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猫
river-daishiro.hatenablog.com
おつきあいのある会社に雑種の大きな犬がいた。こんにちは、といって玄関を開けると、はっはっはっと息を切らして事務所の奥から、走ってくる。 からだを脛にこすりつけながら顔をあげ、目が「撫でろ」といっている。喉元をさすり、頭を撫で、おなかをポンポンポンと叩いてあげると、来客用の椅子に飛びのり、そこですぐに眠ってしまう。 飼い主のAさんは、野良犬をつかまえ、毎晩、犬鍋にして食っているようないかつい顔の人だった。でも、顔に似合わず、ほんとうは、人も犬も大好きな人で、私もAさんのことが大好きだった。 犬は、ずっと椅子の上で眠っていたくせに、帰り際には目を覚まし、玄関先まで、はっはっはっといいながら見送りをしてくれた。振り向くとガラスのドアの向こうにきちんと座って、いつまでもこちらを向いていた。 昔、家でタロという名の雑種の犬を飼っていた。コリーの血が半端に入った鮮やかな茶色の犬で、耳と鼻のかたちの精悍
■ 朝の「拭き掃除」を始めて15年ほどになる。雑巾を固くしぼって玄関の土間や仕事場の机、リビングの床などを拭く。きれい好きというわけではなく、手入れをすることで空間がきれいに見えてきて、頭の中が整理されていくのが心地よい。 拭き掃除を始めてから、道具の手入れも意識するようになった。クルマは9年目になる。整備工場に入れると、毎回、スタッフの方々から、手入れがいいですねとほめられる。クルマの外も車内も、汚れたらきれいにする、調子が悪くなったら整備に入れる。当たり前のことしかしていない。むやみにスピードを出さず、丁寧に運転することで燃費がよくなり、ボディーの傷みも少なくて済む。軽の四駆だが、この季節の燃費は、街中でリッター21キロを超える。自分の中では、まあ、合格点。 クラシックギターは1977年に購入した。弾き終えるとガーゼで全体をさっと拭き上げ、音叉でチューニングをしケースにしまう。この方法
週末、小樽を歩いた。1年ぶりのことだ。今回も、天気に恵まれた。これまで10回以上訪れているが、不思議なことに、悪天候だったことはない。 明治から大正にかけては北海道における経済・文化・商業の中心地として栄え、往時は「北のウォール街」と呼ばれた。そして、小樽といえば、運河。70年代後半、保存を訴える市民団体と行政側が対立。当時は札幌にいたので、埋め立て前の写真を撮っておこうと何度も足を運んだ。記録したポジフィルムは、いまも大量に保管してある。あの頃は、周囲にドブの臭いが漂い、いまにも崩れそうな古い建物がひしめき合っていた。幅40mの運河の半分の埋め立てが決まり、片側3車線の道路をつくる工事が実施されたのは1984年秋のことである。 小樽はまた、終戦直後、サハリンから引き揚げてきた父の家族が暮らした街でもある。1945年8月11日、ソ連が樺太に侵攻し、15日の終戦後も攻撃は続いた。20日には樺
デジタルカメラが主流になる以前、写真の現像といえばプリント、ポジともにラボに預けるよりほかはなく、手焼きで仕上げるのはちょっとオタクな人か裕福な部類に入る人たちだけだった。 白黒フィルムだけでもフジのネオパン、コダックのトライX、イルフォード、アグファなどの多くの種類があり、それぞれに個性があった。焼き方は同じでも仕上がりが異なる。そこが面白かった。 なかでも白黒写真は撮影者が暗室で仕上げるのが常で、覆い焼きや焼き込みといった手法でコントラストや明暗を使い分けていく。撮影手法はもちろんだが、フィルムの種類、仕上げの段階からも作風を主張することができた。 若い頃はポジを使うのにコストがかかり、白黒で撮ったネガを暗室で焼くことが多かった。それでも、特殊な現像が求められるトライXなどは、急ぎの仕事が増えるに従い、時間とコストの問題で使いづらくなっていった。 暗室では、液剤の底から、画像が浮かび上
