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パリ五輪
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Feeling of Materials: Structural Analysis of Animated Movies of Makoto SHINKAI|Minakami 文:みなかみ はじめに アニメの画面に描かれている諸要素は、我々の瞳を強く刺激し続ける「素材」としての輝きを放っている。無論アニメの作り手たちはセルで描かれたキャラクターでもいいし、背景美術でもかまわないが、いかにそれらの持つ(というか持たざるを得ない)物質性から遠く離れてフィクションを構築しうるかを常に思考=志向している。ゆえに画面に映り込むセルやBG(バックグラウンド=背景)や3DCGの関係は相対的に結ばれていき、ひとつのカットとして意味を持ち、物語を語ることができる。 その作り手たちの実践をただ単純に解体していき、すべてを素材に還元する行為を人は批評とは呼ばない。その相対的な結び目をほどきながら、どのようにカッ
※本記事は、シャフト批評合同誌『もにも~ど 2』(2024)所収の論考を一部加筆・修正のうえ、転載したものです。 Drain-Images Chase:About the Direction of Anime by SHAFT|Animmony 文:あにもに 自分の思考乃至動揺の中心部に、ぽっかりと暗い穴、颱風の眼のようなものがあって、さまざまな相反する判断が敲ちあって生れる筈の思考の魚が、生れかけるや否や途端にその穴、その眼の中へ吸い込まれてゆくように思われた。もしその穴、その颱風の眼をそこだけ切り取って博物館に陳列するとしたら、それには、人間的、という符牒のような札がかけられるかもしれない。 堀田善衛『広場の孤独』 はじめに いくぶん唐突な問いではあるが、「シャフト演出」と聞いたとき、ただちに連想するものと言えば何だろうか。 人によってはキャラクターを非解剖学的な角度で振り向かせる「シ
※本記事は、『ビンダー8号 特集:宮崎駿』(ククラス、2023)所収の noirse「陰謀論者の見た夢──治者としての宮崎駿」を一部加筆・修正のうえ、転載したものです。 Hayao Miyazaki, as an Ambivalent Ruler: The Nightmare of The Boy and the Heron |noirse 文:noirse 平成 平成という時代が幕を閉じて数年が経過した。けれども今でも何かが終わったとか、何かが変わったという実感はない。「平成は失敗の30年」1で、「けっきょく『昭和』を清算しきれなかったネガティヴな時代」2という思いがあるからだろうか。 けれど平成初期に様々なカルチャーに触れ、現在の嗜好や関心の地盤を築いていった人間としては、時代が悪かっただけとは思いたくない。そこで忘れられないのがジブリだ。スタジオジブリは1985年に発足した。平成より
※本記事は、すみ「『FF16』が傑作であるのは自らの過去を肯定しつつ変革させた点にある」(2023)を一部加筆・修正のうえ、転載したものです。 文:すみ 2023年6月に『ファイナルファンタジー16』(以下『FF16』)が発売された。多くの期待と不安が寄せられた本作であるが、その評価をめぐっては大きく意見が分かれている。大手ゲームメディアサイトの平均点を算出するメタスコアでは、100点満点中87点と比較的高い点数を獲得している(2024年1月31日現在)。しかし、凡作ないしは駄作であるとの評価も多く、決して称賛する声ばかりではない1。 私自身は50時間ほどで『FF16』をクリアした。エンディングまで終えて、『FF16』は「ファイナルファンタジー(FF)」シリーズのなかで最も感動的なゲームであると感じた。だが、この感動というのはたんにストーリーが泣けるもので素晴らしかったとか、複雑なプロット
※本記事には、関係者の名誉やプライバシーの保護等に鑑み、編集者による検閲(伏字)が一部施されています。 文:壱村健太 また多摩川はどうしても武蔵野の範囲に入れなければならぬ。六つ玉川などとわれわれの先祖が名づけたことがあるが武蔵の多摩川のような川がほかにどこにあるか。その川が平らな田と低い林とに連接する処の趣味は、あたかも首府が郊外と連接する処の趣味とともに無限の意義がある。 国木田独歩「武蔵野」1 アレゴリー的芸術作品は批評的解体を、ある意味ではすでに自身のうちで被っている。 ヴァルター・ベンヤミン『ドイツ悲劇の根源』の「要旨」2 はじめに いきなりだが断言したい。 漫才師、コメディアン、テレビタレント、国民的スター、文化人、映画監督、役者、演出家、歌手、小説家……。肩書はなんでもよいが、戦後日本が輩出したもっとも偉大な表現者のひとりであるビートたけし/北野武。この「ほとんど戦後日本の神
