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一 関大全共闘だった渡邊君に対するインタビューが目に入った。黒田裕子さんの神戸女学院での修士論文「全共闘運動経験者のオーラル・ヒストリー その実践と考察」のものである。phpBB・creating communties、www.tatsuru.com - Seminar「内田ゼミ生によるゼミ生のためのフォーラム」と称するものに掲示してあった。 渡邊君のインタビュー自体は、プロ学同とフロントが一緒になったりしているが、先ずは妥当な内容のように思う。雰囲気も当時の者としては判る。その時代の人の具体的な話として貴重であるとも思う。それは、渡邊君が自分の父親の話を聞いておきたいと思いながら聞けなかった残念とも重なる。それぞれのインタビューは、それぞれの人のかけがえのない話として、貴重であり、興味深い。 ただ、4人の話を聞いて、「全共闘運動は一体何だったのか、そのことについて考察をおこなった。」とな
2004年に講談社から出版された『網野善彦を継ぐ』は、中沢と赤坂の網野善彦追悼の文を土台にしておこなわれた対談である。赤坂は、「あとがき」で「もとより、網野善彦を継ぐ、といった物言いがまったく不遜なものであることは承知している。」と述べているので、少々期待した。期待は全くはずれた。中沢はともかく、赤坂は、吉本隆明との対談(『天皇制の基層』作品社 1990年/講談社学術文庫 2003年)では、明らかに吉本を動揺させていた。幇間糸井重里の猿回し芸にのせられていい気になっている吉本が、きちんとした教養のある者と対面して、狼狽し、(赤坂の話は)断じて承伏出来ないと、虚しくも身構えた(虚勢)。どうやら、「断じて承伏出来ない」と、狼狽を裏腹に断固とした口調で表した吉本の態度に、赤坂は退いてしまっていたようである。 中沢と一緒になって、網野善彦の足を引っ張るような話を続ける赤坂は、吉本を狼狽させていた赤
一 5月3日の夜、荒岱介(日向翔)が亡くなったということを5月5日の毎日新聞朝刊で知った。前立腺癌とあった。荒が、病気で、しかも深刻であることは聞いていた。その時は驚いた。それで新聞の訃報欄で荒の名を見たときは、ついにその時を迎えたか、という思いだった。 新聞の訃報蘭などの荒の肩書きは、共産同戦旗派元議長とか代表とかある。実際、荒が日本の新左翼の一つ顔だった時代があるようだが、荒の名前で印象的なのは、'69年の『戦旗』に、獄中からの「社学同全国委員会委員長荒岱介」の文が掲載されていたころだ。また『理論戦線』6,7,8号のころが日向翔の絶頂期だったのかも知れない。 '68年の荒は、角がついたようなヘルメットを被った大男だったという印象で、抜群のアジテーターというわけでは決してなく、絶叫型でもない、一風変わった、面白い喋りをする目立つ男だと聞いていた。1967年10/8羽田以降の、60年後半の
四方田犬彦『ハイスクール1968』から、すが秀実『1968年』小熊英二の仕事をチェックしながら、関西大学の1969年を、追う予定であった。先に、関西大学では、大学の機関が、全共闘の綿密な記録を発行していると、書いた。しかし、それは少し勇み足で、もっと広く目配りされた編集になっている。というのは、丹念に、例えば、民族派の日本学生同盟(日学同)のビラまで収集編集され、後に東京都副知事として活躍する浜渦某の業績も遺されていて得難い資料集になっている。 1969年7月5日未明、全共闘によって封鎖中の関西大学会館に大阪府警機動隊が入った。全共闘は逮捕を避けて、2名の逮捕者以外は退去し、改めて、再占拠の構えに入った。機動隊の出動を容認した関西大学学長中谷敬寿(法学部教授・憲法)に対して、法学部教授会は、7日朝、不信任決議文を送付した。8日には文学部教授会もそれに倣うことになった。さらには、経・商学部教
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