サクサク読めて、アプリ限定の機能も多数!
トップへ戻る
ドラクエ3
plaza.rakuten.co.jp/hirakawadesu
2009.03.22 エルサレム賞スピーチ、再び。 (6) カテゴリ:ヒラカワの日常 いま書いている本の校正が、ほぼ終了した。 いくつかのトピックは、全面的に書き換えたり、 あるいは、まったく別のものと入れ替えたりした。 一冊の図書においては、<流れ>が重要であると考えて、 惜しいものもあったが、敢えて削除したのである。 削除したものの中に、村上春樹のエルサレム賞受賞スピーチに 関する文章もあった。 以前、ブログで書いたものと重複する部分が多いが、 書き足したところもある。 それをここで公表しておくことにしたいと思う。 政治的な現在、文学的な立ち位置 さて、村上春樹についての文章で本書を締めくくろうとしていたとき、その村上春樹がエルサレム賞を受賞との報があった(二〇〇九年二月十五日)。このエルサレム賞受賞に関しては、賛否両論があった。イスラエルによるガザ攻撃の直後ということもあり、かれがど
2009.03.16 多様性という虚構。 (8) カテゴリ:ヒラカワの日常 4月に講談社から発刊される予定の『経済成長という病』(仮)の中の一文。 まあ、こんなことを毎夜だらだらと書いているわけです。 でも、もうひと踏ん張りといったところだ。そして、仕事に戻る。 私は、経済的な打撃とそれが生み出した社会不安や格差の拡大という現象は確かに大きな問題だが、経済成長至上主義が人々に与えた心理的な影響、それによってこの十数年に起きた効率主義、合理主義に対する盲目的な信仰は将来に計り知れない禍根を残すのではないかと心配しているのである。 人々の心理に及ぼす影響は、徐々にしかし、確実に目に見えるようにその姿を現す。たとえば、教育の場面で、労働の現場で、家庭の中で。 繰り返すが、どのような経済システムを採用しようが、そこには必ずプラス面とマイナス面がある。だから、日本が現在陥っている状況のすべての責任を
2009.03.05 経済成長という病。 (9) カテゴリ:ヒラカワの日常 ほとんどあらゆる問題に対する答えが「さらなる経済成長」なのだ。失業率が高まっている―雇用を創出できるのは経済成長だけだ。学校や病院の予算が足りない―経済成長で予算は増額できる。環境保護がふじゅうぶんだ―経済成長で解決できる。貧困が広がってきている―経済成長によって貧しい人々は救われる。収入の分配が不公平だ―経済成長でみんなが豊かになれる。何十年にもわたって、経済成長は過去の世代が夢に見ることしかできなかった可能性を実現するための鍵なのだといわれつづけてきた。 (クライヴ・ハミルトン『経済成長神話からの脱却』アスペクト刊、嶋田洋一訳) 経済成長それ自体は、良いも悪いもない。文明化が進み、都市化が進み、消費生活が活発になれば総需要は拡大し、生産もそれにつれて拡大して経済は成長する。もし、問題があるとすれば、それは社会の
2009.02.18 村上春樹のスピーチ。 (53) カテゴリ:ヒラカワの日常 村上春樹のエルサレム賞受賞に関しては、賛否両論があった。たとえば大阪の「パレスチナの平和を考える会」は、かれに受賞を辞退するよう求めていた。 賞を辞退すべしの論拠は、この賞をスポンサーしているのがエルサレム市であり、エルサレム市長から賞が手渡されるその式典に村上春樹が出席することは、イスラエルによるガザ虐殺の犯罪性を隠蔽することに加担することになるというものであった。 勿論、村上春樹の小説や、洩れ聞こえてくるかれの言動から、かれがガザ虐殺(こう呼ぶべきものだとおもう)のような行為に対して同意を与えてはいないということは明らかである。だからこそ、市民運動の立場から見れば、その村上さんが、無辜の犠牲者の敵が贈る賞を嬉々として受け容れるべきではないということになる。 この賞が「社会における個人の自由」を標榜しており、
