サクサク読めて、アプリ限定の機能も多数!
トップへ戻る
大谷翔平
orion12.hatenablog.com
森羅万象すべてのモノには波動があります。 波動があるというのは常に動いているということです。 動き続ければブレやらズレやらユガミやらが必然的に現れます。 そのブレやらズレやらユガミやらを毎日コツコツ修正する作業がある意味『生きる』ということなんじゃないでしょうか。 逆に言えば、生きている限り「心のバランスを常に取り続けること」が必要だということです。 人間はその「バランスを取る」というところからズレてしまうと心が迷います。 でも、バランスを取る作業っていうのはやっぱり地味でしんどいんですよね〜。 達成感や充実感が少ないことの方が圧倒的に多いですから… なので、「あいつは (一方に) 突き抜けててカッチョいい〜!」みたいな感覚を持つ人が少なからずいらっしゃるのも理解できます。 スパッと振り切れたような言動や行動の方に人はスカッとした爽快感を感じやすいモノですからねぇ。 どこかハッキリしないバ
世の中には「神社仏閣にはカミサマが居るから悪いモノは近付かないだろう」と思っている人も結構いらっしゃるのかも知れません。 ていうか神社巡り大好き系のスピリチュアルな人々は無邪気にそう信じている人の方が多いような気がします。 でも、ハッキリ言って神社仏閣にいるエネルギーってのは玉石混淆です。 簡単にいえば清らかなモノもいれば穢れたモノもいます。 特に大きな神社とかは本殿のものとは違う社を敷地の中にいくつも祀ってたりしますしね。 鬼が出るか蛇が出るか、色んなモノかそこにはいます。 それでも、そういう場所にいるチカラの強い人外のモノはカミサマ的に崇められていることが少なくありません。 その勢力範囲が神社仏閣の外まではみ出してることもあります。 カミサマ的に崇められているといっても絶対善のGODみたいな存在とは元々思われてません。 御利益もあるがタタリもあるいわゆる『神様』として認識されていたりし
ぶっちゃけた話いまの世の中生きることのハードルを上げすぎな気がします。 それは個人的にも社会的にも『純度100%の完璧さ』みたいなモノをみんなが求めすぎているってことを示しているんじゃないでしょうか? だから、「昔の人はこんなお粗末クンではなかった!」とか「日本人 (或いは人間) は劣化した!」とかおっしゃって嘆かれるのです。 「最初からそんなにハードル上げてちゃ、そりゃガッカリするだろうな」と感じるのです。 人間というモノに対する期待値があまりに高すぎるだろうと… 人間に対する期待値を上げるってことは、結局自分に対する期待値を上げてるということでもあります。 自分に『純度100%の完璧さ』を求め続ければ、そりゃ生きづらくもなりますよ。 だから、生きにくい世の中を少しでも生きやすくするには、「自分の中の生きることのハードル」を少しずつでも下げる方向へ持っていくことが肝要です。 まぁ、一度上
生物と無生物ではエネルギーの強さも量も全く違います。 一言にいえば無生物のエネルギーは生物に比べて圧倒的に微弱なのです。 例えば人間の『想念エネルギー』に仮に100という値を与えた場合、所謂パワーストーンと呼ばれるような『鉱物のエネルギー』の値は1.0~2.0くらいです。 生き物と生き物でない物の『エネルギーの強弱』の差とはかくの如きものです。 もちろん無生物には無生物でそれぞれ固有の波動エネルギーは存在します。 ただ、生きている者のエネルギーとはエネルギーの強さ・大きさにおいて比較対象にはならないってことなのです。 なので、もし石だのお札だのといった所謂スピリチュアルな品物から何らかの強烈なエネルギーが出ているとしたら、その『物体』そのものから発せられているモノではないでしょう。 もっとハッキリいえば『物質としての』品物自体にそんなチカラは本来ありません。 であるなら、そのチカラを与える
