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このサイトは、メールマガジン「愛する人に愛される方法」(2002年8月から2008年8月まで発行)の記事を保存したものです。
「依存症」と呼ばれる心の病気があります。 アルコールやニコチンなどの依存症は古くから知られていますが、ギャンブルや買い物の依存症というものもあります。 しかし、ギャンブルも買い物も、純粋に楽しんでいるかぎりにおいては、別に問題はありません。家族や周囲に迷惑をかけなければ、自分が稼いだお金をどのように使おうが、その人の自由です。 熱狂的なプロ野球ファンや、車マニアの人なども、自分の楽しみのためなら惜しみなくお金を使います。 依存症との境界線は、どこにあるのでしょうか。 その行為を、もはや楽しみのためではなく、「そうしていないと不安だから」という理由で行うようになってしまえば、それは依存症だと言えます。 依存症の人は、「依存している自分」が好きではありません。後悔と自責の念にさいなまれるのですが、それでもやめられない、というところが問題なのです。 最近は、「メール依存症」という言葉も
ある異性のことを好きになると、その人のことで頭がいっぱいになります。寝ても覚めてもその人のことばかり考え、ほかのことはまったく手につかなくなることもあります。 その人と恋人同士として付き合うことができたら、どんなに幸せだろう。毎日一緒にいることができたら、あんなこともしてみたい、こんなこともしてみたい。うきうきと楽しい夢に思いを馳せます。 それ自体は、素晴らしいことです。人を愛すれば、少しでも長く一緒にいたい、あらゆることを共有したいと思うのは当然のことです。 しかし、「逆もまた真なり」ではありません。 相手のことで頭がいっぱいだからといって、それを「純粋な愛」だと思い込んでしまうところに、大きな落とし穴が潜んでいます。 「相手のことばかり考える」のと、「相手を思いやる」のとは異なります。 いつも相手の顔ばかりが頭に浮かび、「この人に愛されたらどんなに幸せだろう」と夢見るのは、単な
愛する人に愛される方法 恋愛や人間関係にお悩みの方へ、心が軽くなるメッセージ
恋人のこういうところが許せない、こういう言動に傷ついた、と文句ばかり言っている人にかぎって、まわりの人から別れろと言われても、なかなか別れようとしないものです。 恋人が自分を認めてくれるようになるまでは、自分の人生は何もはじまらない、絶対に自分を認めさせなければならない、という思い込みにとらわれているのです。 「私は不幸だ」と嘆いている人は、不幸から抜け出したいと望みながらも、一方では自由を手にすることを怖れている、という矛盾の中で苦しんでいます。 行き先の判らないバスに乗って、あちこちをさまよっているようなものです。 バスが終点にたどり着けば、また適当に別のバスに乗り換える。行き先が判らないので、自分の思い通りには進んでくれず、不満が募る。 しかし、バスを降ろされて、地図もコンパスもなく、「さあ、あなたの好きなところに自由に行きなさい」と言われても、どうすればよいのか判らず、困って
ある人が、飼い犬のいたずらに困っていました。 家の中で掃除機をかけると、犬は、掃除機を生き物だと思っているのか、ブーンという音に反応して、駆け寄ってきて柄の先に咬みつくのです。いくら叱りつけて引き離そうとしても、犬は言うことをききません。 これでは掃除をすることができず、飼い主は困り果てて、ペットのしつけの専門家に相談しました。すると、専門家は、いとも簡単に犬のいたずらをやめさせることができたのです。 犬が掃除機に咬みついてきたとき、まず、引き離して、やめさせるところまでは同じです。 その後が肝心でした。「いたずらをやめたこと」を褒めて、頭を撫でてやるのです。それを数回繰り返せば、難なく犬は言うことをきくようになります。 「叱られたからやめた」のではなく、「自らの意志でやめた」のだと思うことにより、犬の自尊心(?)は保たれたのです。 犬と人間を同じに扱ってはいけませんが、これは、人