2009.01.04 「内向き」礼賛。 (24) カテゴリ:ヒラカワの日常 お正月も今日で終わり。 明日から、 いや、まだ終わっていないので考えるのはよそう。 今日は、アゲインマスターの石川くんに誘われて、 武蔵小山清水湯へ、朝風呂。 天然懸け流しの銭湯である。 いいねぇ。朝寝、朝風呂。 のんびりと全身をゆるめて、 家に戻って原稿書き。 本年三月以降に講談社から出版予定の 「退化に生きる、我ら」。 このタイトルは、二十代の頃やっていた同人誌『赤目』第二号に 同人、森下哲志くんが書いた、詩ともエッセイとも言えない 短い作品のタイトル。 三十余年後に、おれはそのアンサーソングを書こうというわけである。 でも、筆は遅々として進まない。 進まないから、こうやって新年の書初めとしてブログに書くのである。 新年二日は、 いつもの年と同じように内田くん、アゲイン店主石川くんと 自由が丘の書店で待ち合わせ
2008.12.26 アンサーソング。 (11) カテゴリ:ヒラカワの日常 本日より、『ラジオデイズ』で 待望の「大瀧詠一的2008」、「田中宇の世界はこう読め!1月号」ダウンロード開始です。 さて、内田くんが、『ラジオの時代』というエントリをしている。 そのなかで、テレビの時代は終わるだろうとの大胆予想をしている。 預言者としての内田くんは、福田前首相の登場を予言したことでも 定評がある。 俺も、テレビの時代は終焉をむかえるだろうと思う。 ただ、その終わり方は、ラジオに回帰するというような形にはならないだろうと思う。 ラジオは今後もしぶとく生き残るだろうが、生き残り方は 「流行らないものはすたれない」@上野茂都 的なニッチャーとしてであり テレビは、そのビジネスモデルごとほとんど解体していくように思える。 テレビに代わるのはもちろんインターネットや携帯ツールである。 そこにどんな功罪を発
2008.12.12 企業の社会的責任。 (14) カテゴリ:ヒラカワの日常 本日より、ラジオデイズで待望の小田嶋隆さん登場です。 ☆劇薬注意!人気コラムニスト小田嶋隆が世相を斬る『グラフィカルトーク12月号』 収録に立会った俺は、ほとんど笑いっぱなしでありました。必聴です。 【全巻セット】→ http://www.radiodays.jp/item_set/show/93 2004年に俺は『反戦略的ビジネスのすすめ』という本を書いた。 続いて『会社は株主のものではない』というペーパーバックに 岩井克人さんや、奥村宏さんらの末席に寄稿した。(実際にはインタビュー記事) その中でこんなことを言っていた。 ― すいぶん話がおおきくなってしまいましたけれど、インフラ的な面を考えても、地政学的な面を考えても、日本はダウンサイジングしていったほうがいいのではないか、紆余曲折があっても必然的にダウンサ
2008.12.03 捨てたもんじゃない、と思いたい。 (9) カテゴリ:ヒラカワの日常 ちょっと、底が抜けてきた感じだ。 TBSテレビ『水曜ノンフィクション』で大田区の町工場の 惨状を映し出していた。 旋盤やフライス盤が狭い工場に並ぶ。 切り子の山が陽の光りを反射している。 俺の家もまったく同じ光景のなかに置かれた町工場だった。 切削油の饐えたような匂いと、 グラインダーの鉄粉の匂いの中で俺は少年期を過ごした。 この光景を俺はある種の思いなしに見ることができない。 同時にそれをうまく言葉にできない。 いま、多くの工場に仕事がまったく回らなくなっている。 好況は最後にやってくる、不況は一番初めにやってくるという町工場 のいつもの風景だが、今回の不況はかつて経験してきた単なる景気循環のなかの 不景気とは全く様相が違う。 世界的に推進されたグローバリズムという収奪システムの ひずみが、もっとも
