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大谷翔平
paperwalker.hatenablog.com
『絵葉書を読む』第7回。今回の絵葉書はこちら。 『(明治四十三年八月東京大出水之実況)本所割下水附近』 明治43年8月中旬。 梅雨前線と2つの台風の影響により、関東地方は集中豪雨にみまわれた。 この豪雨によって、関東地方全体で死者769人、行方不明者78人、家屋の全壊または流出は5000戸以上という甚大な被害が出た。東京府だけでも約150万人が被災したという。(Wikipedia参照) 上の絵葉書は、豪雨後の東京府本所の様子を伝えている。 「割下水(わりげすい)」というのは道路の中央に造られた掘割のことで、江戸時代の初期に造られた。下水といっても生活排水を流すためのものではなく、雨水を効率よく川に逃がすためのものだ。幅はおよそ一間(けん)から二間〔約1.8m〜3.6m〕ぐらい。(ちなみにこの本所の割下水があったところは、現在では「北斎通り」という道になっている) 絵葉書には「割下水附近」と
ヘレーン・ハンフ編著『チャリング・クロス街84番地 増補版』(江藤淳訳、中公文庫、2021)が出たので読んだ。 たしか四半世紀ぐらい前に旧版を読んでいるはずだが、細かいところは忘れていたので、新鮮な気持ちで読むことができた。 著者のヘレーン・ハンフはニューヨーク在住の作家。といっても当時はまだ有名な作家ではなく、テレビのシナリオや子ども向けの本を書いて糊口をしのいでいた。 そんな彼女の楽しみは読書なのだが、いつも読むのは英文学やギリシア・ローマの「古典」で、それも小説や物語よりもエッセイや日記を好む。古書が好きで、新刊本には見向きもしない。 しかし彼女の趣味を満たしてくれるような古書店が近くにはない。 そこで彼女は新聞に載っていた広告を頼りに、大西洋を隔てたロンドンの「チャリング・クロス街84番地」の絶版本専門の古書店「マークス社」に欲しい本のリストを送り、本を取り寄せることにした。194
たとえば本を買うのに少しまとまったお金(といっても数千円だが)を使うとき、なぜか自分に対して言い訳を考えてしまう。 「ほら、あれだよ? この全集がこんな値段で出てることはまずないよ? ここでスルーしたら絶対ほかの人が買っちゃうよ? 今度は積まずにちゃんと読むからさ。『買わずに後悔するよりも、買って後悔すべし』って古本格言にもあるじゃない?」 とかなんとか。 自分で稼いだお金を趣味に使うのだから、べつに言い訳する必要はない。 養うべき妻子がいるわけでもないので、明日からしばらく「白飯にふりかけ」生活になっても誰から文句を言われることもない。 それなのに上のような言い訳を考えてしまうのはなぜだろう。 こういう言い訳のときに私がよく引き合いに出すのがタバコである。 たとえば、古本で1万円の全集(全10巻)を買うとしよう。そんなとき私の頭の中はこんなふうになっている。 「1万円は確かに大きいけど、
ときどき思い出したようにアンティーク絵葉書を集めたくなる。 何年前のことだろう、NHKの『美の壺』という番組で「アンティーク絵葉書」をテーマにした回があって、それを見て「ああ、おもしろそうな趣味だな」と思ったのだ。 アンティークというのが具体的にどの辺の時代を指すのかは曖昧だが、まあだいたい明治から戦前ぐらいだろうか。そこにはいまでは失われた風景や風俗が描かれていて、懐古趣味的な人間にはまことに好ましい。 未使用のものであれば、ただの古い写真やイラストと同じようなものだが(それでも充分興味深い)、実際に使用されたものには、過去にたしかに生きていた人間の痕跡がある。 現実に生きている生身の人間は疎ましいのに、過去に生きた人間の残滓をおもしろいと思うのは、なんとも困ったことだ。 それはともかく、それほど興味深いと思っているのに蒐集に手を出さなかったのは、主に2つの理由による。 1つはお金の問題
ブログを始めていままでずっと「だ・である」調の文章を書いてきました。(実際には「である」なんてあまり使いませんが) 意識してそうしたわけではなく、自然にそうなったのです。 たぶん私の文章の規範が「紙の本」の文章だからでしょう。「紙の本」はたいてい「だ・である」調で書かれています。 ところが、いろいろな人のブログを読んでいると、ブログの世界では「です・ます」調の方が優勢なのではないかと思えてきました。 そこでちょっとした統計をとってみようと思い立ちました。 私が参加している「はてなブログ」の「公式グループ」に「読書グループ」があるのですが、そこの新着記事を順に100件見て、その文章が「です・ます」調か、それ以外(「だ・である」調ともいえない独特の文章もあるので)かを数えてみることにしました。(ちなみに調査したのはある平日の午前中。判断がつき難いものはノーカウント) その結果、「読書グループ」
「残暑を乗り切る」ということだけれど、こういう時に中高年はよく「心頭滅却すれば火もまた涼し」などとなぜか得意げに言って若者に疎まれる。 しかしこの「心頭滅却」、そう簡単にできるものではない。 「心頭滅却」とは、わかりやすく言えば、心や頭の中を無、もしくは空っぽにすることだが、これが難しい。 マネゴトでも座禅や瞑想をしたことがある人ならわかると思うが、私たちの心や頭というのはさまざまなノイズ(雑念)でいっぱいになっている。 普段私たちが意識しているのはその中のごく一部に過ぎない。 20世紀の文学の方法で「意識の流れ」というのがあるが、これはこうしたとりとめのないノイズをできるだけ言語化して表出しようとした試みといえる。 座って、目を閉じて(あるいは半眼で)、深く息をする。 しかし、雑念を払って「無になれ、無になれ」と思っても無になることはできない。 雑念はどこからともなく限りなくわいてくるし
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