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近代将棋2003年1月号、スカ太郎さんの「関東オモシロ日記」より。 というわけで、無謀にも連載が始まってしまったのであ~る。さて、この連載を引き受けて最初に見た名勝負は、丸山忠久九段対野本虎次七段の王位戦での勝負であった。 羽生善治王位対谷川浩司九段の七番勝負が終わり、谷川王位が誕生した王位戦ではリーグ入りを目指した予選トーナメントが始まっている。 王位戦予選のいいところは、リーグ入りを懸けた予選にシードがなくほぼ横一線から始まるという点である。全日本プロ将棋トーナメントが朝日オープンになって本戦シード制に変わってしまい、現在、抽選による横一線のトーナメントはこの王位リーグ予選だけとなってしまった。そのため、王位戦予選にはおもしろいカードがわんさわんさとあるのだ。 話を戻して丸山-野本戦である。 この対局、開始前に丸山九段が下座に陣取った。オイラにはこの気持が何だかよーくわかる気がするので
去年の夏場だったか、石岡市の焼肉店(今回、小池の喪主をつとめられた古沢文雄氏が経営)で紺野延男氏(富士開発会長)と私と3人、一杯やっている所へ電話が入った。やがて古沢氏が席にもどってきて「誰からの電話だと思う?」と聞く。知る由もない。「小池からなのよ」に「えっ!!」となった。「あの野郎、電話で泣きやがんのよ、男のくせして、泣く奴があるか、バカ野郎」。小池にはさんざ苦い目にあわされてきた古沢氏だが、鬼の目にも涙の風情。よほどの惨状が見てとれた。 旬日を経ず、文字通りの裸同然で紺野氏宅を訪れた小池だった。「会長の将棋クラブで休ませて頂けませんでしょうか」「ああいいですとも、使ってください。そう言いましたよ私は」。紺野氏の後日談。けれど、クラブに起床したのもわずかだった。緊急入院の要があったのだ。 「あと1ヵ月です。遺体は必ず引き取ると保障してください。こう医者がいうのよ、まいったね」と古沢氏は
将棋世界1992年8月号、内藤國雄九段の連載エッセイ「真剣勝負の話」より。 宮本武蔵は一生の間に50数回の決闘をし、敗れることなしと自ら語っている。 そのうち幾度かは木刀や薪、船の櫓などいわゆる真剣でないものも用いている。しかしそれで相手を叩き殺しているから真剣勝負の名にはじない。真剣勝負とは生命を賭けた勝負のことで本当の真剣、つまり切れる刀を用いるかどうかは問題でない。 以前、ある雑誌社が全国のアマ将棋強豪に「将棋が強くなる方法」についてアンケートをとったことがある。なかに「真剣をすること」という回答があった。武士の真剣勝負は命を賭けることだが、将棋の場合は金銭を賭けることである。金銭が賭けられると真剣さが加わるという意味合いから、この言葉が使われるようになったものと思われるが、正しい由来はつかめない。 この真剣の意味は将棋だけのものらしく、囲碁や花札などでは用いられていないようだ(因み
「東村山音頭」といえば、東村山市出身のドリフターズの志村けんが、TBS系「8時だョ!全員集合」で披露して大人気になった唄だ。 「東村山音頭」は、1963年に東村山市の市制施行を記念し東村山町農業協同組合がレコード発売した音頭で、「8時だョ!全員集合」では1976年から唄われはじめ、志村けん人気を飛躍的に高めた。 「8時だョ!全員集合」に「東村山音頭」が登場するきっかけとなったのは将棋だった。 いかりや長介「だめだこりゃ」に、登場の経緯が書かれている。 「8時だョ!全員集合」のネタ作りの会議は毎週木曜日に行われていた。いかりや長介さんと作家が中心となって行われる長丁場の会議で、ネタ作りに四苦八苦すると、しばらく沈黙が続いたり、雑談したり。 煮詰まると、メンバーはやがて隣の部屋に移り、ありとあらゆる暇つぶしを考案しては遊んでいた。将棋やポーカーが主流だったらしい。 メンバーが勝手にはじめたこと