2008.11.11 小さな経済に宿る神 (オリジナル)掲載。 (9) カテゴリ:ヒラカワの日常 11月1日付朝日新聞夕刊(大阪)に一文を寄稿した。 タイトルは『生活感が宿ってこそお金だ』巨額の資金が踊る金融危機に思う 新聞掲載ということで、校閲があり元々の荒削りの文章とは 少し異なったものになっている。 以下はそのオリジナルのほうである。 どちらも俺が書いたものであり、違いは微細な部分に留まるが、 俺の体臭は勿論こちらの方に色濃く漂っている。 巨大な経済に潜む闇と、小さな経済に宿る神 サブ・プライムローンの破綻に始まった金融崩壊と世界同時不況。状況は日々変化しており、専門家の言うことも楽観論悲観論こもごもである。「資本主義の暴走が引き起こした現象であり、世界恐慌の入り口に立っている」と誰かが言い、「米国は日本と違って素早い対応をしているので、十年かかった日本ほど時間はかからないだろう」と
2008.11.05 異常な世界。 (8) カテゴリ:ヒラカワの日常 オバマさんが大統領に決まった夜、 ニュースか特別番組を見るつもりでテレビのスイッチを入れて 爆笑レッドカーペットを見てしまった。 ショート・コントの連続で、ひたすら脊髄反射的な 笑いに照準した芸が続く。 まあ、いいけど。 確かに笑いは痙攣的なものだけど、 痙攣的なものだけが笑いを作り出しているわけではない。 ひねった解釈や、本歌取りの面白さや、風刺の巧みさは 受けての思考回路を揺さぶったり、ショートさせたり しながら可笑しさを生み出す。 常識が揺さぶられて、可笑しさが滲み出てくる。 痙攣だけの笑いには、どこか刹那的でやけっぱちなところを感じる。 近頃のテレビを見ていると、 ドラマでもトーク番組でも、あるいはニュース番組でさえ、 この傾向が顕著で、常識の範囲を出ない、定番的な 笑いや、同情や、義憤だけで構成されているように
2008.10.29 あるボツ原稿。 (2) カテゴリ:ヒラカワの日常 ボツになった原稿を掲載しよう。 俺は結構気に入っているのである。タイトルは『二つの市場』 サブ・プライムローンの破綻に端を発した米国経済の混乱は、一挙に投資銀行上位五社の投資業務廃業に追い込み、世界経済に大混乱を引き起こしている。米国の覇権の失墜が目に見えるようになり、同時にかの国が先導した新自由主義と呼ばれた市場万能主義が、経済思想の場から退場をはじめた。何しろ、アメリカの大手金融機関が軒並み国有化されているのである。金融システムだけではなく、資本主義そのものが危機に瀕している。これは、どうやら大変なことである(らしい)。 (らしい)とは、不謹慎なと訝る向きもあるかもしれない。株価は急落し、覇権地図が塗り替えられようとしているというのに。しかし、私はこういった問題に当たってはいつも「なんだかよくわからない」という自分
2008.10.08 緒形拳と、小関智弘。 カテゴリ:ヒラカワの日常 俳優の緒形拳さんが亡くなった。とっさに、俺は小関智弘さんを思い出した。 以前、ラジオデイズのコラムに『千鳥町界隈と小関智弘のこたえ』というエッセイを書いた。このブログでもその一部をご紹介したかと思う。 自分が生まれ育った東京の南のはずれに位置する千鳥町という町の半世紀も前の様子と、やはりその近隣で旋盤工として働いていた作家小関智弘さんのことを書いたものだ。(少し長いが引用したい) ━ 小関智弘という大森界隈で旋盤工をしていた作家の作品を読んでいると、あの頃のことが、ありありと思い出される。小関さんは、作家になった後も、ずっと旋盤工を続けていた。いや、旋盤工が本職で、作家活動も粘り強く続けられたといったほうがよいのかも知れない。 少し前に、近所の書店を漁っていたら一冊の本が私に微笑みかけてくれているような気がした。表紙には
