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大谷翔平
www.masakano-non.com
本当にまさか!な出来事で、私は附属幼稚園に内定をいただきました。 翌日から、一気に私の世界が変わりました。 他の学生と同じようにしていても、私だけが厳しく注意されます。 あなた、附属幼稚園の先生になるんでしょ? そんなことで務まると思ってるの? 何度言われたか分かりません。 今のあなたにおめでとうは言えないわ。 と言われたこともありました。 それだけ私が、附属幼稚園にふさわしくない学生だったということです。 自分自身がそれを1番感じていました。 自信がない上に、先生方からもそのようなことを言われ、辞退した方がいいのではないかとも考えました。 でも、1人の友人が言ってくれました。 私はのんが受かると思ってたよ。 受かってほしいとも思ってた。 だって選ばれた10人も、ほとんどカンニングしてたじゃん。 のんは絶対しなかったから、密かに尊敬してたんだよね。 最終的に内定決まった3人、みんなカンニン
劣等感の塊だった私が、なぜか大学附属幼稚園の採用試験の推薦をいただき。 本命幼稚園採用試験の練習のつもりで、受けてみる事にしました。 錚々たる面々の採用試験。 本当に、受かるはずがないのだから。 誰より気が楽でした。 でも、手は抜かず、自分なりに精一杯採用試験に臨みました。 試験は、作文と面接のみ。 どうせ受からないんだから。 という思いが余裕を生み、それはそれはリラックスして、試験に臨むことができました。 結果は、なんと、その日のうちに! 試験を受けた、全員の前で発表されます。 10人の学生のうち、内定をいただけるのは3人。 大体予想は付いていました。 きっと、この人たちが選ばれるんだろうな♡ という人が、順番に名前を呼ばれます。 うわー、こんな優秀なメンバーが同期なんて怖すぎる。。 と思っていた3枠目。 まさか!が起こりました。 私の名前が呼ばれたのです。 明らかに、全員が、えっ?とい
学生生活はあっという間で、気づけば就活の年になっていました。 その年になってすぐのこと。 奇跡のような出来事が起こりました。 大学の事務室に呼ばれた私は、大学附属の幼稚園の採用試験を受けてみないかと声をかけていただいたのです。 大学附属の幼稚園は、大学から推薦された人間にしか採用試験が受けられません。 しかも、大学からの推薦は、何百といる学生の中でわずか10名。 この10名に、私は選んでいただいたのです。 何より驚いたのは、その10名のメンバー。 名の知れた優等生ばかりでした。 この人たちに並んで推薦していただいただけで、もう十分とさえ思えました。 それと同時に、私の名前が上がった不自然さ。 メンバーの視線が痛かったです。。。 一気に噂は広まります。 直接、なんで?と言われたこともありました。 それもそのはず。 私自身が1番、なんで?なのですから。 私は、実習先の幼稚園の採用試験を受けるつ
幼稚園教諭、保育士になるために欠かせない教育実習。 教育実習では、観察、記録のほかに、部分実習、研究保育があります。 部分実習とは、朝の会、帰りの会、給食、などを担任の先生に代わり、部分的に担当させていただくこと。 研究保育とは上記に加え、主活動も含め、丸一日担任の先生に代わり、保育を行うことです。 この為の指導案が大変で、何度も何度も書き直して当日を迎えます。 でも、実際の保育は指導案通りにはいきません。 特に時間配分がとっても難しい。 中でも、学生全員の頭を悩ませるのが、 主活動の設定保育 なぜなら、担任の先生だけでなく、他のクラスの先生方や主任の先生、教育実習生も見に来て、評価されるからです。 別名、研究保育。 沢山の先生方に見られているだけで、汗が出るほど緊張します💦 私は、この研究保育で、ゲコゲコがえるの製作をしました。 紙コップを蛙に見立てて飾り付けし、紙コップの底に穴を開け