将棋世界2002年4月号、「高橋和と中倉彰子のみんな大好き!」より。 今回の対談は、熱狂的な将棋愛好家で知られる渡辺徹さんをゲストに迎え、将棋会館道場で行いました。この公開対談では、渡辺さんの親しみやすい話しぶりや楽しいエピソードに、場内のファンは笑いの渦に書き込まれました。そして記念対局で、渡辺さんはある可愛い少女と指したのでした。 ―渡辺さんは、高橋さん・中倉さんと以前からお知り合いとか。 渡辺 高橋さんと初めて会ったのは、7年前の名人戦(1995年の羽生善治名人-森下卓八段)のときです。 高橋 たしか赤坂プリンスホテルでの第3局で、観戦に来られた渡辺さんを紹介してもらいました。それ以来、メール友達になりました(笑)。 渡辺 勝っておめでとうとか、ご飯を食べようとか、他愛のないことをたまにやりとりしています(笑) 中倉 私はNHKのペア将棋の番組で、渡辺さんと組みました。 高橋 あのと
将棋世界2003年4月号、「米長邦雄永世棋聖円熟対談 ゲスト:志村けん」より。 米長 将棋がだいぶお好きなようですね。 志村 将棋は子どものころ覚えました。それ以来ずーっとやってなくて。ドリフターズの『8時だよ!全員集合』をやっているころ、休憩時間なんかがあるとみんなで指していました。 米長 だいたい同じような棋力ですか。 志村 Aクラス、Bクラス、Cクラスがあって、うまい順に駒も違うんです。 米長 駒も違う(笑)。 志村 Aクラスがいかりやさん(長介)と仲本さん(工事)。次に僕と加藤さん(茶)。僕はいかりやさんに何回かに1回勝つぐらいですね。高木さん(ブー)だけがあまりやらないのかな。考えると寝ちゃうんでね(笑)。 米長 だからブーっていうんだ(笑)。 志村 『8時だよ』の番組では朝10時からリハーサルやって、12時ぐらいから歌手の人が音合わせで練習しているときに1時間ほど空くんですよ。
私が内弟子をしていた頃、一番上の兄貴が、時々遊びに来ては、「お前は勉強しろよ」と学校の成績が落ちていないかをいつも心配するのだった。母親のかわりに見に来ていたらしい。普通にやってさえいれば、どこか大学を出て、そして無難な生活が送れただろうに。これが親兄弟の偽らざる気持ちであっただろう。だから、将棋をやったがために、成績が極端に落ちることを極度に恐れていたようだ。お前は勉強してるかと、いつも心配していた。 これに対し私の方は「勉強しているよ」もちろん私の言う勉強というのは、将棋のことであるけれども、兄貴の言う勉強とは学校の勉強のことである。 数多く辛いこと、またバカバカしいことがあった内弟子時代だが、そのバカバカしい話のひとつを。 師匠と一緒に稽古に行くことが何回かあったけれども、その帰り道。 下十条(現在の東十条)の駅を降りて師匠宅までは、歩いて約3分。途中で鉄橋を渡る。 ある冬の寒い夜、
YouTubeチャンネル「将棋伝説」、87本目の動画は「最年少棋士の推移」です。 その時々の現役最年少棋士が誰だったのか、そして最年少の期間はどれくらいだったのか、調査・計算してみました。 加藤一二三九段から藤井聡太竜王、伊藤匠五段へと至る最年少棋士の系譜。(2022年10月1日からは藤本渚四段が最年少) 短時間のうちに、さまざまなことを振り返ることができると思います。 * * * * * 「将棋伝説」チャンネル、今後も動画が増えていく予定ですので、よろしければ、チャンネル登録をお願いいたします。 →「将棋伝説」 * * * * * →最年少棋士の推移
近代将棋1983年8月号、小林勝さんの「棋界パトロール 千日手」より。 「同一手順3回……」という決め方が実際の対局にて不都合をまねくということは、武者野勝巳四段ら若手棋士の間でかなり以前から言われていたことである。5月26日に行われた定時棋士総会のひと月程前、彼らは規約を改正するべく、すでに行動を起こしていたのであった。 規約を変えるということはなかなか難しい作業である。しかも、この千日手問題はこれまで何度か総会の議題になっているにもかかわらず結論を見ぬまま今日に至っている。総会は年に1度しかない。総会の時間にも限りがある。今度も並の手順では規約改正の提案は無為に終わってしまうやもしれないのだ。慎重に考えた末、彼らは武者野四段を代表として、全棋士にあて、一通の封書を送ったのであった。その内容は次の通りである。 武者野試案 ―前略…… さて、私が突然手紙を差し上げましたのは『同一手順3回に