前の前の年の秋頃から、庭先に通ってきた野良ネコがいた。週に何度か縁側で休むようになった。撫でてやると、体をすり寄せてくる。冬になっても、週に数回、やってきて、その回数は少しずつ増えていった。 雪の日は、雪を漕いでやってくる。朝、窓の外を見ると、足跡があるので、すぐにわかった。深夜は、どこかの軒下で雪と寒さをしのいでいたのだろう。明るくなると、窓の外でじっとこちらを見つめる彼がいた。その都度目を見ながら、あなたは、ここでは飼えないからね、と言い聞かせてきた。 秋になると、綿毛みたいなふさふさの白い毛になった。冬が過ぎ、3月。毛はうす汚れて灰色に変わり、ある日から突然、足元がふらつくようになってきた。野良同士のケンカに負けて顔中血だらけになってくることもあった。このままだと、夏まで生きられない。そう思った。 役所や愛護団体、ネコカフェなどに連絡して対処方を聞いてみた。まずは保護です。病院で必要
父が亡くなって30年以上が過ぎた。実家は北海道の小さな町。母にはずっと一人暮らしをさせてきた。申しわけないと思いつつ、年に一、二度しか帰省してこなかった。 帰るたび、母子二人で行う作業があった。作業といっても、小さな金庫を開け、通帳や生命保険の証書の中身を確認するだけである。 父が残した財産など皆無に等しく、母はわずかな年金をコツコツ積み立て、質素な生活を続けてきた。自分がボケてしまって、おかしなことにお金を使っていないか。証書の更新を忘れていないか。なくした通帳はないか。5分もあれば終わる作業が、いつの間にか、母と私をつなぐ絆となっていた。 金庫には常に100万円の現金が入っていた。チラシに包んで、粗末な輪ゴムで束ねてあった。自分が倒れたら、預金の引き出しなどで苦労をかける。おまえたちの交通費もかかる。葬儀を含んでも、自分はこれでおさまる範囲で十分である。何かのときに、これを使うといい。
年末、正月、そして、間もなく2月。こんなに早く時間が過ぎるなんて、と日々思うことが増えてきた。毎日を、この一瞬、この刹那を丁寧に生きることが大切って誰かが言っていた。けれど、いったい何をどう丁寧にすればいいのか、わからないまま時だけが過ぎていく。 刹那は梵語のKSANIKA・クシャニカの音を写した音写語で時間の単位をいう。1分=60秒 1時間=3600秒は誰もが知るところだが、1念=0.018秒や1瞬=0.36秒(20念)というミクロな時間の単位も現存する。 1刹那は0.013秒(1/75秒)で、仏教の時間概念では、最小の単位だ。時間はため込むことができない。一瞬、一つの刹那も真剣に生きよという教えなのだろうが、こんなことを書いている瞬間も、あくびが出て、仏さまの教えに申しわけない気持ちになる。 以前、A子さんが「毎朝、おまじないを唱えてから起床する」と話していたことを思い出す。おまじない
いまごろの季節になると、私の生まれた北海道では、どこの家でもストーブに火が入り始める。もう、何十年も前のことだ。近所の家の庭では、薪をさらに細く刻んだたきつけ割りが始まり、それらを物置や家の壁に沿って屋根近くにまで積み上げていく仕事で忙しくなる。 薪割りやたきつけ割りは、大人の男の仕事と決まっているわけではない。鉄道官舎や近くの長屋の母さんたち、子どもたちも手伝って、1週間か10日のうちに作業を終える。 そのあと家々の前にはトラックで石炭が運ばれ、これまた家族総出で炭小屋に石炭を入れ、冬への支度を調えるのである。 昭和30年から40年代、石炭は黒いダイヤといわれ、その断面はまるで高価な飴のように艶めいて光り、子どもの私は何度もそれをペロリと舐めては、母からゲンコツを喰らった。スケゾウ君やシュン君、マナブ君の父さんたちが地下1000メートル以上のところから、命がけで掘ってきた石炭は、町の人間