幼稚園教諭、保育士になるため。 この大学を卒業するためにも、絶対に避けては通れない道。 それが、教育実習です。 先輩方から、 実習はとにかくしんどい。 先生たちはめちゃくちゃ厳しい。 記録や指導案の量が半端ない。 寝れない。 と聞いていたので、大学生活で劣等感の塊だった私は、不安でたまりませんでした。 実技の全てが苦手なのに、実習なんてうまくいくはずがない。 本当に、不安しかありませんでした。 でも、いざ実習に行ってみると、これがもう楽しくて楽しくて。 幼稚園、保育園、障害児施設。 全ての実習が楽しすぎて、どこに行っても、ここで働きたい!と思ってしまうほどでした。 やっぱり、子どもの力ですよね。 子どもの力って本当に凄い。 子どもたちと過ごす時間は、本当に楽しくて。 子どもたちのことや、先生方のことを思い出しながら、記録を書く時間さえ楽しくて。 確かに睡眠時間は2〜3時間でしたが、全く辛く
大学時代。 私は劣等感の塊だった。 これは自業自得。 全ては自分が招いたことだ。 中学高校で勉強を疎かにしていたことが、とても悔やまれた。 専門職だから関係ないと思っていたが、世の中そんなに甘くない。 怠けた分は、しっかり自分に返ってきた。 劣等感から、自分でも驚くほどに、とにかく必死で勉強した。 しかし悲しいことに、大学での試験はカンニング祭り。 試験勉強に必死になるよりも、カンニングペーパー作りに必死になっている友人が多かった。 私自身も大学生活を謳歌し、とても真面目とは言えない学生だったが、カンニングだけはしないと決めていた。 怠けは必ず自分に返ってくると学んだからだ。 この選択は間違っていなかった。 真面目に取り組んだ結果は、しっかりと成績に表れた。 しかし、幼児教育には座学と同じくらい大切なことがある。 実技だ。 ピアノ 声楽 技術 表現 どれもとても新鮮だったが、残念ながら、ど
私が幼稚園の先生になったこと。 これが我が人生最大のまさか!だろう。 私自身は、幼稚園の先生になれる!と信じていたが、周りはそうは思っていなかった。 つまり私は、その程度の人間なのだ。 でも、誰に何と思われようとも。 私は、子どもが好き!! 大好きだ!!! 幼稚園に通う頃にはすでに、自分より小さい子どもが好きで。 幼稚園の卒園アルバムに、 将来の夢は幼稚園の先生です! と書いていた。 幼稚園の頃、妄想で、チャチャチャ幼稚園という幼稚園を設立し、毎日先生になって遊んでいたことは、今でもハッキリ覚えている。 幼稚園当時の担任の先生に、 「幼稚園の先生になりたい!」 と言うと、 「幼稚園の先生はお給料が少ないからやめた方がいいよ!」 と言われたことも、ハッキリと。笑 それでもその夢は、ずっと変わらず。 進路の時期になっても、どこかで答えは決まっていて。 国語の成績だけが異様に良かったことから、国
結局、出産ギリギリまで保育園で働き、予定日の1か月前に保育園を退職。 といっても、実際はクビのようなものだった。 産後、続ける気があるならパートで。 と言われたのだ。 戦力外通告。 続けるつもりだったのでショックではあったが、迷惑をかけたのは事実なので、甘んじて受け入れた。 保育園出勤最後の日。 ロッカーを開けると沢山のプレゼントやお花、手紙が溢れ出した。 正規の職員から、パートの先生方まで、沢山の先生方が別れを惜しんでくれた。 手紙には、 のん先生の保育が好きでした。 のん先生みたいな先生になりたいです。 のん先生の笑顔に癒されてました。 のん先生に救われました。 のん先生が目標です! などなど、身に余る言葉が沢山並んでいて、感動で胸がいっぱいになった。 みんながこんなふうに思っていてくれたなんて。 みんなからの温かいメッセージは、どん底に落ちた私の保育士としての誇りを、取り戻させてくれ