頭がよいということには、ふたつの意味があります。記憶力のよさと判断力のよさです。 学校では記憶力が重視されがちですが、実社会で生きていく上で本当に必要なのは、判断力のほうです。 会社を経営するには判断力がもっとも強く要求されますし、恋人を幸せにするにも、記憶力よりも判断力のほうがはるかに重要です。 デートにどの洋服を着ていくか、ファミリーレストランで何を注文するか、映画を観るか遊園地に行くか……。 何を決めるにもなかなか判断ができず、迷ってばかりいる人がいます。そういう人にかぎって、決断した後も、「やっぱり別の選択をすればよかったのではないか」と後悔し、悩んでしまうのです。 選択に悩めば悩むほど、「本当にその選択は正しかったのか」といつまでも気にかけてしまいます。自分の意志で自分の道を歩んでいるという充実感が得られないのです。 ある本に、「重大な選択に迷って、なかなか決断ができない
他人から嫌われるタイプの代表格は、「わがままな人」でしょう。 わがままな人は、おそらく、幼いころに親に甘えさせてもらえなかったのです。 自分の言うことを親がしっかりと聞いてくれ、すべてを受け入れてくれれば、子供は、自分の存在価値に自信がもて、自分の喜びのために生きることができるようになります。 充分に甘えさせてもらうという経験を通して、自立した、精神の強い、思いやりのある人間に育つことができるのです。 子供が「ケーキがほしい」と言ったとき、親は、断るならば、子供が納得するように理由を説明しなければなりません。 ただ頭ごなしに「ダメ! そんなわがまま言う子は嫌いだよ!」と叱られれば、子供は、自分の存在を軽く扱われたように感じてしまいます。 子供は、本当はケーキがほしかったわけではないのかもしれません。「ケーキが食べたい」という要求を、親がどのように受け止めてくれるかを試したのかもしれ
自分に自信がもてない人が、他人との付き合いに苦痛を感じる理由は、「もし批判されたとき、どう言い訳をすればよいか」と考えることに疲れ切ってしまっているからです。 そして、実際に批判されてしまったときの対処は、大きくふた通りに分かれます。 積極的に「攻撃は最大の防御とばかりにやり返す」か、消極的に「傷ついている自分を見せつけ、相手に罪悪感を抱かせようとする」かのどちらかです。 どちらにしても、他人を変えることに全精力を注ぎ込んでしまうのです。 しかし、他人が変わるのを待ち続けるには、人間に与えられた一生の時間は、あまりにも短すぎます。 世の中に、批判されない人はいません。 何かを言ったといって批判され、言わなかったといって批判されます。失敗してはバカにされ、成功しては妬まれます。 自分のまわりの人間すべての批判を抑えることなど、とても不可能なことです。 他人を傷つけて喜んでいる人は
他人の自慢話は、話半分に聞いておくぐらいがちょうどいいと言います。 これまでに10人の異性と付き合ったと言えば、そのうち半分くらいは数週間程度の付き合いの人も含まれているでしょうし、有名人と子供のころ友達だったと言えば、実際はただの顔見知り程度のものでしょう。 自慢とは、自分をよく見せるためにするものですから、どうしても大げさになってしまうものです。 自分に自信のない人は、他人からバカにされることを怖れて、ゴテゴテと自分を飾って見せようとしてしまいます。 しかし、そもそも自分をよく見せようとすることが、自分に自信がもてない原因なのです。 できないことをできるように見せかけようとするから、「本当の自分が知られたらどうしよう」と怯えてしまうのです。 精一杯背伸びをして自分を大きく見せることでは、けっして本当の自信はえられません。 背伸びをした状態で走ることはできないのです。全力で走る
ある人は、人付き合いが苦手であることに悩んでいます。 自分は口べたなせいで、仕事も恋愛も人間関係も、何もかもうまくいかない。はじめて会った人とでも気さくに話ができ、すぐに仲よくなれる人がうらやましくて仕方がない……。 そう悩んでいる人は、どうすれば救われるのでしょうか。 その答えは、「口べたでも好かれる人間になればよい」という以外にありません。 もちろん、話がうまいということは、人間としての大きな長所には違いないでしょう。しかし、世の中のすべての人が、そういう長所を求めているわけではありません。 また、「話し上手で、皆から好かれている人」は、単に話がうまいからという理由だけで好かれているわけでもないはずです。 口べたであるという悩みを解決するために、無理に口べたを直す必要はありません。口べたであることが気にならなくなりさえすれば、それでよいのです。 劣等感は子供のころから染みつい