文:永瀬恭一 ゴミの居場所 わけのわからないものがある。少し見て、とりあえず異質であることは感じるのだが、それは、異質ではあるけれども美しい、のではない。とにかく異質なのであってその異質さはどこにも結びついていない。 素材はうすっぺらい紙で、切り口はまったく不器用に見え、技術的にとくに洗練されているとも思えない。しかしやけに入り組んでいて、一目では骨格をつかめない。折り紙のように、現実にある鶴や兜を模していたりもしない。言ってみれば抽象なのだけれども、では純粋に形式的な論理の展開だけでできているとも思えない。ここにはなにか、生理的で、感覚をざわつかせる、滑らかでないものがある。 わからない。なんどか見直してみて、繰り返し言うしかない。だけれども、僕はこの「わからなさ」に、たぶん、取り憑かれてしまっている。 わけのわからないもの、異質なものは、どこでどのように居場所を見つけられるのだろうか。
文:萱間 隆 晴れの日は気分よく/雨の日は憂うつ/……と教えられたらそう思い込んでしまう/雨の日だって楽しいことはあるのに。 『新世紀エヴァンゲリオン』 最終話「世界の中心でアイを叫んだけもの」 かつて少女だった私を「ことばにする」とは、それを私から引き離して、他者としてみつめるという行為ではないか。 本田和子『異文化としての子ども』1 はじめに 近年では、『プリパラ』(2014−17)や「プリキュア」シリーズ(2004−)といった女児向けコンテンツが批評の対象とされることが一般的になってきています。こうした作品群は子どもをターゲット層としながら、大人にとっても見るべきものがあるとされ、ファンによって熱心に語られてきました。 そんななか、こうしたコンテンツを彩るオープニングテーマやエンディングテーマといったアニメソングについては、まだ十分に分析がなされていない印象があります。しかし、そうし
※本記事は、『アニメルカ vol. 2』(アニメルカ製作委員会、2010)所収の志津A「日常における遠景──「エンドレスエイト」で『けいおん!』を読む」を一部加筆・再構成のうえ、転載したものです。 文:志津史比古 夏の雲、冷たい雨、秋の風の匂い、傘に当たる雨の音、春の土の柔らかさ、夜中のコンビニの安心する感じ、放課後のひんやりとした空気、黒板消しの匂い、夜中のトラックの遠い音、夕立のアスファルトの匂い。 新海誠の『ほしのこえ』(2002)で、ノボルとミカコは、日常生活に見出される価値あるもの(「いま・ここ」に生きている実感を凝縮して示している小さな断片)をこんなふうに列挙していく。(『ほしのこえ』がそうであるような)「セカイ系」では、非日常的な状況(「いま・ここ」とは対照的な、時間的・空間的に遠く隔たっているという観念)を持ち出すことで、日常の価値を逆照射しているところがあった。こうした日
※本記事は、『Blue Lose Vol.3 特集:10年代』(早稲田大学負けヒロイン研究会、2023)所収の「日常系座談会──フィクションをめぐる状況」を加筆・修正のうえ、転載したものです。なお、取り上げられている各作品の結末についての情報が含まれることがあります。 話:舞風つむじ × noirse × てらまっと 構成:舞風つむじ(早稲田大学負けヒロイン研究会) 舞風つむじ この座談会では、2010年代半ば以降の「日常系アニメ」について考えていきたいと思います。また議論にあたっては、2014年に開催されたシンポジウムの発表原稿を編んだアンソロジー『日常系アニメのソフト・コア』1が叩き台になると思い、同論集の寄稿者であるnoirseさんとてらまっとさんをお呼びしました。 セカンドアフター公式ブログ PDFペーパー『日常系アニメのソフト・コア』目次 – セカンドアフター公式ブログ セカンド
【座談会】日常のゆくえ──京アニ事件から『ぼっち・ざ・ろっく!』まで|舞風つむじ × noirse × てらまっと
※本記事は、すみ「『ゼルダの伝説 BotW』の探索はなぜワクワクするのか。新作ゼルダに宿る『ハズレの美学』」(2017)を一部加筆・修正のうえ、転載したものです。 文:すみ 2017年に発売された『ゼルダの伝説 ブレス オブ ザ ワイルド』(以下『ゼルダの伝説 BotW』)は、ゲームファンなら誰もが認める傑作である。そもそも『ゼルダの伝説』(1986)に始まるシリーズ自体が高く評価されており、とりわけ5作目の『ゼルダの伝説 時のオカリナ』(1998)は長らく「史上最高のゲーム」と見なされてきた1 。そのため、同シリーズの新作には常に高い期待が寄せられる。 『ゼルダの伝説 BotW』は、このあまりにも高いハードルを見事に乗り越えてみせた。数々の挑戦を通じて『時のオカリナ』以来の伝統を打ち破り、同作に匹敵するほどの高評価を獲得したことで、歴史ある『ゼルダの伝説』シリーズのなかでも特別な地位を築
