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いきなりいろいろと録り逃しまくってる私。 別にいいけど。 原作未読の上、前作未視聴。予備知識ゼロで視聴。 これは要するに『ネギま』版『ぱにぽに』なんでしょ? どっちも見てないから知らんけど。 数えてないけど多分やたらとカット数が多い。ぽんぽん繋いで性急なテンポを生み出してます。 それと同ポの繰り返し。それに付随してものすごく目に付いたのが似たような構図の繰り返し。左手前に物、右手奥に人物という構図が頻発。 ↑これとか ↑これとか ↑これとか ↑これとか ↑これとか。 他にもあるかもしれないけど探すのが面倒なので割愛。 これって何か明確な意図があるんでしょうか。偶然とは思えないんですが。フレーム? ギャグ? 大沼心氏の癖? 私はシャフトチームのファンでもなんでもないし、それに映像文法も知らないのでよく分かりませんけど。
山本寛監督、辛矢凡特技監督によるスタジオ枯山水のHPにある『怨念戦隊ルサンチマン』の反省会を読んでの感想です。 私は特撮に詳しくないし、勿論『ルサンチマン』も見たことないですし、自主制作で映画撮ったこともないので専門用語をググりつつ、ひーひー言いながら読んだんですが、山本寛氏の映像制作に対する興味深い発言が盛り沢山で非常に楽しく読ませていただきました。 以降無断で引用しまくります(←暴言)。 出来るだけ短くして、「今の何だったの!?」くらいのモノにすれば、スベってもダメージ少ないかなと考えたの。これは全篇のカット割を通して言えるんだけど、こんなパロディ映画なんだから、あっという間に終わる位で丁度いい、とにかくダラダラいって観客を疲れさせるのだけは恐れたね。「受けるためには手段を選ばない」というテーマの裏には「いかにスベらないようにするか」というのがあって、いろいろ考えたね。 ↑山本氏のカッ
マーラーの8番はやっぱり山本さんの選曲なんでしょうね。 ということで、天の邪鬼な私は、『涼宮ハルヒの憂鬱』最終回についてこれ以上触れることなく、一連の監督発言によってケリがついたと世間的に思われているにも関わらず、本作における時系列シャッフルについて改めて言及するという暴挙に出ます。 本作における時系列シャッフルは、石原監督が語っていたような効果はもとより、私にとってはTVアニメというシリーズものにおける「作家的」連続性を断絶させる装置として非常に強烈な機能を果たしました。以降、その「作家的」連続性の断絶と、それが本作に何をもたらしているのかについて、少し語ってみます。 TVアニメというシリーズものにおいて、現代の視聴者がより求めているのは「作家性」ではなく、作品の商業的「一貫性」です。突出した作画、突出した演出など、表現における突出した細部は、現代の視聴者にとってシリーズの一貫性を齟齬に
別題:山本寛氏のリアリズム←こっちが本題(笑) http://d.hatena.ne.jp/Youth-K/20060617#p1 の続き。 あんまり引っ張るとこのエントリが更新の足枷になりそうなので、とっとと書いて逃げます(笑)。 で、どうやって書こうか考えていたんですが、とりあえず前出の『WEBアニメスタイル』animator interview なかむらたかし(3)での、なかむらさんの「リアル」についての発言を引用してみます。 なかむら リアル…………。いや、本当に「リアル」という事を、ずっと言われ続けたような気がする。 リアリティ、リアリズム、本物らしく動かすってね。 今、アニメでリアルな作品というと、世界観も人物も演出の見せ方も写実的な表現をしているものを言うんだろうけれど。 アニメがいつでもそれを求められるのは、アニメにある漫画的な通俗性と、その絵空事の空間や世界観を、少しでも
最近ずっともやもやしていたことがありまして。 アニメ感想系サイトで『涼宮ハルヒ』の評価として「神作画キタコレ」という言説をよく見かけます。 私は作画オタじゃないので作画について詳しいことはよく分かりませんが、少なくとも「神作画キタコレ」と書かれているサイトの管理人は一般的に作画オタクではないことが多い。で、作画に造詣が深いと目される方は『涼宮ハルヒ』の作画について言及されることが非常に少ない。 つまり、作画に造詣の深い方とただのファンの間における作画に求めるものが全然違うということをうまく説明できなくて、ずっともやもやしていたんですよね。 この違いについては、なんとなくは分かるんですがうまく言語化できなくて、非常にもどかしい思いをしていたんですが、『WEBアニメスタイル』のanimator interview なかむらたかし(3)のラストのやりとりを読んで、ちょっとはもやもやを言語に置き換