気がつかない間に、歴史的な再会があったことを知った。 福岡県福津市の宮地嶽神社で行われた竜王戦第2局、対局前日(10月22日)のこと。 そして、偶然にも林葉先生にお会いしたらしく嬉しそうに『羽生君!とこの歳でも呼ばれるのは林葉先生だけで、20代の自負を思い出した!』と。林葉先生に私もお会いしたかったです。 — 羽生 理恵????? (@yuzutapioka) October 25, 2018 10月25日の夜のtweetなので、羽生善治竜王が竜王戦第2局が終わった翌日、家に帰ってすぐに理恵さんに話したことなのだろう。 たしかに、卒業後何年経っても、あるいは経てば経つほど、学校で同級生だった女性・先輩だった女性から君付けで呼ばれると、とても嬉しい気持ちになるものだ。嬉しくなる理由については今まで考えたこともなかったが、羽生竜王が話す通り「10代、20代の頃の自分を思い出す」のがやはり大きな
将棋ジャーナル1985年10月号、小池重明氏の「すべてを告白します(1)」より。 ここに一人の、将棋界から逃竄を余儀なくされた男がいる。その名は小池重明。 彼は二年余地獄をさまよい、なお今もさすらい続けている。無明の中で、彼は救済を希った。「助けてくれ」と叫んだのだ。 しかし彼が将棋界に復帰するにはいくつかの手順を経なければならない。迷惑をかけた人達への謝罪、具体的な償い、そして騒がせた世間への釈明である。 彼はまず謝罪の手紙を送ることから始めた。そして後日、弁済方法について話し合う決心を固めた。総てを片づけるにはおそらくある年月を要する筈で、ゆえに確実に履行される保証はなにもない。しかし、将棋ジャーナルとしては今一度彼の言葉を信じてみようと思う。彼に立ち直りのきっかけとなる場を提供したいと思う。大方の非難は覚悟でそうしたいのである。無視し去るには彼はまだあまりに若く、惜しい技術を持ってい
将棋世界2005年3月号、山岸浩史さんの「盤上のトリビア 第11回 『将棋は気分しだい』である」より。 「暗い」「勝てない」の悪循環 読みの深さと知識の量。もしコンピュータ同士なら、この二つの優劣で勝負は決まる。だが人間が将棋を指す以上、そこにどうしても第3の要素が入り込む。そして、それこそが勝敗を分けることを身をもって証明している人がいる。 「寒いですねえ」とニコニコしながら、その人は現れた。スーツが似合う長身。黙っていればかなり威圧感があるのに、ぼそぼそとした声を発したとたん、ただの「いい人」になってしまう。 瀬川晶司さん、34歳。ご存じ、恐怖のプロキラーである。 平成12年、銀河戦で対プロ7連勝。15年、やはり銀河戦で久保八段を破り、アマ初の対A級勝利。今期銀河戦も現在4連勝。その対プロ戦通算成績はなんと15勝6敗で、勝率7割1分4厘はプロの年間勝率ランキングならベスト5くらいには入
先崎学五段(当時)渾身の観戦記。 将棋世界1991年7月号、先崎学五段の第49期名人戦〔中原誠名人-米長邦雄九段〕第3局観戦記「偉大なる虚像」より。 「ええ、勿論米長九段の応援です。スケールの大きな将棋に憧れますね。一度でいいから名人になってほしい」 (42歳・会社員 四段) 「ワシの好きなのは、何といっても昔升田、今米長だ。実績では大山、中原に負けるが、それがどうしたちゅうんじゃ。まったくだらしのない奴だ。一度くらいは名人取らんかい」 (69歳・二段) 「将棋のことはよく分からないんですけど、米長先生ってなんだかとても魅力的なんです。イヤラシイところがなくて、本当に爽やかな感じ。ス・テ・キ。えっ?名人に挑戦するの。頑張ってほしいわ」 (32歳・主婦 覚えたて) 「おい、米長の弟子の先崎というのはあんたか、俺は米長の大ファンなんだ。今日は苦戦しとるが、必ず勝っていると信じてるぞ。ちょっとア
