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猫
situationniste.hatenablog.com
ポストフォーディズムにおいて、労働は一種のパフォーマンスとなる。フレキシブルな生産体制において重要なのは、偶然性が支配する(社会学でいうダブル・コンティンジェンシー)環境の中で、コミュニケーションしつづけること、コミュニケーションの回路から排除されない能力が労働者に要求される。 このようなコミュニケーション労働は、これまでの労働とはいささか性格を異にする。あるいは、アーレントが人間の活動に関して行った区別(行為、仕事、労働)でいえば、単純に労働とは括れないものになっていく。なぜなら。コミュニケーション的労働は、必ずしもその活動の結果が活動自体の外にある(「制作」の定義)わけではないからである。コミュニケーション的な労働(マルクスのいう非生産的労働)では、パフォーマンスのよさが評価の対象になる。 たしかに従来も、このような、活動自体が評価される領域(さまざまなサーヴィス労働の分野)がないわけ
訳者改題 本質的な変化を遂げなかった世界の枠内においては、シュルレアリスムは成功した。その成功は、ひるがえって、支配的な社会秩序の転覆以外のなにものをも期待していなかったシュルレアリスムを裏切ることになる。しかし同時に、その転覆に携わる大衆の行動に生じた遅れは、先進資本主義の他の諸矛盾と相伴って文化的創造の不能症そのものを維持しまた悪化させながら、シュルレアリスムの現状を維持しているのであり、またシュルレアリスムの堕落した繰返しにすぎない様々なものを助長しているのである。 シュルレアリスムが遭遇した生活条件は破廉恥にも今日まで存続しているが、その生活条件においては、シュルレアリスムは乗り超えられない性格のものである。なぜならば、シュルレアリスムはすでに、全体的にみて、ダダイスムによって清算された詩と芸術に付け加えられた補遺であるからであり、また、シュルレアリスムの序章全体は、芸術の歴史につ
シチュアシオニストの運動に関心をもったきっかけは、パンクとのつながりであった。知られるように、セックス・ピストルズの仕掛け人でありマネージャーであったマルコム・マクラレンはロンドンにおけるシチュアシオニストのシンパだった。この事実をふくめて、パンクやニューウェーヴの音楽とスタイルを20世紀の前衛の歴史、ダダ、シュルレアリスム、レトリスト、シチュアシオニストの表現と運動との系譜と横断的関係において考察した著作として、グリル・マーカスの『リップスティック・トレイシズ』(ハーバード大学出版、1989)は、ある時期までわたしにとってはバイブルのようなテクストだったのである。 というのも、そこでは自分が夢中になってきた音楽と(社会)思想のするどい交差点を見いだすことになったからである。今ではこの本にもいろいろな批判がなされている。 一番大きな批判は、結局この本が、パンクにせよシチュアシオニストの運動
『アンテルナシオナル・シチュアシオニスト』には、その扉あるいは裏表紙に常に「『アンテルナシオナル・シチュアシオニスト』に発表された全てのテクストは、 出典を明記しなくても、自由に転載、翻訳、翻案することができる」と書かれている。しかし、シチュアシオニストにとってこの銘記は、ブルジョワ的私有概念 を無視した、運動に資する「海賊出版」を自由に行ってくれという意味であり、資本主義システムに嬉々として組み込まれた大出版社がこれを利用することに対 しては、彼らは「事実行為」によってあくまでも闘うという態度を貫いた。(……)したがって、本書もまた「出典を明記しなくても、自由に転載、翻訳、翻案 することができる」。そのようにして本書が活用されることを願う(日本語版『アンテルナシオナル・シチュアシオニスト』木下誠氏による「あとがき」より)。 電子書籍(PDF/epubフォーマット)に対応しました。下の目次
“シチュアシオン”(状況)とははなはだ便利なことばである。“状況”とつぶやくなり書き記すなりするだけで、なにごとかを語ったような錯覚におちいる。しかし、いうまでもなく、”状況”という記号のシニフィエ(意味内容)は各自の思想やイデオロギーに応じてさまざまに異なる。 サルトルが戦後長らく書きついだ〈シチュアシオン〉(状況論)は文字通り自己を取り巻く世界の“状況”を語り、そのなかにおいて自らの選択すべき立場を明らかにしようとするものであった。しかし、シチュアシオニストの場合には、当初“シチュアシオン”ということばはある角度から切り取った客体しての世界の姿ではなくて、自らの手で“構築"すべき一種の“主体的対象"であった。ただし、それはやがて客観世界の成り立ちの説明図式へと変化していく。その集大成がギー・ドゥボールのベストセラー『スペクタクルの社会」である。ドゥボールはそのなかで“スペクタクル"とい
1、1969年のシュルレアリスム 「この手の文学主義者は何の役にも立たないな」───と、その連中を見ながら私は思った。彼らの黒いヘルメットには、”コントル・アタック”と赤ペンキで鮮やかにレタリングされていたからである。1970年の夏、場所は都内の某大学構内。K派の襲撃とそれに伴って予想される機動隊導入に備えて直ちに支援に駆けつけ、防衛のための部隊編成を急いでいた時のことだった。たぶん彼らはこの大学の仏文系の人たちであり、「コントル・アタック(反撃)」とは1935年にアンドレ・ブルトン、ポール・エリュアールらのシュルらリストたちが、ジョルジュ・バタイユ、ミシェル・レリスら後の「社会学研究会」グループと共に結成した「革命的知識人闘争同盟」という反ファシズム・グループの機関紙名であった。 「気持ちは分かるけどね───」というのが、正直なところだったと思う。何故ならば既に私は、この前年1969年の
訳者改題 「事実、社会的関係はどんな些細な改良を施すにも、実に並外れた集団的エネルギーの動員を必要とする。この甚だしいギャップは、もしそれが真のすがたで大衆の意識に現れるなら、彼らを意気阻喪させてしまうことだろう。 こうした恐るべきギャップは、達成されるべき成果を人工的に派手に誇大化することによって、大衆の意識の上では著しく軽減されるはずである。投入された努力の大きさは直接に感じられたものである以上、すでに隠しようがないが、これに十二分に見合うまでにギャップは埋められなければならない。こうした歪曲は、外部からみるとデッチ上げともいわれかねない。しかし、まさにこれこそがイデオロギーのなせる業であり、またそれゆえイデオロギーは社会進歩の不可欠な条件をなす。」 レゼック・コラコウスキ*1(『責任と歴史』) われわれの生きている世界、とりわけその物質的な舞台装置=背景は、あきらかに日増しに狭まりつ
訳者改題 現代文化における革命と反革命 世界を変革しなければならない、われわれはまず、そう考える。われわれが閉じこめられている社会と生を最大限に解放する変革、それをわれわれは欲するのだ。この変革はそれに適した行動によって可能になることをわれわれは知っている。 われわれの任務はまさに、ある種の行動手段を活用すること、そして新たな行動手段を発見することにある。それはどこよりも文化と風俗習慣の領域において容易に認められるものであるが、それらをあらゆる革命的変革の相互作用という展望のもとで活用しなければならない。 人々が文化と呼ぶものは、ある社会における生の組織化の様々な可能性を反映するだけでなく、それをあらかじめ描き出すこともある。われわれの時代は本質的に、より高度に世界を組織化することを必要とする生産の現代的可能性の発展に対して、革命的な政治行動が遅れをとっているという特徴を持っているのである
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