評価とは他人がするものです。 どこまで行っても他者によって為される行為であって、自己評価って言葉自体は矛盾を孕んだモノだと個人的には感じます。 自分がしなくちゃならないのは評価ではなく『認識』です。 『真っ当な自己認識』ってヤツが必要なのではないでしょうか? 評価とはある一定の基準のもとに『物ごとに優劣を付けること』です。 もっと下世話な言い方をすれば『人や物に値札を貼ってまわること』です。 自分で自分に値札を貼る者は、必ず自己肯定感が低下していきます。 自分で貼った値札と他人が貼った値札には落差が生じるからです。 大抵自分の貼った値札の方が他人の値札より安くなります。 だから、自分の評価を気にする人ほど自己肯定感が低くなるのです。 昨今の社会では自己肯定感の低さが問題視されることが多いです。 それは至極当然なのです。 他者からの評価を殊更に可視化される世の中だからです。 他者からの評価を
『この世』という場所は、言ってみれば学校の夏休みのような世界だと思うのです。 それは「人生という限られた時空間の中に、自分がやるべき宿題を抱えて敢えてやって来ている世界である」という意味です。 その宿題に対して、どういう取り組み方をしようとそれぞれのまったくの自由です。 ただ、亡くなった後に例外なく提出が求められます。 そして、提出してもちゃんと出来てなければ『繰り越し』になります。 リセットされて無かったことになるなんてことはないのです。 なので、この「夏休みの宿題」が出来なかった人が繰り越しの課題に挑戦し直すのが所謂一つの生まれ変わりだと思われます。 もしそうだとしたら、どんな偉人聖人でもこの世に生まれてきてる時点で「お前はすでに落第してる!」ってことなのです。 とはいえ厳密にいえば「人は生まれ変わらない」と個人的には思っています。 じゃあ、死んだらそれで終わりかといえばそうではなくて
波動のレベルの高いモノはフワッと軽くてスカッと明るく、波動のレベルの低いモノはドヨヨ~ンと重くてジトッと暗いのです。 別の言葉で言えば波動のレベルの高いモノは穏やかで温かく、波動のレベルの低いモノは荒々しく冷たいのです。 波動のレベルというのは誰かの『正しさ』を表すバロメーターではありません。 また何らかの『チカラ』を計るための物差しでもないのです。 ただ、人が自然で無理なく生きるための目印には十分なると思っています。 波動のレベルを見る時に一番分かりやすいバロメーターは『荒々しさ』です。 その荒々しさを見る一番分かりやすい目安が使っている『言葉』です。 人は日頃から頻繁に使っている言葉の波動に共鳴して波動のレベルが変化していきます。 逆にいえば自分の波動のレベルに見合った言葉を好んで使うようになるとも言えるでしょう。 荒々しい言葉ばかり使ってれば最初は穏やかな気持ちでいたとしても段々荒々
「病原菌の抗生物質に対する抵抗力がどんどん強くなっているせいで、抗生物質で治すことができない病気(軽い病気も含めて)が増加中である」といような話について以前ちょこっと触れたことがあります。 元々は雑誌か何かの記事だったと思いますが… 結局抗生物質を使えば使うほどそれに耐性を持つ強い細菌をやがては生み出されてしまうらしいです。 強く抑えれば抑えるほどかえってより強いものが現れるということです。 例えば何かに触ればバイ菌やウイルスが手に付きます。 手を洗ってもまた何かに触ればたくさん付くのです。 出来るだけ手を清潔にするのは可能ですが、それには自ずから限界があります。 要するにキリがないのです。 キリがないってことはいくら何をやっても100%の予防などあり得ないってことです。 「予防もほどほどに!」ってことだと思います。 これは病気に関してだけではありません。 メンタルなことでもそれは同じです