2008.09.16 リーマンの破産、擬制の終焉。 (12) カテゴリ:ヒラカワの日常 リーマン・ブラザースが、チャプターイレブンの適用を申請のニュース。 テレビも新聞も大騒ぎである。 だからなんだというのだ。(と、前にも言ったけど) 金で金を売り買いして肥えてきた会社が、 金で躓き、金に行き詰ったという話である。 勿論、世界は混乱するだろう。 一般消費者も、景気の後退の影響を受けるだろう。 だが、この混乱はモノやサービスを媒介しない 欲得と欲得の交換が巨大過ぎるビジネスになったときにすでに はじまっていたと思うべきなのだ。 この度の米国経済の破綻は、 信用の収縮と呼ぶべきものではなく、行き過ぎたお金への信仰が、 欲望が再生産を繰り返して作り上げた幻影に対するものでしかなかった ということが露呈したに過ぎない。 最初から信用というようなものは無かった。 信仰は、幻影には実体がないと分かった
2008.09.09 思想の死。 (7) カテゴリ:ヒラカワの日常 土曜日の夜、みずほ総合研究所の原稿を書きながら 横目でNHKの『日本のこれから』を見る。 翌日会社で、コンピュータを開いたら、書き上げた原稿が全て消えている、 というかコンピュータが言うことを聞いてくれない。 デジタルデータは、泡のごとし。 テレビの方のお題は税金。 争点は、新自由主義的な構造改革路線をこのまま続けるべきか、 あるいは行き過ぎた市場主義に歯止めをかけて、福祉重視の国づくりへ 舵を切るべきかというところで、 そのために現在のグローバル化した世界経済をどのように分析するのか というのが、議論の中心になっていた。 当然のことながら、竹中平蔵は構造改革を断行してきたから、 不良債権問題や不景気から脱出できたのであり、その間のGDPは上昇しており、 現在それが下降し、不景気になっているのは、 構造改革が中途半端で、不
2008.08.29 出口なし。 (6) カテゴリ:ヒラカワの日常 29日の毎日新聞夕刊によると、消費者物価が2.4%も上昇したとある。 16年振りの高水準だそうである。 一般企業の労働者ならびに、派遣労働者などの所得水準は上がっていないので、 相対的には所得下落と同じである。 こういった渡世でも儲けている奴はおり、自分の所得だけは しっかりと確保している富裕層もあるので、所得格差は拡大するばかりである。 中小・零細企業は、大手企業の生産調整と、消費者の買い控えによって 前年比20%から、業種によっては90%の落ち込みだそうで、 俺の周囲を見渡しても、これは実感できる数値である。 どうも、げんなりする社会が出来上がりつつある。 2000年ごろから、グローバリスムは直感的にも原理的にも、もたない、 新自由主義的な改革には、実効的にも、文化的にも 病的な金銭フェテシズムに侵されたよくないものが
2008.06.26 秋葉原事件再考。 (4) カテゴリ:ヒラカワの日常 秋葉原の事件に関しては、 何度か書いてきた。 村上春樹について、書いたのも秋葉原の事件があったからである。 そして、多くの方から真摯なコメントやメールをいただいた。 その方々に対する返信の意味も込めて再考したいと思う。 あれから三週間が過ぎ去った。 最初、俺はこの事件について、 どのように語ればよいのかよくわからないと書いたと思う。 それは今でも同じである。 こういった事件について何事かを語ろうとすれば、 それは必ず語り足りないか、語りすぎるかのどちらかになるからだ。 それでも、この事件は俺の毎日通っている交差点で起きたのである。 俺はすこしだけ、あの町に住んだことがある。 俺は「あの時」何故、あそこにいなかったのか。 もし、いたとすれば、俺はどうしただろうか。 そう思うことがある。 いや、よくそう思う。 いまでも、
2008.06.16 映画トンネルと、ねじまき鳥クロニクルを二度読むということ。(その2) (1) カテゴリ:ヒラカワの日常 日曜日は、平成二十年度前期空手審査会。 俺は、審査員として出席。今回は一般部受審者なし。少年部のみで、型と組手の審査。 審査が終了してから自由が丘に出て、アンセーニュ・ダングルというカフェで、『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』を読む。(村上春樹再読月間なので) 帰宅後、昨晩途中までで休止していたローランド・ズゾ・リヒターの『トンネル』の続きを見る。ベルリンの壁の地下にトンネルを掘って、家族や恋人を逃亡させる企てを描いた実話に基づいた映画。すごいサスペンスで、画面に没頭。日本ではあまりなじみのない役者の演技が素晴らしい。俺はうかつにも、この映画のことを知らなかったのだが、数日前に何かの本で読んで、予約しておいたのである。(川本三郎さんの本かと思って見直し
