五月号の時評でも引用した、服部真里子の連作「塩と契約」(「短歌」四月号)と小池光による同時批評をめぐる議論が、盛り上がりを見せている。まず服部自身が「歌壇」六月号で、言葉とは共有不可能なものであるという立場から「「読む」ことは、読者が作者の言葉を自らの言葉に置き換え、作品を再構築する作業に他ならない」と小池らへの反論を試みた。これを、大辻隆弘が「短歌」七月号の歌壇時評「読みのアナーキズム」で痛烈に批判したことで、議論は服部の短歌観、言語観の可否にまで及びつつある。 水仙と盗聴、わたしが傾くとわたしを巡るわずかなる水 服部真里子 小池が「まったく手が出ない」「イメージが回収されていない」と困惑したこの歌について、私は「それほど難解とは思えない。水仙を見ようと身を屈め、盗み聞くためにドアに耳を寄せる。そんなふうに自分が傾くとき、体内で揺らぐ水の存在。(略)イメージの並立がやや強引だが