愛する人に愛される方法 恋愛や人間関係にお悩みの方へのアドバイス、悩み相談
他人の優しさや好意に対して、素直に感謝できない、という人がいます。 他人の好意を拒絶する人は、また一方では、無意識のうちに安心を感じています。先に自分から相手を拒絶しておけば、「見捨てられる不安」に怯えなくてもすむからです。 自分に自信のない人は、他人から優しくされても、それに感謝し、喜ぶことが「怖い」のです。 相手は、今は優しくしてくれていても、いつかは裏切り、自分を見捨てるだろう、という不安をつねに抱えてしまっています。 見捨てられたときのショックを想像すれば、「優しくされていい気になっていた自分」が惨めに感じられると思い、現在を素直に喜ぶことができないのです。 恋人が浮気をしていないかを心配し、行動を監視したり、メールを盗み読んだりしてしまう人は、裏切られることを怖れながら、また一方では、恋人が「隠れて浮気をするような卑怯な人間」であることを密かに期待しています。 浮気をされ
自分に自信のある人ほど、謙虚になれるものです。 しかし、この「謙虚」を、単なる臆病と勘違いしてはいけません。本当の謙虚さの裏には、他人を思いやる気持ちが必要です。 単に、他人から否定されるのが怖いから、自ら先回りして「どうせ自分なんか」と自分を卑下する人は、謙虚でも何でもありません。むしろ、ごう慢であるとさえ言えます。 ことさらに「どうせ自分なんか価値がない」と強調する人は、他人から「そんなことはないよ」と否定してほしいと思っているのです。無意識のうちに、他人の心を操作して、自分を認めてくれるように仕向けようとしているのです。 謙虚な人は、つねに自分を省みて、少しでも自分を改善しようと前向きに考え、行動しています。 対して、臆病な人は、いつも「自分が悪い」と言っているのですが、それは単に、他人から攻撃されないための防御にすぎないのです。 臆病な人は、自分を守ることばかり考えています
他人から批判されることを怖れすぎるために、人の輪に入れない、社会になじめない、という人がいます。 もちろん、他人から批判されることは、誰にとっても不愉快なことです。 しかし、だからといって、他人というものすべてを怖れ、心を閉ざしてひきこもってしまうのは、とてももったいないことです。 人の心を傷つけるのも人間なら、救ってくれるのもまた人間です。 世の中には、冷たい人もいますが、温かい心をもった人もたくさんいます。 冷たい人に傷つけられたからといって、すべての他人に心を閉ざしてしまっては、優しい人と出会うチャンスも失ってしまうことになります。 世の中で、他人と関わり合いながら生きていこうと思えば、批判されるということは避けられないでしょう。 逃げるばかりでなく、それに対処していく知恵をつけなければなりません。 他人から批判されたとき、かっとなったり、落ち込んだりせず、まず深呼吸をして
その昔、ひとりの老人が、一休和尚を訪ねて、祈とうを頼みました。 「私は80歳になりますが、あと20年長生きしたいのです」 一休は答えて言いました。 「たった20年でよいのですか。何と欲の少ない人だ」 老人は驚いて、言い直しました。 「いえ、できればあと40年ほど長く生きたいと思います」 「これは、ますます欲の少ない人だ」 「では、あと100年」 ここで一休は諭しました。 「50年や100年長生きしても、同じことだ。そんな小さな欲ではなく、なぜ永遠に生きようという大きな欲をもたないのだ。御仏は、永遠に生きる道を説いているのだ」 花は散っても、また次の年には咲きます。川の水は流れ去っても、流れは永遠に続きます。 人の肉体は滅びても、また自然に返り、新しい生命の源となります。魂は仏となって、永遠に生き続けるのです。 老人は、一休の言葉によって目覚め、余生をやすらかに生きたそ
人は誰でも、他人の目を気にするものです。 「他人に見られている」という意識が、心に張りをもたせ、やる気を起こさせます。 他人の目があるから、「恥ずかしいことはやめよう」「嫌われるようなことはやめよう」と自分を律することができるのです。 人目を気にすることは、悪いことではありません。 しかし、「他人とまったく目を合わせられない」「人前に出ると、何もしゃべれなくなる」というほどまでに他人を怖れすぎては、社会生活にいろいろ支障をきたしてしまいます。 「他人の目を気にせず、自然に振る舞いたい」と思えば思うほど、肩に力が入り、ますます他人の目が気になって、態度がぎこちなくなってしまいます。 人目を気にしすぎることに悩んでいる人は、「他人の目を無視しよう」などとは思わなくてよいのです。 世の中には、「もっと人目を気にすればよいのに」と思うほど、厚顔無恥、傍若無人な人たちがいます。 そのよ