夕刻、ピンポーン。ドアを開けると、D社のE子さん。「どうぞ、お茶っこでも」としばしの喫茶去。海外留学の経験を持つE子さんの話を聴くのはいつも楽しみ。今日は、アラブやヘブライの文化と日本の文化との対比について、平和、戦争への価値観の相違などの話をうかがった。自分より20歳近く若いが、すごいなあ。 「旅ができない若者が多くなっています」とE子さん。複数での旅、あらかじめアレンジされた行程を歩くことは「旅ではなく、移動です」。確かに、このことは、異郷で一人、生きるか死ぬかの経験をした者でないと理解できないことかもしれない。E子さんは、言葉も文化も異なる地で一人、宗教学を学び、5年を過ごしたのだった。 F大学に留学したベトナム人のGさん一家を、長らく取材させてもらったことがあった。その間、いつもは気丈なGさんが二度、涙を流したことがあった。一つは、リンゴの皮をむくとき、日本人とは逆にナイフを動かす
A子さんのお母さんが入院して、間もなく3週間。すでに、口からの栄養は摂れない状態となり、身体のあちこちを「チューブでつながれている」という。日増しに、認知症の症状も強くなってきた。 A子さんは毎日病院に通う。ご主人や息子さんが時間のあるときは送迎を手助けしてくれる。一緒にお母さんに声を掛けてくれる。家族総出のお母さん支援プロジェクトだ。以下、A子さん語録。 「自分のオシメを取り替えてくれた人のオシメを交換できるなんて、幸せです」 「汚いとか、そんなこと、少しも感じない。恩返しできるんだもの。こんな時間ができて、ほんと、よかった」 「今日は『赤ずきんちゃん』読んであげた。100均で買った絵本だけど。わざと間違えて読むと『そこ違う』っていうんです」 「すごいよね。笑わせるとね、ちゃんと笑ってくれる」 「与えるだけじゃない。こっちもね、ちゃんともらってるんです」 「いくらボケても、母親なんだ。気
ありきたりの日常のなかで「ねずみ女房」は何がほしいのかわかりません。何かが足りないのです。そんなある日、ハトと出会い、外の世界のことを知ります。そして、ハトとの別れの日「ねずみ女房」は初めて星の美しさを知りました。私たちが大人になっていく意味、日常という世界の凄みを静かに問いかける、大切な1冊。 日常にあった世界とは 大好きな本に『ねずみ女房 』(ルーマー・ゴッデン作 石井桃子訳 福音館書店 )という絵本があります。 ある日、野生のハトが捕えられ、ねずみ一家の棲む家の鳥籠に入れられます。ねずみ女房は夫と子どもたちの世話に明け暮れていました。 ねずみ女房は、毎日のようにハトの籠のそばまで通い、空や風や雲、森や梢、草の露など外の世界の話を聞いたりします。 夫のねずみは時折やきもちを焼いて、ねずみ女房の耳をかじったりするのですが、ねずみ女房は、ハトのところに通うのが楽しくてしょうがありません。
この四半世紀、おつきあいいただいているA先生の本、再読。誰より多忙な先生だが、これまで打ち合わせや原稿のやり取りで約束が守られなかったことは一度もなかった。人に寄り添う、人を敬う――を医療の現場のみならず、あらゆる場面で実践されてきた。 家での看取り、家族との別離――。書かれているのは、おのずと、別れの話が多くなる。自分自身、この1年で、大切な人を何人か失った。この時期に、こんな巡りあわせ。何度も校正したはずだが、改めて、はっとさせられる内容がたくさんあった。そういえば、読者として読んだことはなかったかもしれない。 愛別離苦(あいべつりく) 怨憎会苦(おんぞうえく) 前者は、どんなに愛する人でも、いつかは別離しなければならないという苦。後者は、恨み憎む人にも会わなくてはならないという苦。お釈迦さまの言葉である。人間、生きている限り、この苦からは逃れることはできないという教え。 「怨憎会苦」