※本記事には、終末論的および黙示録的な内容が多く含まれています。気分や体調の優れない方は、フラッシュフォワード(幻覚、未来視等)を引き起こす可能性がありますのでご注意ください。 文:壱村健太 革命の全ての暴力は一人の男の人格に集中するようになったが、そのことによって革命の過程に本質的な変化が生じたわけではない。 フリードリヒ・シュレーゲル(仲正昌樹訳)『歴史の哲学』((仲正昌樹『増補新版 モデルネの葛藤』、作品社、2019年、433頁より。)) 1. 〈核〉神話と危機の意識クリティーク 哲学者の仲正昌樹は、かつてキリスト教系の新興宗教団体「統一教会(現・世界平和統一家庭連合)」の信者であり、その当時の宗教体験を語った自伝的著作(『統一教会と私』、論創社、2020年)のなかで、次のように述べている。 文教祖は、91年11月に朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)を訪問し、金日成と会談をおこなった。
それでもなぜ、フロム・ソフトウェアが難易度調整要素すら搭載せずにこのようなゲームをプレイヤーに突きつけてくるのかといえば、それはプレイヤーというものを信頼しているからではないかと思う。そしてそんなフロム・ソフトウェアをプレイヤーもまた信頼しているから何度投げ出しそうな難易度のボスに直面したとしても、ゲームをそう簡単には投げ出さないのではないだろうか。〔強調は原文〕 たとえプレイヤーを置いてけぼりにしかねないとしても、ゲームの難度を高く設定したことの背景には、「それでもついてきてくれるはずだ」というプレイヤーへの「信頼」がある──このような解釈はたしかに可能である。しかしその一方で、先のグレッグの言葉を借りれば、高難度に手こずりギブアップしてしまうプレイヤーに対して「無関心」である、あるいはそうしたプレイヤーを「無視」しているとも解釈できるはずだ。人によっては当然ネガティブに捉えられてもおか
パチンコを始めたきっかけ 安原まひろ まず基本的なところからうかがいたいのですが、お三方(くあド・三条しぐれ・蛍火くじら)の関係と、それぞれパチンコを始めたきっかけを聞いてもよろしいですか? 蛍火くじら 一応、3人とも「早稲田大学負けヒロイン研究会」2に古くから参加しているメンバー……のような何かだと思ってもらえればいいと思います(笑)。 僕がパチンコを始めたきっかけは、コロナ禍で暇を持て余していたことがあります。あと、もともとRPGが好きだったのですが、いまはネットで外部と接続されているゲームが多いこともあって、ほかのプレイヤーとのコミュニケーションが前提になっているところが少し苦手なんです。パチンコは誰も関わってこないところが良かったんですよね。 安原 コロナ禍が理由というのは重要な証言かもしれませんね。たしかコロナ禍と重なるかたちで、競馬などの公営ギャンブルの売り上げも伸びていると聞
桐生七実と高槻枝織──『少女革命ウテナ』における2つの問い 『ウテナ』に登場する桐生七実と高槻枝織は、のちの『ピングドラム』におけるメインキャラクターの前身とも言える部分を持っている。この2人が本論にとって重要なのは、『ウテナ』における主人公の天上ウテナとヒロインの姫宮アンシーとが避けてしまった問題を、彼女たちが引き受けているように見えるためだ。そしてそのことは同時に、『ウテナ』にひとつの限界を突きつけてもいる。 まずは『ウテナ』の桐生七実と『ピングドラム』の高倉冠葉、同じく高槻枝織と荻野目苹果とがそれぞれ重要な共通点を持っていることを確認しておこう。 七実と冠葉はそれぞれの兄と妹に恋焦がれており、どちらも近親相姦的な欲望を持っているという点で類似している。他方で枝織と苹果は、それぞれの物語上の人間関係において挫折を味わっているという点で共通している。枝織は生徒会メンバーのひとりである有栖