人間世界はまるで遠心分離機にかけられたように白と黒、上と下、右と左という風にハッキリと分かれ続けているように見えます。 その現象は止まることを知らず、様々なモノの違いがどんどんくっきりしてきました。 昔ならあったはずのグレーゾーンが無くなったために波動的な『緩衝地帯』もまたなくなったのです。 アナログ放送が地上デジタルになったように残酷なまでに『素の生地』がハッキリ見えてしまうようになりました。 その傾向が一気に強まったのは直近では東日本大震災の起こった2011年からです。 ただ、そのそもそもの発端は1989年にあったと思っています。 そう、ベルリンの壁が崩れ、所謂『東側』の世界が崩壊を始めたあの年です。 日本で何があったかと言えば昭和天皇が1月7日に崩御され、平成の御代が始まりました。 「これは決して偶然ではない」と個人的には強く感じております。 実のところ『時代』とは必然に彩られている
人間は誰しも主観的な存在です。 純粋に客観的な人間など一人も存在しません。 なので、大なり小なり心には偏りが存在しています。 偏りのない人間など何処にもいないのです。 元々偏っているんだからその偏りを小まめに修正する必要が出てきます。 そうしないとそのうち心は振り切れてしまうからです。 心が振り切れれば振り切れるほど物事を単純化してで捉えるようになっていきます。 偏りが大きくなった分、心の中身が詰まってないスカスカになってる箇所が増えていくからだと思います。 そうなるとスカスカになった部分には何とか中身をみっちり詰めたくなるのでしょう。 まあ、半ば無意識にですが… で、大抵は現実とズレたファンタジーな内容が詰まることが多いです。 元々偏りのクセが強いのに、そのままの状態で心にナニカ詰めるから、より振り切れた方向へズレていくのです。 偶然ではなく必然としてね… なので、世の中には「あいつは
今ここにある人間の世界は競争社会です。 ここでいう競争社会ってのは、競争すること自体が『良いこと』として奨励されている世界を指します。 一般社会の常識で解釈するならば、「競争を勝ち抜くより強いチカラを持つ」ってのが生きていく上での正しい『答え』なんでしょう。 今ある競争社会を生き抜くための前提としてはね… 人間の世界が競争社会であることを単純に『今目の前にある事実』として認識することはもちろん大切でしょう。 ただ、『目の前にある事実』が『本来あるべき姿』なのかどうかはまた別の話です。 ひょっとしてそれは、社会なり組織なりにマインドコントロールされ『飼い慣らされた状態』に過ぎないのかも知れないからです。 個人的には何事にも競争原理と自然淘汰が付いて回るという進化論的な価値観は人間が後付けで勝手に考えた理屈だと考えています。 そもそも「この世界では何でもかんでも競争しなくちゃ生きていけないのだ
この世界では膨大な数の思念が一カ所に集まり凝縮することによって新たな別のエネルギー体を生み出すということが実際にあり得るのです。 例えば強烈な怨みのエネルギーがたくさん結び付けば『怨みの精霊』のような新たなエネルギー体に生まれ変わります。 あたかもポイントカードにポイントがMAXに貯まって何か新しい賞品に変わるように… 私はそれを『物の怪』と呼んでいます。 まあ、一般的な言葉で言えば自然霊というのが一番近いのかも知れません。 この世には途轍もない数の妬み、恨み、怒りなどの暗くねっとりとした情念があります。 そういった情念が一つの集合体となり、ある種発酵というか化学変化のようなものを起こして、一つの意思あるエネルギー体となったのが物の怪の中でも『ヘビ』と呼ばれるモノです。 物の怪のヘビの特徴の一つが『縁結びと縁切り』です。 人間関係を引っ付けたり引き離したりするのが得意なのです。 ご縁といえ