将棋世界1995年9月号、故・池崎和記さんの「昨日の夢、明日の夢」より「杉本昌隆四段 四間飛車の無印良品からブランド品へ」。 最近、タイトル戦で振り飛車の将棋をよく見かけるようになった。 羽生-森下の名人戦では向かい飛車と四間飛車、羽生-三浦の棋聖戦では四間飛車と三間飛車、羽生-郷田の王位戦では四間飛車が登場した。 その前の羽生-森下の棋王戦、谷川-羽生の王将戦、羽生-島の棋聖戦のときは、振り飛車は一局もなかったから、これは注目すべき変化である。 タイトル戦以外でも、例えば谷川浩司が今年度に入ってから振り飛車を7局指している。トップ棋士がこぞって振り飛車を指すなど、この10数年来なかったことだ。振り飛車の優秀性が見直されてきた、ということだろうか。 振り飛車は昔、棋界の花形戦法だった。大山康晴と升田幸三が棋界を制覇していた昭和30-40年代が最盛期で、プロもアマも振り飛車を指した。ところが
近代将棋1993年10月号、池崎和記さんの「福島村日記」より。 某月某日 森信雄六段(関西本部の新理事)と一緒に雷鳥23号で富山へ。明日、星井町小学校体育館で羽生竜王の「100面指し」があるのだ。羽生さんは当日、飛行機で来るそうだ。 このイベントは星井町児童文化センターの将棋クラブが将棋世界誌の「全国棋士派遣プロジェクト」に応募して実現したもので、羽生さんが指導するのは小中学生100人。 (中略) 体育館に下見に行くと、星井町児童文化センターの皆さんが準備の真っ最中。長テーブルを34台(1台につき将棋盤が3面ずつ)、「ロ」の字形に並べてあった。その内側を、羽生竜王がカニみたいに横歩きしながら一手ずつ指していくわけだ。 一周するのにどれくらい時間がかかるか、試しに森さんが歩いてみると5、6分だった。かりに1局平均100手(うち上手が指すのが50手)とすると、100面では4時間以上かかる計算に
将棋世界1992年8月号、先崎学五段(当時)の「先チャンにおまかせ:浪速、正棋会、乱れ撃ち。(後編)」より。 1年くらい前、羽生が、持ち時間が短い将棋が終わった後に、奨励会の頃を思い出した、といったことがある。中盤戦から双方1分将棋の大熱戦を、やっと勝ったので、そういえば、こんなに秒読みをやったのは、(TV棋戦を除くと)奨励会以来だ、というのだ。奨励会は1時間30分の持ち時間なので、深くて正確な読みよりも、短くとも、鋭い読みが大切になる。中盤戦から秒読みになることが多いので、実力が拮抗していると、だいたい難解な終盤を1分将棋で指さなくてはいけない。そのときに、最も重要なことは、手が見える、ということである。言い換えれば、将棋に対する反射神経にすぐれているということだ。 切れ負け将棋は、反射神経を鍛えるには絶好で、奨励会、とくに有段者になってからは、本当にたくさん指した。僕の有段者の時代、羽
将棋世界1996年2月号、当時の将棋世界編集長の大崎善生さんの編集部日記より。 ある飲み会である人から、羽生六冠王が「打ち歩詰めのルールがなければ、将棋は先手が有利」と発言しているということを聞いた。以前話題になった「寄せのパターンは800通り」という羽生さんの発言以来の衝撃である。早速、私は会う棋士、会う棋士にその言葉の意味を聞いて歩いた。そして、その過程でこの発言は半年ぐらい前に、森内八段、佐藤康光七段らがいる席でなされたらしいことをつきとめた。 佐藤さんは三日間考え続けて、結局結論がでなかった。森下さんは一日考えて、考えることをやめた。森内さんは最初からバカバカしいと少しも考えなかった。 誰が賢いのかわからないが三者三様で面白い。 この話を先崎さんにした。彼は「そんなの、思いつきで言ってるだけですよ、どうせ」と言った。「また、煙に巻こうてんだ。ヘッヘ」と端から相手にしない。しかし、し