恋人や友人にメールを送ったのに、なかなか返事がこない。自分がないがしろにされているようで、腹が立つ。 そういうとき、いくら相手に「早く返事をよこしなさい」と求めても、互いの関係がよくなるわけではありません。 どれだけ返事が早く返ってきたとしても、「メールの返事がこなければ、すぐに不安になるような関係」であることに変わりはないのです。 そのような「相手に対する不信」こそを見直すべきなのです。 頻繁にメールのやり取りをするのがいけないというのではありません。互いにそれを楽しんでいるのであれば、まったく問題はないのです。 しかし、メールをたくさん送るのが好きな人は、えてして「他人が自分を見捨てようとしていないかをつねに警戒している」という傾向があるものです。 相手を信用しておらず、いつか裏切られるかもしれないと疑っているから、「メールにすぐ返信してくれるか」「こんなメールを送れば、どう
悪気はないと判っているのに、他人の何気ない言動に深く傷ついてしまう。 嫌なことがあると、何もかも自分が悪いのだと責めてしまう。 幸せそうな人を見ると嫉妬し、つい「不幸になればいいのに」と思ってしまう。 他人に文句を言いはじめると、止まらなくなり、よけいなことまで言ってしまう。 好きな人の前に出ると、相手の気を引こうとして、わざと不機嫌な態度をとったり、無視したりしてしまう。 上に挙げたような点に思い当たる方も多いのではないでしょうか。 そんなつもりはないのに、なぜか悪いほうに考えてしまう。いけないことだと判っているのに、自分の心が言うことをきかない。 心とは不思議なものです。自分のものであるのに、なかなか自分の自由にはなりません。 誰でも幸せになりたいと願っているはずなのに、わざわざ自分を不幸に追い込むような真似をしてしまうのです。 必死になって嫌な考えを頭の中から追い払おう
他人に対する不満でよく挙げられることに、「自分だけが気を遣わされている」というのがあります。 せっかく自分は他人に気を遣っているのに、相手はそれに感謝を示してくれない。もっと自分にも気を遣ってほしい。無神経な人を見ていると、なぜもっと他人に配慮ができないのだろう、と腹が立つ。 自分だけが損をしているようでバカバカしくなる、というものです。 しかし、「気遣い」とは、本来、相手に気づかれないようにやるものです。 「自分だけが損をしている」と思っている人には信じられないかもしれませんが、自分が気を遣っているのと同じくらいに、他人も知らないところで気を遣ってくれているのです。 自分が他人に気を遣ったことは、自分がしたことだから、よく判るだけなのです。 自分が「なぜ相手は気づいてくれないのだろう」と思っているのと同じくらいに、自分も他人の気持ちに気づいていないものなのです。 電車の中で、若
他人とうまく付き合えない人、自分に自信がもてない人は、すぐに自分を責めてしまう癖があります。 他人は、自分のようなつまらない人間と一緒にいても、おもしろくないのではないか。自分の態度が相手をいら立たせているのではないか。自分は相手から見くだされているのではないか。 つい「どうせ自分なんか」と責めてしまい、そんな自分が嫌になり、他人にも心を開けなくなってしまうのです。 そういう人は、「自分を責めるのをやめたい」と思いながらも、「しかし、それをやめてしまったら、ごう慢でずうずうしい人間になってしまうのではないか」という不安を感じているのではないでしょうか。 そうです、つねに自分を省みて、自分の弱さ、いたらなさを自覚するというのは、悪いことではないのです。 自分に自信をもち、堂々と生きるためには、横着で無反省で恥知らずな人間になればよいというのではありません。 「自分の何げない一言が、他