森羅万象すべてのモノには波動があります。 波動があるというのは常に動いているということです。 動き続ければブレやらズレやらユガミやらが必然的に現れます。 そのブレやらズレやらユガミやらを毎日コツコツ修正する作業が『生きる』ということなんじゃないでしょうか。 だから、私は自分のことをいつでも必ず正しいなどとは思わないようにしています。 「そこそこイケてることもちょっとは言ってんじゃないの〜」くらいのことはたまには思ってますがね(^_^;) 人間誰しも間違うことはあるし、勘違いしてしまうこともあります。 「それがあって当たり前!」ってくらいの前提に立っててはじめて、バランスを取りやすくなるんじゃないでしょうか? ここ十数年「自分に『ブレない軸』だの『中心』だのを持ちなさい!」てなことをおっしゃる方が増えました。 でもね、そういう軸やら中心やらにもコペルニクス的な転回は起こったりします。 少なく
この世において肉体のある者のエネルギーは肉体のないモノに比べて圧倒的に強いということを以前述べたことがあります。 それが生身の人間の強みであるとね。 生き物の生は肉体と魂と心が結びついているが故に成り立っています。 肉体という器に魂というエネルギーの塊が入った状態で年月を経ると心が育まれていきます。 無生物のエネルギーは生物のエネルギーに比べて圧倒的に微弱です。 それは肉体も魂も心も持ち合わせてないことに由来しています。 スピリチュアルな人々の多くがお好きなモノに所謂『パワーストーン』ってのがあります。 所謂『パワーストーン』ってのにスピリチュアルな価値を見出すのは「特定の鉱物には他の物質にはない特別で強力な眼に見えないチカラが宿っているに違いない」という考え方が根底にあるからだと思われます。 ただ、最初にも申し上げたように、無生物のエネルギーは微弱です。 逆にいうと生物のエネルギーは無生
目の前に100人の人がいれば100通りの「正しい!」が存在します。 みんな自分が正しいと思っているからです。 もしその100人の中の1人が自分の「正しい!」を何処までも妥協なく押し通そうとすれば最終的に何らかのチカラを行使して相手を捩じ伏せるしかなくなります。 万人が心から納得する「正しい!」なんて何処にもないからです。 知力・暴力・権力…それが如何なるチカラであれ、チカラを年がら年中行使し続けることを是とするならば、遅かれ早かれ他者に対する『オラついた気持ち』が染み付いていくでしょう。 『正しいの比べっこ』というのは本質的に「やってやられて」の世界ですので、心は殺伐とせざるを得ません。 じゃあ、『正しいの比べっこ』というのは本質的に「やってやられて」の世界ってのはどういうことかというと正しい!って想いは自己完結しないモノであるということです。 「正しい!って想いは自己完結しないモノである
菜食主義の人の頭の中では、人間>哺乳類>魚類>植物という風な構図がピシッと頭の中に入ってるんだろうなと思うのです。 人間を頂点とした生物のピラミッドを描き、人間に近いものほど霊的に偉いんだという生物観をお持ちってことです。 そういった生物観を持った人ははスピリチュアルな世界に少なくないように感じます。 そういう人たちが、例えば「亡くなった動物の多くが動物霊という低級な存在になって、人間に悪さをする」みたいなことをおっしゃったりわけです。 もちろんどのような思想信条をお持ちになろうとそれぞれの全くの自由です。 「人間は万物の霊長で地球の王様なんだぞ!」と考えたってその人の自由です。 ただ、個人的にはそういう考え方にはすごく違和感がありますけどね… とにかくスピリチュアルな世界には「この世では人間が一番凄い!」と当たり前のように信じている人が相対的に多いように感じます。 神さま云々っていう人は
他人の悪口・陰口を日課のようにしている人が世の中には大勢いらっしゃいます。 悪口・陰口をしょっちゅう発信するということは、その元となる『心の状態』をずっと維持し続けているということを表しています。 そして、そういう『心の状態』を維持するためには、悪口・陰口の元となる想念エネルギーを日々量産して貯め込んでいるということです。 人間無い袖は振れないというか、自分の中に無いモノは出てきませんから。 当然悪口・陰口の素になるエネルギーは波動のレベルの低いモノです。 波動のレベルの低いドロドロとしたモノをわざわざ製造してコツコツと自分の中に貯め込んでいるわけです。 ハッキリ言ってそれは心の毒です。 だから、悪口・陰口ってのは「表面に毒をべったり塗った毒針を口に含んで飴玉みたいに舌でコロコロ転がしてから、相手に吹き付けているようなもの」なのです。 悪口・陰口の元になる『心の毒』を一度自分の中に充填しな
