に座り、後から来た男の人と話をしてたんです。 しばらくして店を出る時、お姉ち
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