明治維新後、近代化の波が押し寄せる一方で、旧態依然の商法や体質は時代から取り残されつつあった。三井組におけるそのひとつが越後屋呉服店である。越後屋は家祖・三井高利から続く三井家の家業であり、両替店とともに本業であったが、幕末から明治にかけての呉服業は不振を極めた。高利が考案した画期的商法の数々もこの頃になると同業者間では一般的となり、さらに倒幕による武家社会の崩壊は得意先の喪失を意味した。そこへ洋服も登場し、経営の圧迫に拍車をかけた。三井の統括機関である大元方も両替店の資金繰りを割いて呉服業の救済に乗り出すが、一向に成果は上がらなかった。 明治5年(1872)の正月、三井首脳陣は大蔵大輔・井上馨の邸に招かれ、そこで「三井家は呉服業を分離して、銀行設立に専念せよ」と内命を受けた。銀行設立を一番の目標としていた三井首脳陣はこれを了承した。とはいえ、伝統の家業を疎かにはできない。東京・京都・大阪