ぶっちゃけた話いまの世の中、生きることのハードルが上がりすぎな気がします。 それは個人的にも社会的にも『純度100%の完璧さ』みたいなモノをみんなが求めすぎてるってことです。 だから、「昔の人はこんなお粗末クンではなかった!」とか「日本人 (或いは人間) は劣化した!」とかやたらと言いたがるのです。 「そんなにハードル上げてちゃ、そりゃガッカリするだろうな」と個人的には感じます。 人間というモノに対する期待値があまりに高すぎるんじゃないだろうかと… 人間に対する期待値を上げるってことは、結局自分に対する期待値を上げているということと同義です。 自分に『純度100%の完璧さ』を求め続ければ、そりゃ生きづらくもなりますよねぇ。 だから、生きにくい世の中を少しでも生きやすくするには、「自分の中の生きることのハードル」を少しでも下げる方向へ持っていくことが肝要かと思います。 まぁ、一度上がったハー
怪物と戦う者は、その過程で自分自身も怪物になることのないように気をつけなくてはならない。深淵をのぞく時、深淵もまたこちらをのぞいているのだ。 哲学者フリードリヒ・ニーチェの有名な言葉です。 眼に見えない世界に関わろうとする者なら特に上記の言葉は肝に銘じられた方が良ろしかろうと存じます。 比喩ではなく、『そのモノずばり』の意味としてね! 霊的な話でいえば、こちらから眼に見えない世界を探ろうと思えば、眼に見えない世界からのこちらへの干渉も強くなるってことです。 それもまた「深淵をのぞく時、深淵もまたこちらをのぞいているのだ」って話の一つです。 世の中には霊能者と呼ばれるような人々がいらっしゃいます。 簡単にいえば、心霊と交流する能力がある人のことです。 だから、霊能者ってのもまた深淵を好んで覗く者と言えるでしょう。 ならば、すぐそばにある「自分自身も怪物になる」危険を友として進む覚悟があって然
人間というのは本質的に無知な生き物です。 人間ごときが何でも分かるわけがないのですから当たり前です。 でも、知らない部分は何かで補わなきゃなりません。 その何かとは簡単にいえば『想像力』です。 ここでいう『想像力』とは知らないなら知らないなりに一生懸命察したり慮ったりしようとする心の働きのことです。 先ず自分の無知を皮膚感覚で知ることが『想像力』を養う第一歩です。 逆に知ったつもりになればなるほど『想像力』を失っていきます。 「慮るチカラが弱い」というのは「心の視野が狭い」ということです。 ここでいう心の視野の狭さとは「人間に本来備わっているバランス感覚によって感じられるはずの感情や感覚が十分感じられなくなった状態」のことです。 心の視野が狭くなるほど周りの人や出来事などがちゃんと見えなくなります。 見えてるのは『自分』から見て半径3メートルくらいのデフォルメされたマイワールドです。 そし
以前「絶対外れないようになってるリバーシブルな予言」って話をしたことがあります。 先ず「近いうちに未曾有の天変地異が日本に襲いかかります!」とか予言めいたことを語ります。 「ただし、大きな祈りが実践され成就すればその天変地異は回避されます」と続けるのです。 ここにすでにリバーシブルな伏線が張ってあります。 表: まず予言めいたことを意味深に語る → 該当するようなことが起これば「言っていた通りになってしまいました!」と深刻な顔でいう 裏 : まず予言めいたことを意味深に語る → 該当するようなことが起こらなければ「大いなる祈りのチカラで最悪の事態は回避されました!」とキメ顔でいう つまり、言ったことが起ころうと起こるまいと言い方一つで当たったことに出来るカラクリです。 これを適宜やれば、どう転んでも『絶対外れない予言』が完成します。 で、所謂『引き寄せの法則』ってのも、この「絶対外れないよ