http://www12.plala.or.jp/sikoukairo/ 2006/6/2付の感想・雑記について リンク先を読まずに読んでいたので、途中まで分かるような分からないような感じだったんですが、終盤の「オタクではないコンテンツ消費型ファンが増えただけだ」という意見で諒解できました(と勝手に誤解しておきます)。 個人的なことを書きますと、私はオタク第3世代に属する人間ですが、「この人もアニメが好きなんだよ」とか紹介される同世代のアニメファンは十中八九コンテンツ消費型ファンです。もう鬱陶しいくらい。 紋切り型に「好きなアニメって何?」とか聞いたら「○○!」とか作品名と声優くらいは語るものの、作品についての論評や作画、スタッフ、作品に係わった人の過去の作品などにはあまり関心がないようです。 つまり、第3世代はほんとにアニメの歴史的継起性に関心がない奴が多いなあと感じるのです。ま、そこの
#14のラストシーンであるアッカンベーの真意 昨日、この話数の鍵は映像における過剰と省略にあるような気がすると書きました。ではその根拠を以下に書き記していきたいと思います。 「過剰」についてですが、同じ構図からのショットの反復がまず目に付きます。特にAパートの対角線上のカメラと本棚のカメラのショットはギャグとしか思えない反復性によって執拗に描かれます。この反復性は、つまり日常のことを意味していると思われます。日常とは規則的な反復によって成り立っているからです。 同様に俯瞰ショットの多さも、SOS団の部室という日常的空間を見せるためであると思われます。というのも日常というものは反復であり、同一あるいは近似によって成り立つため、時間的、空間的な恒常性に依存するからです。 さらに目に付く、ワンシーンにおける長回しですが、これも日常を切り取る手段であると思われます。カットを割るということは、時間的
http://d.hatena.ne.jp/sirouto2/20060523/p3 http://d.hatena.ne.jp/sirouto2/20060529/p2 上記2記事、興味深く読ませていただきました。 ははあ、祭り型コンテンツですか。言い得て妙です。 後者の記事にあった 今回のブレイクでハルヒ的手法が一般化するかもしれない。 という一文に対しての感想。 一般化が成功裡に終わるにはハードルが高すぎると思いますね。sirouto2さんがおっしゃるように釣りと祭りは紙一重。 意地悪な言い方をしますが、こんな芸当が一般的に出来る製作&制作環境なら、とっくにTVアニメは面白い作品で溢れかえっているはず。 つまり、土壌が貧弱なので無理。やらないほうがいいとおもう。ってかヤメてください、製作のエライ人。 ああいうことができるのは特殊な環境(製作の融通と制作の能力)があるからなのではないで
第29話「どき☆どき ねんどあそびの巻」 / 「どき☆どき お店屋さんごっこの巻」 Aパート、やたらギャグのテンポが早いなあ。やりたい放題のパロディと不条理に気丈に立ち向かうあみが原作テイストですね。粘土の説明がくどいのと話が綺麗にまとまっているところは違うけど(笑)。脚本は竹内利光氏。 Bパート、特に何もないですけど、くーちゃんとあみのウェイトレスコスが見所なんでしょうか。や、くーちゃんのウェディングドレス姿の方ですか(笑)。 次回予告によると先生(←伊藤静)があみちゃん家を家庭訪問するそうで。先生自体がオリジナルキャラですし、家庭訪問というイベントもまたオリジナル。というか最近原作の話がまるっきり皆無。 原作ネタに回帰する気は、最早制作スタッフにはさらさらないご様子。まだやってない原作の面白エピソード沢山あるのになあ。アニヨコ昔話とかやってくれてもいいのに。 涼宮ハルヒの消失 (角川ス
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