※本記事は、すぱんくtheはにー「一週遅れの映画評:『映画 ゆるキャン△』バイクの光はすべて星。」を一部加筆・修正のうえ、転載したものです。なお、映画『ゆるキャン△』(2022)の結末についての情報が含まれます。 文:すぱんくtheはにー あのですね、一応こうやって毎週映画の話をするぞい! ってやってる以上、やっぱり作品を見る前には「かかってこいやぁ!」みたいな戦闘態勢になるわけですよ。120分一本勝負! チャージ3回、フリーエントリー、ノーオプションバトル! って感じで。 それなのに、それなのにですよ! いいですか、私は名古屋育ちで、しかも「バイカー」なんです。リンちゃんが上がってきた地下鉄桜通線丸の内駅の階段が「あそこじゃん、ちょっと行くとローソンあるほうの出口」って特定できるぐらいだし、「アラサー女がトライアンフ・スラクストン乗ってるのパネェな」ってのが、かなりリアルな質感を持って迫
※本記事は、『アニクリ vol.12 ジャンルのリフレーミング』(アニメクリティーク刊行会、2021年)所収の「母と子の物語──「ラブコメ・ヌーヴェルヴァーグ」についてのラフスケッチ」を大幅に加筆・修正のうえ、転載したものです。 文:てらまっと 以前、なかば冗談で「ラブコメ・ヌーヴェルヴァーグ」という言葉を提唱したことがある。「ヌーヴェルバーグ(Nouvelle Vague)」とは本来、フランス語で「新しい波(New Wave)」のことだ。1950年代後半から60年代にかけてフランスで勃興した新たな映画の潮流を指す言葉で、ジャン゠リュック・ゴダールやフランソワ・トリュフォー、エリック・ロメールなど錚々たる映画監督が含まれる。 「ラブコメ・ヌーヴェルヴァーグ」もまた、ラブコメ漫画やアニメにおける「新しい波」を名指そうとする試みだった。さしあたって私が念頭に置いていたのは、たとえば『からかい上
『傷物語〈Ⅰ鉄血篇〉』PV 物語のみを抽出してみると、『傷物語』はきわめて単純明快な怪異譚であることが分かる。主要な登場人物は阿良々木とキスショット、同級生の羽川翼と怪異の専門家である忍野メメの4人しか登場せず、その他のキャストはせいぜい3人のヴァンパイア・ハンターくらいである。また、原作の小説に特徴的であった一人称の語りを映画では極力排除しており、物語に関しては必要最低限でシンプルな構造を徹底的に志向していると言える。 しかしながら、『傷物語』の映像はそのミニマルな作劇とは裏腹に、ある種の過剰さに彩られている。合計で3時間半を超える長尺もさることながら、劇中で描かれるスプラッターやエロティシズムはすべて極端な仕方で演出されており、ともすれば冗長のそしりを免れないほど執拗に描写を重ね続ける。この過剰さは『化物語』の頃からすでにその傾向が認められたが、本作のそれは量的にも質的にも肥大化してい
私たちは狩人、漁師、牧人、あるいは批評家になることなく 朝には狩りをし、昼には釣りをし、夕方には家畜を追い そして食後には批評をすることができる ──カール・マルクス
“闇” と不自由 2021年初頭に刊行された『闇の自己啓発』(江永泉+木澤佐登志+ひでシス+役所暁著、早川書房)は、Amazonの「現代思想」カテゴリーでベストセラー1位を獲得するなど、商業的に大きな成功を収めた。その要因の一つとしては、本書が現代の日本における“売れる哲学”の潮流と共鳴していたことが挙げられる。 哲学者の山口尚は『日本哲学の最前線』(講談社現代新書、2021年)のなかで、日本の哲学界には世界に伍する普遍的な哲学として「J哲学」という営みが存在し、現在のJ哲学の特徴は「不自由」論である、とする。 J哲学の二〇一〇年代は「不自由論」の季節であった。ただしその議論は、人間の不自由を強調してばかりの悲観的露悪ではなく、真に自由であるために不自由を無視しないという〈自由のための不自由論〉である。1 ここで山口は國分功一郎、青山拓央、千葉雅也、伊藤亜紗、古田徹也、苫野一徳を代表的な「
※本記事は、サブカルチャー評論同人誌『セカンドアフター EX2012』(2012)所収の対談を一部改変・修正のうえ、転載したものです。 話:志津A × てらまっと はじめに 志津A 東日本大震災の起きた2011年には注目すべきアニメ作品がいくつもあったように思います。『魔法少女☆まどかマギカ』がその中でも大きく話題になった作品だったわけですが、他にも注目作として、『あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。』『輪るピングドラム』『日常』などといった作品がありました。そして、2011年末には『映画けいおん!』が公開されたわけで、この作品は、『まどマギ』がそうであったのと同様、まさにひとつの時代の節目を印づけた作品だったように思います。 『映画けいおん!』が公開された時期から1年が経とうとし、今年もまた、注目すべき劇場アニメ作品がいくつも公開されているわけですが、ともかくも、アニメ作品を題材にし
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