所謂『憑かれる』といってもオカルト映画かなにかみたいにド派手な怪奇現象が起こるなんてことはそうそうはありません。 もし起こったとしても随分状況が進行した段階でのことです。 それも誰にでも分かることってのは少ないでしょう… 憑きモノってのは最初はその人の内側からジワジワとゆっくり浸食していきます。 浸食した部分はその人じゃないモノにアハ体験のように差し替えられていくのです。 ここでいうアハ体験というのは、「差し替えられた部分がご本人からは分かりづらくジワジワと変容する」という意味です。 強く意識して見れば分かるかもしれませんが、そうじゃなければ認識しにくいでしょう。 差し替えられた部分が大きくなればなるほど周りの人からは明らかにオカシク見えるようになります。 良くない意味で変化がその人の言動や行動の表面にまで現れだすからです。 ただ、幾らオカシクたってその人自身が自分のオカシイことにピンと来
人は誰しも自分の見たいものを見たいように見ているものです。 「見たいものを見たいように見ている」とは「その人の見ている所謂『現実』というのが潜在意識やら先入観やらによって半ば無意識に集められた出来事の集積に過ぎない」ということです。 その人好みに取捨選択されコーディネートされない『事実』は何処にもないということなのです。 簡単に言えば「見方が歪めば見ている世界もそれに連れて歪む」ってことです。 そして、見ている世界の歪みが恒常化すればするほど「これこそが真実そのものなのだ!」と本気で考え出すのです。 歪みが恒常化するってのは簡単に言えば「慣れる」ってことです。 人間は何にでも慣れるものです。 良くも悪くもほっとけば与えられた環境にドンドン慣れていきます。 もし慣れたくないなら、慣れてしまう前に「これは自分の持ち物 (感覚・感情・思考)ではない!」と自分自身の心にハッキリと認識させる必要があ
世の中には『啓蒙したがる人』ってのが少なからずいらっしゃいます。 ここでいう『啓蒙したがる人』とは他人に対して「自分が『正しい道』に教え導かねばならない!」という暑苦しい使命感を持った人のことです。 人は「周りの人間より自分は優れている!」という根拠のない優越感を持ってしまうと「無知蒙昧な人間たちを自分が啓蒙しなくちゃいけない!」という傍迷惑な使命感に駆られたりするようです。 そして、それこそが「善を為すことだ!」と信じていたりします。 そういう人は必然的に他人に対して押し付けがましくなっていくものです。 何故なら「分かってない奴らにオレ様が本当のことを教えてやるよ〜!」って感じの『熱い想い』が心の底にあるからです。 簡単にいえば「善意にあふれた上から目線」なわけです。 では、そもそもどうして「善意にあふれた上から目線」になってしまうのかというと「正しいことは一つだけ! その正しいことを知
ヒーリングなどしておりますと様々なエネルギーに出会うことになります。 日々発見と言っても過言ではないでしょう。 いわば不可思議の連続です。 全てが分かるようになることなど一生ないと思います。 誰でも、眼に見えない世界に真摯に向き合えば向き合うほどアマゾンの密林に踏み込んだ生物学者のような気分になるでしょう。 発見がそこら中に転がっている世界だってことです。 アマゾンとか行けば新種の生物がわんさかいそうですよね。 多分いまだ人類の知らない生き物たちがそこら中に当たり前に居るんだと思います。 我々のいるのはそういう世界だってことです。 そういうっていうのは「人間の無知に基づく新発見に溢れている世界だ」ということです。 敢えて大げさに言えば、人間の中身は1%の知識と99%の無知で出来ているのです。 もし眼に見えないモノと対峙することになった時に、その99%の無知を認識出来てなければ危険な局面を迎