2008.06.09 秋葉原の事件で、よくわからないこと。 (23) カテゴリ:ヒラカワの日常 すでに、報道されているように、日曜日、 俺の仕事場から目と鼻の先で凶行があった。 俺が毎日通っている交差点である。 やりきれない事件である。 被害者の無念に関しては、言葉がない。 テレビのニュースを見て、新聞を読んで、関係者の証言や、 心理学者の解説を聞いているのだが ほんとうは何が起こったのかということが よくわからない。 加害者の「かれ」の中で何が起こったのかが よくわからないのであり、被害者と加害者の間にある落差のなかに、 何があるのか(あるいは何がないのか)がよくわからないのである。 残虐非道の加害者と無辜の被害者。 切れる性格と、挫折、苛立ち。 会社でのトラブルと、社会への呪詛。 チェックが甘い銃刀法。 自己顕示欲とバーチャルな世界。 劇場としての秋葉原。 身勝手な行動が引き起こした憎
2008.05.21 正義が暴走するとき その1。 カテゴリ:ヒラカワの日常 以後、何回かに分けて、ある「事件」について 考えてみたいと思う。 もう一年ほど前になるがショッキングな事件が報道された。北九州の病院の看護師で病棟課長の女性が、入院患者の高齢者4人のつめをはがす虐待を行っていたというのである。看護師は「自然に取れた。水虫の処置のつもりでやった」と供述し虐待を否定していたが、病院は傷害容疑で刑事告発した上で懲戒解雇したという。看護師は傷害容疑で逮捕され、起訴。そして身柄を拘束されたまま、第1回公判前整理手続が開かれた。ところが、この事件は意外な展開を見せることになった・・・。 日本看護協会が、事件現場の看護仲間や病院関係者から情報を収集してこの事件を調査した結果、この看護師が行った行為は虐待ではなく、看護実践から得た経験知に基づく看護ケアであったと判断し、その見解を発表したのである
2008.04.19 夏。 (7) カテゴリ:ヒラカワの日常 まるが俺のところに来てから死ぬまで四年半であった。 ドッグイヤーなら三十年余ということになるらしい。 感傷的になっているわけではないのだが、今日のように日差しの中にいると、 今年の夏はまるがいないのかと思う。 機縁があって、谷川俊太郎の詩を再読していたからだろう。 メゾンラフィットの夏 淀の夏 ウィリアムスバーグの夏 オランの夏 そして僕は考える 人間はいったいもう何回位の夏を知っているのだろうと (「二十億光年の孤独」所収『ネロ』より) 実は、俺は谷川俊太郎の熱心な読者というわけではなかった。 荒地派の詩は、電車の中でも、喫茶店のテーブルでも、便所の中でも、 読み耽ったものであるが、谷川俊太郎は視界の隅っこで輝いている星座のようで、 美しくはあったが、まぶし過ぎて凝視できないといったところだった。 何十年ぶりかで、谷川の詩集を
2008.02.27 常識が非常識になった時代。 (6) カテゴリ:ヒラカワの日常 箱根で、内田兄弟、石川くんらとかけ流しの湯に浸かっていたら、 コラムの締切日をすっかり忘却していた。 東京にもどり、会社に出勤し、メールを開くと ケイズワークの市田さんからリマインダーが入っている。 いや、まいったな、何もやっていない。 会議をひとつして、客先をまわり、 予定していた空手道場をキャンセルして帰宅。 めしをかっ込んで、一気に書く。 映画『浮雲』論。 いつか、書こうと思っていたので、 よい機会であった。 『その風景には見覚えがある』と題する。 ラジオデイズのサイトでの公開は一週間後ぐらいだと思います。 もうひとつ。 先日の養老対談のDVDが、 メディアライツの越智さんから届けられていた。 早速見る。 いや、面白い。 この映像は公開の予定はないのだが、 上機嫌に飛ばしている養老先生を見ていると こ