将棋マガジン1984年1月号、林葉直子女流二冠(当時)の「ただ今修行中」より。 この原稿は、東京の郊外のある古い家の四畳半の一室を借りて書いています。 私、あのやさしい米長先生をすっかり怒らせてしまい、また東京に帰り一から出直すことになりました。原因は二つあります。一つは、私の成績が悪いこと。もう一つは、私の生活態度にけじめがないこと。煎じ詰めれば成績が悪いのは生活態度がなってないから、ということで、最大の原因は「生活態度の悪さ」ということになるかもしれません。 米長先生のお許しをいただいていますので、先生のお手紙から一部引用させていただきながら、自己反省をし、この誌上を借りて、先生にお詫びしたいと思います。 先生を立腹させることになったきっかけは私のCMで歌っている歌のレコード化問題でした。レコードは出させないという父の主張を通すに際し、幾人もの人にご迷惑をおかけしました。とくに、私の「
将棋世界1985年9月号、野口益雄さんの「詰将棋サロン解答」より。 今回は詰将棋と無関係のことを書く。 私が本誌を編集していたころ、各界の有名人愛棋家を編集部が訪問してお話を聞く欄があった。何回目かに参議院議員の山東昭子氏を訪問した。 すると発売日から抗議の電話や投書が殺到した。こんなこと初めての経験なので驚いた。お役人の気の弱い人だったらマッサオになるだろうと思った。 おおむね「選挙直前なのに政治家を公共の誌面に登場させるとは、けしからん」という趣旨であった。約1ヵ月その抗議は続いた。 ヘエー、政治に関することは採り上げないのがよさそうだ、とその時は思った。 しかし、今になって考えてみると―。 赤旗まつりの将棋会に私が取材に行って写真をのせたこともある。その日は宮本書記長の昼食会に思いがけず招かれたり、翌日のアカハタの第一面の片隅に私の名前ものっていたり。だが何ひとつ抗議や反響はなかった
最近、ぼんやりと次のようなことが気になっていた。 藤井聡太四段の活躍に端を発する将棋ブーム、そのインパクトが数値的にどれほどの好影響を与えているのか。 AbemaTV将棋チャンネルの出現によって、ニコニコ生放送の将棋番組の来場者数は影響を受けているのかいないのか。 そこで、ニコニコ生放送の将棋番組の来場者数から、その2つを調べてみることにした。 あわせて、ニコニコ生放送の将棋番組の来場者数の推移から、何か見えてくるものがあるのかないのかも。 ————— ニコニコ生放送で過去に中継された対局(2017年9月14日まで)の来場者数を多い順に並べてみた。(ニコ生の検索機能から抽出)
将棋世界1996年4月号、野口健二さんの「ドキュメント 七冠誕生の瞬間」より。 2月14日、午後4時45分。急にひっそりとした取材本部のテレビには、先程まで検討陣が予想していた通りの手順で収束へ向かう盤面が映し出され、大盤解説場のざわめきが時折流れてくる。 画面が切り替わると、顎をぐっと引き、頬に丸いふくらみの目立つ谷川と、両手を前につき、前傾姿勢をとる羽生の姿。アップに成った羽生の面上に、来し方を振り返るような穏やかな表情が浮かぶ。 △5八銀と指されて谷川が席を外すのを見て、対局室「王将の間」に向かった。ドアの前には主催紙のカメラマンら約10名が陣取り、少し離れてテレビ局のスタッフ、さらに先には新聞・雑誌各社の取材陣が、歴史的な瞬間を待ちうけている。 5分、10分と経つが、ドアは開かれない。緊張に耐えかねるように、囁き声があちこちで起こり始める。弔鐘のようにも、七冠を祝福するようにも感じ
昨日放送されたNHK クローズアップ現代「14歳棋士・知られざる偉業への道 ~歴代最多28連勝・藤井聡太~」の中で、藤井聡太四段が大師匠(師匠の師匠)である故・板谷進九段の夢(東海地区にタイトルを持ち帰る)を叶えることが自分の夢でもあると語っているシーンがあった。 板谷進九段から杉本昌隆七段、杉本昌隆七段から藤井聡太四段へと脈々と遺志が受け継がれていると知り、テレビを見ながら感動した。 —————— 将棋マガジン1988年5月号、小林健二八段(当時)の板谷進九段を追悼する「先生のおもいで」より。 2月21日(日)お昼まえ、私は先生のお宅に電話をかけた。先生はいつもとかわらぬお元気な声で私と1~2分ほどお話をして電話を切られた。まさかそれが最後になろうとは、この時は夢にも思わなかった。 その日の夕方、弟弟子の中山三段から電話がかかり先生がお倒れになったと聞いた時は信じられなかった。つい数時間