ギン映という古びた小さな映画館があった。東映はギン映に比べると少しは小ぎれいだったが、ギン映はどこもかしこもションベン臭くて、この便所には、外から子どもが入れるくらいの穴まで開いていた。映画好きの父に連れられ、何度も行ったが、映画は好きでも、内心はいやでしょうがなかった。 満員のときにも、がら空きのときにも、チケット売り場に人はなく、もぎり嬢もいなかった。あてにならない「上映時間」に合わせて観客が席につき始めると、ヤクザ風情のおじさんが帽子を持って席を回り、お金を帽子に入れながら、中二階の映写室に向かって「今日は2回まわせばいい」なんてふうに怒鳴る。 そのギン映に、一度だけ、母と行ったことがあった。 小学2年生のときだった、と思う。授業の終わりにヨシコ先生が「ギン映で楽しい映画やってるよ」とみんなの前で話したのだ。キンちゃんが興味津々の顔つきで「なんちゅう映画だ」と尋ねると先生は「その映画
〇日 午前、A社のBさん来所。来るたび、最近読んだ本の話などをしてくれる。本棚をぐるりと見回し、この作家のあの本は、何番目くらいに読んだらいいでしょうか…などと質問をしてくる。自分にアドバイスできることなどはなく、感想を話すだけだが、彼とのこんな時間が心地よい。ひとしきり本の話が終わったあとで「実はぼく、転勤なんです」。そうか、転勤か。さびしいが、うれしくもある。やっぱりさびしい。帰り際、握手をして、再会を約束。 守・破・離という言葉がある。言われたことを「守る」、身に付けた型を「破る」、新境地に向かい旅立つ「離」。ものごとを習得する段階を示す言葉だが、Bさんはまさに新たなステップへと旅立っていくのだ。 〇日 少し前に録画しておいた「西の魔女が死んだ」。3度目。今回も正座して、ちゃんと観る。 死ぬということは魂が体から離れて、自由になることだとおばあちゃんは思っています。魂は体がなくなって
100万年も しなない ねこが いました。 100万回も しんで 100万回も 生きたのです。 りっぱな とらねこでした。 100万人の 人が そのねこを かわいがり 100万人の人が そのねこが しんだとき なきました。 ねこは 1回も なきませんでした。 物語は、こんな文章から始まる。絵本「100万回生きたねこ」(1977/講談社)。 王様や船乗り、サーカス団、泥棒やひとりぼっちのおばあさん、小さな女の子などいろんな人に飼われたり、あるときは誰のねこでもない、のらねこになったりするけれど、ねこが死んでみんなが悲しんでも、ねこはへっちゃら。 ねこは100万回だって、生まれ変わることができるのだった。しかし、自分のことが大好きなねこは、ある日、生まれて初めて、一匹の白く美しいねこを愛するようになる。 やがて子どもが生まれ、自分よりも大切な家族を持つことになって… ねこは もう 「100万回
黒澤明の映画のなかで、忘れられない作品の一つに「赤ひげ」がある。何度観ても、あの「井戸」の場面で泣かされる。 ───ある日、赤ひげの養生所に、毒を飲んだ一家心中が運び込まれる。貧しい長屋の長坊の一家だ。 幸い、長坊と母親だけは息があった。その長坊が「泥棒して…つかまっちまった。乞食すりゃあよかったんだ」と、息も絶え絶え話す。 治療にあたる赤ひげの脇で、呆然と立ちすくんでいた賄いの女たちが、ふと思いついて一斉に外に飛び出していく。そして、養正所の前の井戸の中に向かって「長坊〜! 長坊〜!」と大声で叫ぶのである。 地の底に続く井戸の中に向かって叫べば、死にかかっている者でさえ呼び戻せる。そんな言い伝えがあった。「長坊! 長坊!」。 しばらくして、女たちの叫びを聞きながら、赤ひげが弟子に向かっていう。「いま、全部毒を吐いた。もう、大丈夫だ。皆に、いってやれ」。 こんな感じの場面だった。 観る者の