他人との付き合いの中では、うれしいこと、楽しいこともたくさんありますが、それと同じくらいに、つらいことや悲しいこともあります。 他人を拒絶している人は、つらい思い出を受け入れられず、「もう二度とこんなつらい目に遭いたくない」と、心を閉ざしてしまっているのではないでしょうか。 大好きな人に振られた。 信じていた友人に裏切られた。 親からひどい仕打ちを受けた。 私たちは、それらの心の傷とどう向き合っていけばよいのでしょうか。 結論から言ってしまえば、「静かにゆっくりと傷が癒えるのを待つ」しかありません。 あせって手っとり早く痛みを取りのぞこうとしては、かえって傷を悪化させてしまいます。 痛みを癒すためのもっとも有効な薬は、「時間」です。 ただし、何も考えずに忘れてしまえばよいというのではありません。 麻酔をかけて身体の痛みを和らげるように、考えることをやめて心の痛みをごまかして
「起きて半畳、寝て一畳」という言葉があります。 どれだけ家が広くても、実際に自分の身体が占有している広さは変わりません。 「もっと豊かな暮らしがしたい」という不満をもっている人でも、家の中を見回してみれば、人間が生きていく上で不可欠というわけではない「無駄なもの」がたくさんあることに気づくでしょう。ただでさえ私たちは、身に余る暮らしをしているのです。 せまく質素な家の中でも、目を閉じて「ここは宮殿のような豪邸だ」と想像してみてください。 ひとりの人間が生きていくために、何百坪もの土地は必要ありません。 むしろ、家が広ければ広いほど、管理に手間と費用がかかるし、防犯対策などのわずらわしさも増えることになります。 実際に広い家を所有することと、広い家に住んでいると想像することの間に、どれほどの違いがあるというのでしょうか。 広い家に住むことの利点が、「贅沢な気分に浸れる」ということ
「あきらめる」という言葉は、「やりかけたことを途中で投げ出す」というような否定的なイメージでとらえられがちですが、もともとは「明らめる」と書き、「物ごとの道理、真理を明らかにすること」という意味でした。 苦しみから逃れようともがくのではなく、「苦しいことは苦しい、悲しいことは悲しい」と、ありのままの現実を受け入れる勇気をもち、迷いを払拭することが、「あきらめる」ということです。 大昔のインドでの話です。 ある女性が、たったひとりの子供を亡くして、嘆き悲しんでいました。 彼女は、我が子の死を受け入れることができず、「どなたか、この子を生き返らせる薬をつくってください」と、死んだ子供を抱いたまま、気も狂わんばかりに町中をかけずり回っていました。しかし、そんなことができる人がいるはずもありません。 そこへ通りかかったお釈迦様が、彼女に告げました。 「一度も死者を出したことのない家から、カ
観光地などの飲食店で、店員さんが店先で、「いらっしゃいませ! お席は空いておりますので、どうぞお入りください!」と、大声で叫んでいるのをたまに見かけます。 熱意があるのは判りますが、客の心理をまったく理解していない、下手くそな商売のやり方です。そういう店は、たいてい流行っていません。 普通、人は、まったく知らない店に、「お入りください」と言われたからといって入るものではありません。 まずメニューのサンプルや店内の雰囲気などをのぞいて見て、なかなかいい感じだと判断してから、入るのです。 店先に店員さんに立っていられては、立ち止まって店内をのぞくことにも気後れを感じてしまいます。少しでものぞけば、必ず入らなければならない雰囲気になってしまうのではないか、という威圧感を受け、皆、素通りしてしまうのです。 最初からこの店に入ることを決めてきた人は、わざわざ呼び込まなくても入ってくれるのです
独りぼっちでいることが耐えられない、という人がいます。 買い物に行くのも、食事をするのも、必ず誰かを誘って行きます。 休みの日に家で独りで過ごすなどということは考えられず、手当たり次第に友人たちに連絡をし、誰もつかまらないと、まるで自分だけが世の中から取り残されてしまったような不安と焦りにさいなまれます。 他人との一体感をもつことでしか、自分の存在意義を確認できないのです。 人当たりはよく、社交的に見えるのですが、他人と対立することを避け、心には鬱憤がたまっています。 他人に文句が言いたくても言えず、笑顔をつくってしまう。頼まれれば、嫌なことでも断れない。他人の感情を素早く読み取り、自分を押し殺して相手に合わせてしまう。 心がすり切れるほど他人に気を遣ってでも、独りぼっちになることを避けようとしているのです。 それだけに、自分を尊重してくれない人がいれば、はげしい怒りを感じます
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