将棋世界1982年10月号、毎日新聞の井口昭夫さんの第40期名人戦最終局レポート「加藤新名人誕生」より。 一日目朝 立合いの木村義雄十四世名人夫妻を宿舎のホテル・ニューオータニから将棋会館へ午前8時半にご案内した。この時間の都心は、まだ比較的すいていて、午前9時対局開始には早すぎたが、前後して、もう一人の立会い丸田祐三九段、観戦記の原田泰夫八段も控え室に姿を見せ「やあ、久し振りだね」と木村名人は大喜び、早速、懐旧談に花が咲いた。十四世名人のお元気なのは喜ばしい。 異例づくめの名人戦だった。実質10局目になったため、将棋会館の宿泊施設が間に合わず、前夜泊まったのは中原名人と加藤十段の二人だけ、朝食も各自、外でお願いするという申し訳ない始末だった。 ただし、大勝負の最終局にふさわしいお膳立ては多かった。木村十四世名人が本格的な立合いをするのは初めてだったし、二日目の大盤解説は東京・関西両将棋会
昨日、三浦弘行九段の冤罪事件について、三浦弘行九段と日本将棋連盟の間で和解が成立したことが発表された。 →三浦弘行九段と日本将棋連盟の間で和解成立のご報告(日本将棋連盟) →日本将棋連盟 三浦九段に慰謝料支払いへ 双方合意(NHK) →三浦弘行九段に慰謝料支払いで和解…将棋連盟(読売新聞) →三浦弘行九段と将棋連盟が「将棋ソフト不正疑惑」で和解 慰謝料は非公表(会見詳報)(ハフィントンポスト) 三浦九段が「この問題が長引いて、せっかく将棋界が盛り上がっているのに水を差す形になってしまってはいけない。棋士なら誰しも思っていること」と語っているように、三浦弘行九段側が大人の対応をしたことがうかがえる。 また、佐藤康光会長も、会長となることが決まる以前からこの問題のことで三浦九段への謝罪の気持ちを非常に強く持っており、真摯に取り組んでいることを、私も信頼すべき筋から1月に聞いている。 そのような
将棋世界1981年2月号、読者のページ「声の団地」より。 私の将棋は、競馬にたとえると逃馬タイプである。本で将棋を覚えたせいか、序盤の型には明るいが、終盤は滅法弱い。そこで寄せを強くするため、詰将棋に取り組んでいる。だが、詰将棋を確率的な視点から眺めたらどうか、ということを思いついた。 「金はトドメに使え」と言われる。これは、金とそれ以外の駒が持ち駒にあるときには、終手を金打ちにすれば正解となる確率が高いということであろう。ならば、この格言を統計的な数値で裏付けることができるのだろうか。また、これ以外に統計的、確率的な事実として、一定の事柄が言えないだろうか。―このように考えて、手元にある詰将棋集を調べてみた。因みに、私の手元にある詰将棋集は、全部で10冊、すべて作者は異なり、手数としては5手詰から11手詰の短編が殆どである。 さて、結果は次の通りであった。 金を持ち駒に使うもの総数329
近代将棋2001年8月号、青野照市九段の「実戦!青野塾」より。 今期A級へは、承知のとおり藤井猛竜王と三浦弘行新八段が昇級した。最近のB級1組は、前期にB級2組から昇級したばかりの若手が連続昇級することがほとんどだが、今回のように二人とも連続昇級というのは滅多にないことである。 しかも二人は、西村一義九段門の同門で、さらに群馬県出身という同郷。B級1組の最終日の日には、群馬の地元紙が深夜遅くまで対局室に上がる入り口で待っていたが、さぞかし長時間待った甲斐があったろう。 さてこの二人のうち、藤井は竜王位の3期目となり、かなり棋風や将棋観が知られてきたが、三浦のほうは、羽生の七冠独占を崩し棋聖位を奪取したことでは有名だが、その棋風や人間性などはあまり知られていない。 それは彼が、ほとんど研究会などには入らず、一人で黙々と研究するタイプだということにもよる。したがって人となりは私など世代も違うか
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