高校の図書館で初めて「光る砂漠」(童心社)を手にした。21歳で夭逝した矢沢宰の詩集である。 2週間おきに借り換えをし、ほぼ3年間、自分の手元に置いた。どうして買おうとしなかったのか、思い出せない。 矢沢の作品を最初に紹介したのは、お茶の水女子大学教授(当時)の周郷博さんであった。1966年のことだ。 「日本語で書かれた詩で、これほど私の心をとらえ、有無をいわせず、私を『変革』する力を発揮した詩は、万葉や実朝の歌、芭蕉の句のほかにあまり思いあたらない」 周郷さんとの出会いで矢沢の詩は文学作品として評価を得るようになり、全国に知られるようになっていった。 私自身は、やなせたかしさんが責任編集を務めた「詩とメルヘン vol.1-3」(1973.10月号 サンリオ出版)で矢沢の存在を知った。詩集が図書館にあったのは幸いであった。 同誌には「詩一篇かきあげて」と「五月の詩」の2編が収録されている。や
○日 去年1年の郵便物と、この10年間の名刺を整理する。郵便物はゴミ袋1つくらい。名刺は2枚の大きな紙封筒に分けて入れ、ガムテープで封をして捨てる。事業ごみなので、他のゴミと一緒に専門の業者に運び込まなければならない。 名刺の大掃除は4度目。以前は、1枚1枚目を通して捨てるものと残すものを選別していた。今回は数十枚だけを除いて、全て破棄。大半の人はメールのアドレス帳に保存されている。 大雑把だが2000枚弱。初対面の人だけで、年間平均200人に会ってきた計算になる。こんなに多くの方々のお世話になって、いまの自分がある。振り返ると不思議な気もするが、確かに、お一人おひとりと時間を過ごし、多くを学んできたのだった。整理の前に、記念写真。 〇日 午前、A教授と、ひょんなことから「おもて・うら」の話になる。物事には「おもて」と「うら」があって、顔は「面(おもて)」で、心は「うら」。「うら寂しい」の
〇日 近道をしようとナビを使うが 駅裏は開発が進んで、古いナビは役に立たない。 住宅地に迷い込んだ。 行き止まりにあたり、バックをしようと窓を開けた。 どこかの家からオルガンの音。 いまどき珍しいなと思って、クルマを止めて耳を澄ます。 子どもだろうか。 足踏みのタイミングが少しずれて、 時折、音がフガフガ、パフパフともがている。 小学生のころ、キンちゃんの家に遊びに行き、 オルガンを聴かせてもらうのが楽しみだった。 キンちゃんのかあさんは 昔、学校の先生だったので、家にオルガンがあったのだという。 キンちゃんの自慢は「ネコふんじゃった」の速弾きで 速弾きだから足踏みも速踏みだった。 短い脚で、カタカタカタカタいいながら 足踏みをして空気を送り、 小さな手で「ネコふんじゃった」を繰り返し弾いてくれた。 天才音楽家かもしれないと、本気で尊敬をした。 いつか大人になったら、 オルガンのある家に住
● 出張。 荷造りはいつも15分で済む。 シェーブローションの補給とカミソリの刃の交換。 整腸剤と風邪薬、ビタミン剤をいくつか持つくらい。 着替えは常に3泊分だけ。 4泊でも、14泊でも、30泊でも、である。 もちろん1泊の場合は、1泊分。 これは日本でも、世界でも、北国でも南国でも同じ。 到着したその夜、身につけたパンツもシャツも ハンカチも靴下も、ホテルの浴室で洗濯し、室内に干しておく。 冬は、乾燥対策ともなるので一石二鳥。 毎夜順繰りに洗濯していくと、 何泊の旅でも、3泊分の着替えがあれば十分となる。 お土産は買わない。 出張先で頂戴した資料やお土産類は、ホテルから宅配で自宅に送る。 手にする、あるいは背負うのもバッグ1つ。 ●● これまでお世話になってきた人への鎮魂の気持ちを込めて ここに書くことが少なくない。 すでに亡くなった人のことを 何人も取り上げてきたが、まだまだ足りない。
テルちゃんは、10歳年上の従兄。 生後まだ数か月の赤ちゃんだったときのことだ。 ある日、木材を積んだトラックに乗った。運転は近所のおじさんで、テルちゃんを抱いた母親が助手席に座った。 何かがクルマの前を通り過ぎた。 次の瞬間、ハンドルを切り損ねたトラックはひっくり返って、田んぼに突っ込んだ。 テルちゃんは母親と一緒に車外に放り出され、落ちてきた何本もの木材の下敷きになった。 九死に一生を得たが、後遺症が残った。 丸い頭のかたちが、3分の1ほど平らになるほどの大けがだった。大人になっても頻繁にひどい頭痛に襲われ、時々全身が痙攣した。 「なぜ、自分だけ、こんな目に遭わなくちゃだめなんだ」 ことあるごとに、周囲の大人たちにそう叫んでは泣いていた。 大人たちは何も言えず、黙っているばかりだった。 そして次第に「愚痴」ばかりいうテルちゃんから遠ざかっていった。 そんな過去のことなど知らない私は、テル