2008.01.23 プレイナウペイレイターと、いつもニコニコ現金払い。 (8) カテゴリ:ヒラカワの日常 世界同時株安だそうである。 だからどうだというのだ。 俺は株をやっていないので、直接的には何も起こらない。 経済活動の胴体はあくまでも実物経済であり、金融ビジネスは 実物と貨幣交換の中から生まれた余剰貨幣の振るまいに基礎を置いており、 まあそれがどんなにふくらもうが尻尾のようなものだ。 この尻尾が、胴体を振り回しているの(@水野和夫)が、当今の経済状況である。 俺は世界経済については、 ほとんど何ら特別な情報を持ち合わせていない。 情報水位差というものを利用して、何か利益を得ようといったことを 考える、すばしこくもまめな人々もいるようだが、 俺は、ほとんど興味がない。 めんどうなことに、時間を使いたくないのである。 それでも、商売柄、証券会社のひとや、先物を扱っている営業マンが 俺の
2008.01.09 モバイル社会をどう考えるのか。 (4) カテゴリ:ヒラカワの日常 午前中、NTTドコモ御一行様が来社。 モバイル・ソサエティ・レビューという雑誌に何か書いてくれないかとの ご注文をいただき、「いいすよ」とご返事していたからである。 実を言えば、ご注文をいただいたときに、 瞬間的に何を書けばよいかということは判っていたので 即答したのである。 「携帯電話が政治、経済、社会にどのような影響を与えるのか そのあたりを書いていただけると・・・」 というご説明を受けたのだが、 何を書くかはもう決めていたので 実は、こういうことを書きますけど「いい?」と ご返事申し上げる。 いま、みずほ総研の雑誌に、 『グローバリズムにもの申す』というシリーズを連載しているのだが、 このシリーズの眼目は、 経済のグローバル化に反対の立場を表明するというところにあるわけではない。 経済のグローバル
2007.11.16 都築学園総長と会ったときのこと。 (11) カテゴリ:ヒラカワの日常 先日、九州を拠点とした大手学校法人グループの理事長が強制わいせつで逮捕されたと報ぜられた。読売新聞のネットニュースは、次のように報じている。 「学校法人グループ・都築総合学園(本部・福岡市)の総長、都築泰寿容疑者(71)による強制わいせつ事件が起きた第一福祉大(福岡県太宰府市)で、女性職員たちが都築容疑者のわいせつ行為について度々上司に相談し、大学側が被害状況を学園本部に報告していたことがわかった。」 なるほど。何か聞いたことのある名前である。俺は、この都築という男に5-6年前、どこかで会っている。そして、このブログにその時のことを書いたことがあった。(正確には、フジサンケイビジネスアイの『平川克美のビジネスの流儀』という連載に書いた記事をブログに転載している。(記事自体は、都立大学駅前にあるたこ焼
2007.10.13 内藤大助の戦い。 (4) カテゴリ:ヒラカワの日常 「店主、何か言ってやってくださいよ。 店主が何を言うか、待ってる人もいるみたいですよ。」 と、三丁目食堂の木村くんがDVDをくれた。 確かに、俺はボクシングについて、これまで熱く語ってきた。 それはファイティング原田の飢餓についてであり、 ナジーム・ハメドが世界に与えた驚愕であり、 長谷川穂積が追い求めている拳闘の理想であり、 アリとフォアマンのキンサシャの奇跡の物語であり、 カシアス内藤の苦い人生の奇跡についてであった。 何故、これほど惹きつけられるのか。 そこに、人生というものには本来あってはならないが、 すべての動物の本能に隠れているような何か、 つまりは後先の無い、一瞬の燃焼、生存を賭けた沸騰と怜悧の交錯 そして、世のためにも自分のためにも、 何の役にも立たない情熱―完全な「無」意味の跳梁が あるからである。
