サクサク読めて、アプリ限定の機能も多数!
トップへ戻る
画力アップ
www.britannia.co.jp
これからの社会はどうなるのか、そしてどうなるべきなのかについて、現在では思考の大前提が変わりつつあるように思われる。 今から五十余年前、1960年代から70年代にかけては、世界的に反体制運動が盛んだった。「反体制運動」には多義的な意味が含まれ、経済や政治の体制のみならず、既存の文化のあり方も批判の俎上に載せられた。いわゆる「カウンター・カルチャー」運動として、西洋中心主義的にして男性優越主義的な伝統に鋭く否が突き付けられた。その問題提起は今なお輝きを放っている。 とはいえ、こうした反体制運動の核心にあったのはやはり政治や経済の問題であり、特に社会の土台となる資本主義経済のあり方自体を根本的に否定する運動であったことが、この時期の社会運動の基本性格だろう。カウンター・カルチャーの動きも、既存の文化を資本主義的な「ブルジョア文化」と捉える見方と連動していた。そしてこのことは、この時期の社会運動
これまで見てきたように、規範倫理学の代表的な立場としては功利主義と義務論があり、それぞれ理論的な魅力と問題点を抱えているのを見たわけだが、近年この二つに加えるにいわば第三の立場として、徳倫理学が台頭してきている。しかしこの徳倫理学には功利主義と義務論とは別次元の問題がある。 個人倫理の大前提としての徳 功利主義と義務論は、規範を設定するに当たっての一般的な行動原則を設定する。何か具体的になすべきことがある場合、功利主義に従うならば結果的な効用の増大を目的にして規範を具体化するということになる。対して義務論ならば予めある一般原則を具体例に極力適用するという形になる。その際、功利主義と異なり結果的な目的は考慮に入れず、原則にのみ基づいて行為することを指示する。いずれにせよ、人間のなすべき行為一般の基本的な指標となる。そのため功利主義と義務論は、現在でも規範倫理学の基本的な立場と目されている。
博士号を取得し、大学で教えたりもしている研究者ではあるが、音楽は専門ではない。哲学を専攻しているとはいえ、美学の研究者というわけでもない。というわけで、音楽について専門的な議論をする資格はないし、意欲もない。 音楽に関して言うと、ブラックミュージックが好きで、長いこと聞き続けている。最初に聞いていたのはジャズで、中学の頃からよく分かりもしないで聞き始めた。モダンジャズ以上にオールドジャズが好きだったところに、今につながる音楽の嗜好があったようだ。つまりジャズの中にある黒人的な要素に強く惹かれていたのだと思う。 ジャズ以外のブラックミュージックを聴き始めたのは大学に入ってからで、ジェームズ・カーのようなサザン・ソウルに強く惹かれた。何か「これだ」という感覚があった。その後も音楽の趣味は拡散し、ブラックミュージック以外も好んで聞くようになったが、今でも一番好きなジャンルはサザン・ソウルであり、
ヘヴィメタルというロック音楽とキリスト教思想、特にプロテスタントとの関係を考えるのがこの論考の目的である。さらに、それを通して同じキリスト教とはいえ、カトリックとプロテスタントでは悪魔に対する考え方に違いがあることを説明する。 中学の頃、ヘヴィメタルの洗礼を受けた。その悪魔の表現に惹かれたのだ。その頃は単に悪魔のおどろおどろしい姿がかっこよく見えただけで、小学生の時に水木しげる氏の描く妖怪の世界に惹かれたのと基本的には同じであったと思う。悪魔がどういった存在だとか、神とどういう関係を持っているとか、キリスト教文化の中で悪魔を描くことが社会的にどういう意味を持っているかなど、こういった問題に関してはまったくと言って良いほど知らなかった。悪魔を描くこと、キリスト教の教えの面から言っても、歴史的に言っても、そこには重要な意味がある。たとえそれがロックという「低俗」な音楽だから大した問題にはならな
このページを最初にブックマークしてみませんか?
『www.britannia.co.jp』の新着エントリーを見る
j次のブックマーク
k前のブックマーク
lあとで読む
eコメント一覧を開く
oページを開く