ウーンウーン…というサイレンの音が窓の外に鳴り響くと それまで教室で居眠りをしていた奴らも瞬時に目を覚まし 小さく細かなざわめきが、 ザワワと音とたてて、教室の中を駆けめぐる。 坑内事故を知らせるサイレンだ。 この時間、自分の親が坑内にいる時間かどうかは、 たいていの場合、子どもたち自身が知っている。これは習性としかいえない。 いったん事故が発生すると、 地下千メートルもの場所で働く自分の父親が おおよそどんな状況に置かれるかも、である。 北海道のこの町で、記録に残る炭鉱事故は 1956年・死亡60人、1961年同20人。いずれも坑内でのガス爆発だった。 数人規模の死者を出した小さな事故は 数知れないほどあったに違いない。 サイレンのあとの教室は、残酷なくじ引きの場と化す。 校長先生か教頭先生が 授業中の教室の戸を開け、名前を呼び出された方が「スカ(はずれ)」。 呼び出しのなかった方が「ア
もう20年以上も前、関東のとある山里で「内観」を受けたことがあった。仏教でいう「身調べ」の流れを汲み、少年院や刑務所の一部でも採用されている仏教修養の一つである。 道に迷っていた時期でもあった。その頃ちょうど、尊敬するジャーナリストのAさんも体験したと聞き、それでは自分もと1週間の休みをとって、Aさんと同じ場所に向かった。 早朝から深夜まで畳半分の面積を与えられ、目の前と左右を屏風で仕切った狭い空間で1日14時間、1週間、ひたすら瞑想をする。食事もそこに運ばれ、その場で食す。 1時間か2時間に一度「身調べ」の人が来て屏風を開け、これまで身近な人──例えば両親に「してもらったこと」「迷惑を掛けたこと」「して返したこと」、この3点だけを聞き取っていく。身調べの人は一切言葉を発せず、傾聴するのみである。 最初の3日間は半畳の空間で身動き一つできず、気が狂いそうになる。「来るんじゃなかった」と後悔
数日前、 我が子を亡くしたばかりの母親に会った。 その翌日、 2年前に我が子を亡くしたという別の母親から 手紙を受け取った。 久々に見る手書きの手紙。 細いボールペンで、一文字一文字丁寧に書かれた文字が 便箋3枚にぎっしり埋まっている。 「この頃、仏壇に掌を合わせる 主人の後ろ姿が、小さく見えます」 この文章を一気に書いたのか、時折、ペンを止めながら書いたのか。 そんなことを考えながら、何度も繰り返して読む。 文字をそっと手でなぞり、筆圧を確かめる。 その人自身に ふれたような気になれるのは、自筆の手紙ならではだ。 「小さくなった主人の後ろ姿」が 文字と書き手の思いという2重のフィルタを通し、 柔らかなネジのように 心にギリギリと突き刺さってくる。 手紙を書くということは 書いている間、あなたのことを思っています──。 そんな「時間」を、相手に贈ることでもある。この時間だけが、相手を独り占
空路で大阪に入り、 そのまま奈良・A市に向かう。午後から和歌山・B市のC社。 翌日は大阪市内。 この間、D社大阪支店のE支店長、 建築士でインテリアコーディネーターでもある F子さんのお二人には スケジュールの段取りから運転、食事にいたるまで お世話になった。ありがとうございました。 大阪まで来たのだから 学生の頃に長期間アルバイトでお世話になった 店のおじさんの仏壇にご挨拶をと、京都に向かうことにする。 来年は、十七回忌。 おじさん亡き後は、長男のG君が家業を継いでいる。 「あの、G君いらっしゃいますか」 「その声、わかるよ」 驚かせてやろうと、いきなり電話をして訪ねていったのは 何年前のことだろう。 G君は同い年。 私がアルバイトをしている頃からずっと G君は、店頭に立っていたし、まかないまで仕切っていた。 今回もアポなしと決めていた。 以前みたいに、突然電話をして、G君とおばさんを驚