2007.09.10 二十一世紀的課題の解決。 (3) カテゴリ:ヒラカワの日常 「世界が民主主義を発見し、政治的にはアメリカなしでやって行く すべを学びつつあるまさにその時、アメリカの方は、 その民主主義的性格を失おうとしており、己が 経済的に世界なしではやって行けないことを発見しつつある」 エマニュエル・トッドのこの認識は まったく見事という他はない。 ジオ・ポリティクスを五十年、百年というスパンで 見ることのできる目にはそれは、 当たり前の事実であり、 瑕疵は見当たらない。 確かに言われてみれば当たり前だが この当たり前すぎる事実を誰も トッド以上にうまく そしてエレガントに言い表すことができなかった。 始末の悪いのは こういった透徹した歴史観が全く呑み込めない 人々がいて、それが為政者だった場合である。 「テロとの戦い」というスローガンもまた、 トッドの描いた文脈を逃れたいアメリカ
2007.08.16 もう憲法の話はしたくはないけれど。 (3) カテゴリ:ヒラカワの日常 毎度のことだが、終戦記念日をはさんで、 憲法論議が盛んである。 もう憲法の話はしたくはないけれど、 議論を整理するために一言付け加えておきたい。 改憲の本丸は、9条である。 国家の最高法規に関わる話である。 国家という共同体の掟を再定義しようというのであれば、 議論の仕方からはじまって、 様々な論件が整理されてしかるべきところだろうが、 9条だけが突出した議論の的になっているところが すでに、この問題を歪んだものにしている。 改憲派の論拠は 国家としての主体性の確立すること、 自衛隊が防衛軍として法的根拠を与えられ、海外に展開できるようにすること、 先進国の一員として、紛争解決に向けての戦力負担において 応分の責任を果たせるようにすること、 概ねこの三つだろう。 これらを検討してみる。 果たして日本
2007.07.11 キャリアアップ主義者の面影。 (9) カテゴリ:ヒラカワの日常 神戸北野ホテル宿泊。 さきほどまで、仕事がらみで 鷲田清一先生と夕飯。 大林組の長谷川常務、船橋くんらと歓談。密談。相談。 大阪大学の学長になることが決まって超多忙なのであるが、 それでも、哲学者鷲田さんは、悠揚として迫らぬ はんなりとした風情で 話は転々、淀川の川原に転び 心地よい時間を過ごすことができた。 大林組がタクシーチケットを出してくれたので、 そのまま北野ホテルへ向かった。 以前築地の場内すし屋をご案内した永末支配人から ご案内状をいただいており、一度はその「世界一」の 朝食を食ってみたいと思っていたからである。 車中、ひとつの考えが浮かぶ。 いや、この間ずっと考えていたことである。 違法な行為があったとか、 態度が気に入らないとか言うこととは別に コムスンの社長、ヤンキー先生、ワタミの社長は
2007.06.25 年金問題解決法。 (2) カテゴリ:ヒラカワの日常 昨日は、年金の問題について 思うところを書こうと思って書き始めたら ミート・ホープの偽島田洋七の話になってしまった。 ま、似たような羊頭狗肉話なので どこかで話の筋がこんがらがってしまったのである。 年金については、 与党も野党も、蕎麦屋も床屋も、 質屋も銀行マンも、月給取りも給料泥棒も あーでもない、コーディアルと勝手気儘なことを言っているが 本当のことは実は誰も言っていない。 いや、何が本当かなんて誰にも分からないし 分かったところでどうすることもできないのであるが、 年金問題で分かっていることは 誰もが、「払ったものは返してくれよ」と言っており、 誰も「俺が悪かった」とゴメンを言わないってことぐらいだろう。 要するに「何が何だかわからない」ということである。 俺はかつて データベースの10万件のデータの整合性チ
次のページ
このページを最初にブックマークしてみませんか?
『カフェ・ヒラカワ店主軽薄』の新着エントリーを見る
j次のブックマーク
k前のブックマーク
lあとで読む
eコメント一覧を開く
oページを開く