妊活のこと、流産のこと、全て報告、相談し、その上でフォローすると言ってくれていた主任教諭からの、まさかの言葉。 「どれだけ恥ずかしいことをしたか分かってるの?」 主任教諭の言葉に傷ついたけれど、それに対して、何も言い返せずに帰ってきた自分のことが1番許せなかった。 その後も、餅つきで使用した大きなうすを1人で運べ!と言われたり。 雪の降る寒い日に、裸足になって水とブラシでテラスの掃除をして!と言われたり。 その度に同僚が、 「こんなことさせて流産したらどうするんですか!」 と庇ってくれて、代わってくれた。 発表会前には、衣装を全て整理することになり、ホールに全ての衣装を並べ、畳んで片付けていく作業を1人で任されたこともあった。 私自身はマタハラの定義が分かっていなかったが、同僚たちは完全にマタハラだと言って、抗議してくれた。 私は昔から、自分の言いたいことを我慢して溜め込んでしまう性格で、
2度の流産を経験し、妊活を一時中断。 私は保育園で働き始めた。 保育園では、私の信じてきた保育が一切通用せず、生まれて初めて大きな挫折を味わった。 これとは別に、妊活のことも、いつも頭を悩ませていた。 妊活のこととこれまでの経緯は、保育園に話していて。 ありがたいことに、「いつ妊娠しても構わない」と言われていた。 担任を持っていたこともあり、主任にも園長にも、何度も確認した。 答えはいつも、 「フォローできる体制は整ってるから、いつ妊娠しても大丈夫!」 というものだった。 その言葉に背中を押されつつも、なかなか妊活再開には踏み切れず。 実際に妊活を再開したのは、2度目の流産から半年後のことだった。 「私は別に欲しくない。あなたのためだけに頑張るんだからね。」 当時、この酷いセリフを、私は夫に繰り返し繰り返し伝えていた。 傷つくのが怖くて。 期待するのが怖くて。 また裏切られるのが怖くて。
手遊びひとつ、私は満足に出来なかった。 音程が違う、歌詞が違う。 何度も中断させられた。 手遊びは確かに、地域性が出てしまう。 子どもたちに教えてもらい、必死に覚えた。 相変わらず話は聞いてくれないし、クラスはまとまらないが、一人一人と向き合ううちに、先生が大好き!という思いだけは、感じ取れるようになった。 だったら話聞いてよ。。 と思いつつも、大好きが伝わると、やっぱりそれだけで嬉しいものだ。 保護者からも、先生が担任で良かった!と言っていただけるようになっていた。 そんな、自分の保育を取り戻しつつあったある日。 私は主任教諭に言われてしまったのだ。 「あなたのクラスの子どもたちが可哀想。他の先生たちもみんなそう言ってる。」 みんなそう言ってる。 みんなそう言ってる。 みんな、私のクラスの子たちが、可哀想だと思ってるってこと? みんな? みんなって、だれ? 間に受けた私は、どんどん疑心暗
2度目の流産の後、なかなか立ち直れなかった私は、不育症について調べながら、夫と2人で検査に行こうかと迷っていた。 チャレンジするのは怖い。 夫を父親にしてあげたい。 この2つが頭の中をグルグルグルグル。 妊活のことばかりを延々と考えていた。 そんな私を見かねた夫が、 気分転換に仕事でも始めてみたら? こっちに友達もいないし、友達作りのきっかけにもなるかもしれないし! と提案してくれて、私は約1年ぶりに社会復帰することになる。 求人を見て、気になった保育園に面接に行くと、素晴らしい理事長先生が待っていた。 家庭や子どもを持っていても、働き続けられる職場を作りたい。是非力を貸して欲しい! と言って下さり、その場で採用が決まった。 妊活していることも理解していただいた上で、いつ妊娠してもサポートするから!と言っていただいたことも、とても有難かった。 附属幼稚園で10年働き、担任業務だけでなく、あ
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