このブログではこれまでに『根性論』というものについて繰り返し書いてきました。 ここでいう『根性論』とは「気力が充実さえしていればよっぽどのことがない限り世の中大抵のことは精神力で乗り切れるのだ〜! 」みたいな考え方です。 この根性論の仲間に「問題ってのは自分で作ってるだけなんだよ!」的な『全ては気持ちの持ちよう論』があります。 これはいつでも「敵は我にあり!」っていう考え方が先に立ってる感じです。 「自分さえしっかりコントロールすれば何でも解決出来るのだ!」という前提が最初にあるのです。 で、その『全ては気持ちの持ちよう論』の発展形が『自己責任論』です。 ここではそれをスピリチュアル系『自己責任論』とでも申し上げておきます。 ここでいう『自己責任論』というのは「やると心に誓って物事に当たれば、どんなことでも出来ないことはない。」という前提からの「出来ないのは出来ない奴が悪いのだ」という考え
日々量産される自分自身に向けたネガティブな想念エネルギーというものは、年月を追うごとに膨大な数に上っていきます。 そのエネルギーは数量に比例してチカラを増し、本来の主たる「顕在意識」を差し置いて本人の思考や行動をガッツリと支配しているのです。 私はそれを『自縛のエネルギー』と呼んでいます。 『自縛のエネルギー』の始まりは大抵幼児期における人との関わりの中から生み出されます。 最初は母親か父親のどちらかである場合が非常に多いです。 親の言葉や行動によってトラウマが生まれ、そのトラウマを元に『自縛のエネルギー』が生まれていくってことがよくあります。 親が子どもに与えてる影響は目に見える部分も当然大きいですが、目に見えない部分もまた大きいのです。 あと、親からもらった想念エネルギーもまた子どもの人生に大きな影響を与えます。 小さな子どもの頃のモノは特に影響大です。 例えばそれは「あれをしろ!」と
この世界では膨大な数の思念が一カ所に集まり凝縮することによって新たな別のエネルギー体を生み出すということが実際にあり得るのです。 例えば強烈な怨みのエネルギーがたくさん結び付けば『怨みの精霊』のような新たなエネルギー体に生まれ変わります。 あたかもポイントカードにポイントがMAXに貯まって何か新しい賞品に変わるように… 私はそれを『物の怪』と呼んでいます。 まあ、一般的な言葉で言えば自然霊というのが一番近いのかも知れません。 意識的であれ半ば無意識であれ、物の怪のチカラを継続的に借りている人のことを私は『物の怪使い』と呼んできました。 それは単に物の怪に付かれた人ではなく、物の怪の波動に共鳴し同調している人のことを指します。 簡単にいえば『物の怪使い』とは物の怪のエネルギーとコラボしている人です。 コラボすることでそれぞれが何らかのメリットを得ているのでしょう。 よくある実例としては物の怪
目の前に100人の人がいれば100通りの「正しい!」が存在します。 みんな自分が正しいと思っているからです。 もしその100人の中の1人が自分の「正しい!」を何処までも妥協なく押し通そうとすれば最終的に何らかのチカラを行使して相手を捩じ伏せるしかなくなります。 万人が心から納得する「正しい!」なんて何処にもないからです。 知力・暴力・権力…如何なるチカラであれ、チカラを年がら年中行使し続けることを是とするならば、遅かれ早かれ他者に対する『オラついた気持ち』が染み付いていくでしょう。 『正しいの比べっこ』というのは本質的に「やってやられて」の世界ですので、心は殺伐とせざるを得ないからです。 じゃあ、『正しいの比べっこ』というのは本質的に「やってやられて」の世界ってのはどういうことかというと正しい!って想いは自己完結しないモノであるということです。 「正しい!って想いは自己完結しないモノである
次のページ
このページを最初にブックマークしてみませんか?
『orion12.hatenablog.com』の新着エントリーを見る
j次のブックマーク
k前のブックマーク
lあとで読む
eコメント一覧を開く
oページを開く