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南京攻略戦の大隊指揮官真相を語る ― 謹(つつし)んで英霊に捧(ささ)ぐ― 「南京大虐殺」はなかった 森王 琢(もりおう みがく) ※平成4(1992)年4月に岡山国民文化懇談会(代表・三宅將之氏)で開かれた森王琢氏の講演記録です。 はじめに 南京総攻撃の概要 「南京大虐殺」論はなぜ起こったか 東京裁判における検事側の証言 虐殺論者とそのウソ(1) 虐殺論者とそのウソ(2) 参戦者の手記、日記など 虐殺論に対する反論 戦場の実相 終りに 質疑応答 付・便衣兵について はじめに 私は評論家でも歴史学者でもございませんし、もちろん右翼というような者でもありません。 ただ南京攻略に参加した1人の軍人です。 昭和12(1937)年7月蘆溝橋事件(ろこうきょうじけん)勃発(ぼっぱつ)後、9月に第16師団(京都)に動員下令、私は歩兵第20連隊(福知山)中隊長として出征し最初は北支に上陸、次いで師団
朝日新聞との闘い・われらの場合 都城23連隊の戦史を汚すことは断じて許さぬ 吉川正司(元都城歩兵第23連隊・中隊長) 「文藝春秋」昭和62(1987)年5月号より転載 昭和59(1984)年8月4日、朝日新聞夕刊に5段抜きの大見出しが躍った。 「日記と写真もあった南京大虐殺、悲惨さ写した3枚、宮崎の元兵士後悔の念をつづる」と題されたこの記事は、翌5日朝刊の全国版にも掲載され、一大センセーションを巻き起こす。 思えばこれが、朝日新聞との2年5ヶ月におよぶ闘いの幕開けだった。 その記事によれば、宮崎県東臼杵郡北郷村の農家から、南京に入城した都城23連隊の元上等兵が所持していた、「虐殺に直接携わり、苦しむ真情をつづった日記と、惨殺された中国人と見られる男性や女性の生首が転がっているなどの写真3枚が見つかった」というのである。 惨殺写真もさることながら、日記の内容は衝撃的だった。 昭和1
南京事件・関連史料 これらは、南京事件・関連史料(歴史資料)集です、ご参考下さい。
マイケル・ホンダ(Michael Honda)氏との対話 松尾一郎 カリフォルニア州議会の決議から始まった 平成11(1999)年8月27日(金曜日)産経新聞の朝刊に「日本政府に賠償要求決議」という記事(別項にて記事掲載)が掲載された。 米国カリフォルニア州で対日賠償要求決議が行われたそうである。 やはり、この様な事態になったかと・・・ある程度予想はしていたものの、やはり気持ちとしてはやるせないモノが込上げてくる。 決議内容は「日本政府はより明確に謝罪し、犠牲者に対する賠償を行うべき」というモノであった。 この決議は先に米国内でベスト・セラーとなったアイリス・チャン著「ザ・レイプ・オブ・南京」の影響が多分にある。 この「「ザ・レイプ・オブ・南京」についてはこのホーム・ページでもいかにインチキな代物であるか反論を行っているが、米国内では真実であると受け止められているようである。
この史料(歴史資料)は、昭和57(1982)年夏に起きたマスコミによる教科書誤報事件によって一躍注目される事となった“南京大虐殺”が事実なのか?それとも一体何が真実なのか?という点に注目し旧陸軍士官出身者による親睦団体“偕行社(かいこうしゃ)”によって、元南京戦従軍者から聞き取り調査を行い機関紙に掲載されたものです。 今回、これらを公開致しています。さらに平成元(1989)年秋にはさらにこれらを発展させた基礎資料としての『南京戦史』(下写真)が刊行されています。
『南京事件「証拠写真」を検証する』 の間違いについて TVの間違い 亜細亜大学教授・東中野修道氏ら共著による草思社刊『南京事件「証拠写真」を検証する』については、最近TVなどで取り扱われてます・・・ プロパガンダ写真研究会 1998年2月から翌年2月までの間に、自由主義史観研究会において、プロパガンダ写真研究会というものが存在していました。 これは、会員皆で日本の歴史上影響を及ぼした、歴史写真・・・特に日中戦争におけるプロパガンダ(宣伝)写真の真実を解き明かし、最終的には出版を行うというものでした。 しかしながら結果として、何も成果が上がらず、写真検証の出来るものはおらず、藤岡、東中野両教授による研究成果の盗用が開始されただけです。 (当時の趣意書) 東中野修道氏の書籍である写真検証本は98年2月から1年間活動した、自由主義史観研究会内に存在したプロパガンダ写真研究会での研究発表を
写真3-1は「生き埋めの現場」との解説ですが、見守っている日本兵らしき人達の後ろに校舎らしき建物が写っています。 南京の中に学校の校舎らしき建物は「安全区」以外ありません。 安全区は無用の日本兵は入れませんでしたし、わざわざ入って生き埋めを行う訳がありません。 不思議な写真ですね。 結論を言うとこれは完全な合成写真です。 見物人の視線が全く合っておらず、ばらばらです。 しかも被埋葬者が穴と一致していません。 左側の斬れたところに合成が失敗して出来たところがあります。(兵士は半分の体になってます) この写真ではこれらをトリミングして誤魔化しています。これらは『日寇暴行実録』なる中国の写真宣伝書にて初めて掲載され、決して中立的な写真では無いことが判明しています。 写真3-6は左に立つ日本兵の服装や装備が全く異なっており明らかなやらせ写真です。 写真3-5の日本兵らしき者の足
昭和12(1937)年12月13日、南京事件が起きたとされる時期である陥落以降に撮影された写真ばかりを集めました。 陥落当時には120名をこえる報道陣が南京に滞在していました。(外国人記者達を含めて) 彼らの多くは戦争が終わり、南京が平和に復興する様子を写真などによって撮影、記録しています。 日本兵と中国人との心温まる交流も多数記録されているのです。 ところが戦後、これらの写真を「朝日新聞」、「毎日新聞」「岩波書店」、「日教組」、「NHK」などのサヨク系団体や組織によって封印されたのです。 戦争ですから戦死体があるのは当然ですが、虐殺とは全く無関係の写真を大虐殺の証拠として(特に)朝日、毎日、岩波書店、日教組、(サヨク)系マスコミなどが大宣伝を行い、現在でも日本国民を洗脳しています。 ホームページ作者はこれら写真を集めるうちに、事実とは大きく異なるウソ宣伝を行う報道(マスコミ)
古森義久(ジャーナリスト)(文藝春秋89.10から) ラホーヤはカリフォルニア州の軍港都市サンディエゴから北へ、車で30分足らずの美しい海岸の町である。 太平洋を眺望するすばらしい景観に加えて、1年を通じての温暖な気候のために全米でも有数の保養地になっている。 ティルマン・ダーティン氏のこじんまりとしたアパートは、そのラホーヤの町を貫く大通りからほんの少しだけはずれた一角にあった。 からりと乾いた快適な風が吹きぬけるので真夏の太陽も苦にならない。 そこここの家やアパートに付属するプールが明るい日差しをあび、キラキラと光る。 ダーティン氏のアパートは地味な3階建のビルの2階にあった。 ベルを鳴らすとすぐにドアが開き、思ったより小柄な老人が立っていた。 ティルマン・ダーティン――1937年(昭和12)年12月、ニューヨーク・タイムズの若手記者として日本軍の南京占領の模様を一部始終
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