歌を聴いて初めて泣いたのは 岡林信康の「山谷ブルース」だった。 69年録音のLP「わたしを断罪せよ」に収録されている曲である。 当時はまだケツの青い子ども。 生意気にも、この曲を聴いて、大人になってからは労働者として生きることを決意し、 翌年に発売されたLP「見るまえに跳べ」に 収録されている「堕天使ロック」(詩曲・早川義夫)を聴いてはまた、 一生「見つめるまえに、跳んでみようじゃないか」 と心に決めていた。 同じ盤に収録されている「自由への長い旅」や「私たちの望むものは」も 「いまある世界に留まることなく、自由をめざして生きるのだ」と いま思うに、意味不明の決意を抱かせるに至った曲だ。 この頃から脳みそが軽かった。 が、思春期の夢想とは怖ろしい。 私はその後、大学在学中のほとんどの期間、 道路工事や横浜港での荷役など、ドカタ仕事のバイトで生活費と学費の一部を稼ぎ 卒業式を待たずに旅立った
国道沿いに、大判焼きのお店があった。小さな大判焼きのお店だった。 店の前を通ると、おしるこを少し焦がしたような芳ばしい香りがして 口のなかはいつも、 3日も餌にありつけないノラ犬のように、よだれでいっぱいになった。 小学3年生のときだ。 アベ君と一緒に、たまたま店の前を通りかかったとき いつのもいい匂いがぷんと鼻をくすぐり、 2人の口は同時に、よだれであふれかえった(と思う)。 アベ君は「10円ある」といった。 私のズボンのポケットには、5円玉1枚。 その日、母親から10円もらったが アベ君と会う前に寄った駄菓子屋で、 1円の飴を5つ買って食べてしまったのだ。 大判焼きは1つ15円。「半分コして食べよう」と 2人は顔を合わせ、おそるおそる店の暖簾をくぐった。 暖簾には背が届かなかった。 店のなかには、コンクリートの床の上に安っぽいテーブルが2つ。 「ここで食べていいですか」と店のおじさんに
お前はお前でちょうど良い。 顔も体も名前も性も お前にそれはちょうど良い。 貧も富も親も子も 息子も嫁もその孫も それはお前にちょうど良い。 幸も不幸も喜びも悲しみさえもちょうど良い。 歩いたお前の人生は 悪くもなければ良くもない。 お前にとってちょうど良い。 地獄へ行こうと極楽へ行こうと 行ったところがちょうど良い。 うぬぼれる要もなく 卑下する要もない。 上もなければ下もない。 死ぬ日月さえちょうど良い。 ────「仏様のことば」だそうである。何かの本からか、手元のメモ帳に書かれていた。なんかなあという気分のとき、このメモを、じっと眺める。
英語を習い始めたのは小学5年生のときからだ。母はそれまで、息子の教育になど、なんの関心もなかった人だった。 それがある日、近所のおっせかいおばさんに「中学に入る前に、英語をやっておかないと」とかなんとか勧められ「おまえ、明日から英語に行け」と相成ったのである。 訳のわからぬまま、それから週に一度「英語に行く」ことが始まった(ちなみに母は、病院で検査を受けると『今日は身体にコンピューターをかけてきた』と話す)。 教室といっても塾でもなんでもなく、ふつうの公営住宅の一室。先生は、30代なかばの女流画家だった。近所のおばさんたちに、大学時代に英語を少しはやったのだろうから、自分の息子や娘に教えてくれないか、と無理矢理に頼まれたらしい。絵を描いていても食えないので、それじゃあ、と仕方なく引き受けたのだ。 四畳半の部屋が3つしかないアパートは、寝室以外は襖が開け放たれ、教室となる狭い居間のすぐ隣がア
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