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大谷翔平
yomu.hateblo.jp
アマゾンのプライムビデオで『ターンエーガンダム』が公開されていた。もう何度目かわからないけれど、劇場版(地球光/月光蝶)を通して見た。 好きなシーンがたくさんある映画だけれど、物語の最後もそのひとつだ。戦争が終わり、ひとびとはまた平和な生活に戻ってゆく。後半で悪役っぽい立ち回りを演じたグエンの表情も悪くない。パン屋も記者も繁盛だ。 そうした群像のなかで、ソシエお嬢様だけは少し表情が暗い。雪の中、突然ロランとキスをする。何やら別れのシーンのようでもある。そのあと、ソシエは大声をあげながら自転車で山道を駆け下り、ロランの金魚のおもちゃを川に投げ入れる。 昔から、このキスの意味がよくわからなかった。なぜ二人は最後の最後でキスをして別れたのか。 二人にもお互い淡い恋心のようなものがあったのかもしれない。深入りすることなくお別れのキスだけして、ソシエはロランのことを吹っ切る。「わー」とか自転車で叫ん
THE ORIGIN4部作がAmazon Primeに入っていたので、Iから見始めている。 冒頭、ルウム戦役のシーンが描かれる。ティアンムの先鋒艦隊の艦砲射撃で一方的に叩かれる囮役のムサイ戦隊。次いでレビルの本隊を襲うモビルスーツたち。マゼラン5隻を叩き落とすシャアと、黒い三連星。 マゼランとサラミスのミサイルや対空機銃、シャアザクのぐりぐりとした動きがCGで美麗に描かれる。迫力がある。 けれど、これは致命的なことではなかったかとおもうのだ。ORIGINはルウム戦役を映像化してしまった。でも、それは大いなる過ちだったのではないか。描き方が不十分だった、ということではない。どのような丁寧な描き方であれ、とりわけ映像でルウムを描くということ自体が宇宙世紀サーガにおける禁忌だったのではないか。ルウムは描いちゃいけないんだ。 なぜなら、ルウム戦役は伝説だからだ。シャアが通常の3倍のスピードで5隻の
このエントリで紹介されている「小綺麗版ガンダム」↓の映像を見た。 たしかに わりとカット頭が止まっていて、止絵が多くて、セガサターンの特典アニメかよ!というレベル というかんじ。ショートフィルムやムービーではなく、あくまで「途中でレンダリングしてみた動画ファイル」として受け取った方がいいのかもしれない。 いちばんひどいと感じたのはシャアザクが突然登場するところで、前後の作劇が無いために「なんか赤い別のロボットが出てきて、なんか強い」という流れになってしまっている。最低限、シャアが「デニムが部下を抑えられんとはな…」というセリフをファルメルの艦橋かザクのコクピットで(手袋をはめなおしながら)ニヤついて言うシーンが必要だっただろう。そうすれば、この変なヘルメットの青年将校がコロニーへの襲撃を指揮していて(ヒートホークでビルを壊すザクがファイアーエムブレムの山賊にしか見えないのだが)、戦場の状況
以下は妄想です。 結論を先に書いておくと、FF7のシナリオは(1)「〈古代種/ライフストリーム/エアリス〉対〈魔晄/環境破壊/神羅〉の戦い」を基盤とした設定・シナリオ原案と、(2)「神羅カンパニーのエースだったセフィロスが自分の出自を求めてジェノバに行き着き神羅から離反し、セフィロスを師と仰いでいたクラウドが彼を追う」というシナリオ原案の2つがやや独立してそれぞれ存在し、それらが製品版では統合されて「古代種 VS セフィロス・ジェノバ VS 神羅」という複層構造の物語となってしまったのではないか。2つの「原シナリオ」は、物語終盤のメテオ対ホーリーという構図によってきわめて丁寧に統合されたが、ジェノバの存在がどうしても浮いてしまっている。 1. FF7のわかりにくさ: ザックスの存在 「FF7」を初めてプレイしたとき、いまひとつストーリーがしっくり飲み込めなかった。その理由のひとつが、ザッ
学内に無い論文の複写取り寄せを大学付属図書館に依頼したら、「国立国会図書館デジタル化資料送信サービス」で閲覧できるから取り寄せ依頼はキャンセルさせてもらうねと返信をいただいた。 図書館向けデジタル化資料送信サービス|国立国会図書館―National Diet Library 「国立国会図書館デジタルコレクション」に収録されたデータの一部は一般公開扱いで、自宅PCなどから誰でも閲覧できる。それら一般公開以外のデータも、大学図書館の専用端末からスキャン画像やPDFを閲覧できる。それがこの「デジタル化資料送信サービス」。 資料の検索画面はやや使いにくい。できればCiniiとインターフェイスを合わせて欲しい。とはいえ、欲しい書誌情報があらかじめ決まっている場合は、ぽちぽち検索しているあいだに見つかる。 で、ここからが本番なのだけれど、探し出したデータのコピーを手元に残したい。しかし「いま閲覧してい
立命館大の「pixiv論文」事件、議論がわぁっと盛り上がっていて、すこし驚く。よくある話やな、という感覚で自分は見ていた。 この手の失敗・失態を、じぶんの周囲の業界?では、「やらかす」と表現する(日本全国で通じる表現なのか、関西弁なのかわからない…)。やらかされた?相手方にとっては、そんな軽妙な言い回しを使われること自体不愉快なことかもしれない。ただ、便利な表現ではある。 文化人類学や社会学など、フィールドに出ていくタイプの学問は、この百年、やらかし続けてきた。いまもきっと、どこかの研究室で・フィールドで、ベテランの研究者が、院生や学生がやらかしているし、未来もやらかし続ける。 じぶん自身、「やらかしかけた」経験はいくつかある。とくに今でも恥ずかしく思い出すのは、熊本地震の被災地に「行ってみた」ときのことだ。既に現地で活動していた院生やボランティア団体やベテランの先生たちに、いろいろな迷惑
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