創建1300年を迎えた元興寺(奈良市)ゆかりの3寺院は11日、元興寺前身の法興寺を建立した飛鳥時代の豪族・蘇我馬子を顕彰する法要を19日午前10時から、明日香村の国営飛鳥歴史公園石舞台地区のあすか風舞台前芝生広場で営むと発表した。 元興寺は718年、法興寺が飛鳥から平城京に移転されたことが始まり。「日本書紀」に記録された馬子の命日(5月20日)にちなみ、馬子の墓との伝承もある石舞台古墳で、仏教興隆に尽力した馬子に感謝をささげる。 当日は3寺院に加え、元興寺旧境内地にあるなど同寺に関係の深い5寺院と、明日香村で法興寺の法灯を継ぐ飛鳥寺など同村仏教団の7寺院から僧侶が参列する。古墳に向かって祭壇を設けて読経し、一般の参拝者も焼香できる。また、法要後は聖徳太子をテーマにした演劇と「古事記」に登場する2弦の楽器・八雲琴の演奏をそれぞれ奉納する。 真言律宗・元興寺の辻村泰善住職は「これまで悪いイメー
旧東京帝大総長を務めた名建築家、内田祥三(よしかず)(1885~1972年)が設計に携わった「東京大学臨海実験所」(神奈川県三浦市)の旧本館と水族室標本展示室が解体される見通しになった。 東大は国の文化財登録の候補と位置付けていたが、国立大への補助金削減もあり、実験所内の施設新築と併せて解体の方針を固めた。戦時中、軍特攻基地になった実験所は「日本の生物学を先導した象徴」。一部が姿を消すことを惜しむ研究者も多い。 実験所は、動物研究の先進拠点として1886年に創設された。豊かな海洋生物に恵まれた相模湾に面する約7万7000平方メートルに、旧本館や水族室標本展示室、実験研究棟などがある。 旧本館は、1936年建設の鉄筋2階、延べ床面積約1000平方メートル。鉄筋2階、延べ床面積約400平方メートルの水族室標本展示室は、32年に建設された。
美祢市教育委員会は13日、同市にある国史跡の「長登銅山跡」から、銅の送り先を記した奈良時代の木簡などが出土したと発表した。市教委などは「当時の利用実態を明らかにする貴重な手がかりだ」としている。 長登銅山は最古の国営銅山で、奈良時代から1960年まで採掘が行われ、銅は東大寺(奈良市)の大仏が初めて造られる時に使用された。同市教委は2016年から、銅山内の施設の配置を明らかにするため、調査を進めてきた。 今回発見された木簡は長さ約12センチ、幅約3センチ、厚さ約0・3センチ。表面には「家令余五十五」、裏面には「八月十一日知」と書かれている。調査した花園大(京都市)の竹内亮専任講師(日本史学)によると、大臣らの秘書にあたる「家令」に約37キロの銅が8月11日に送られた、と読み取れるという。書体などから奈良時代のものとみられる。 同銅山ではこれまでにも、飛鳥時代の貴族・藤原鎌足の子、不比等に銅を
◇橿原で木簡や歌人の遺物展示 日本最古の歌集「万葉集」にちなんだ貴重な木簡や遺物など約200点を集め、考古学的な視点で考える特別陳列「万葉集の考古学」が、橿原市の県立橿原考古学研究所付属博物館で開かれている。21日まで。 平仮名や片仮名がまだなかった飛鳥、奈良時代において、万葉集は漢字の音を借りて1字1音で言葉を表記する「万葉仮名」が用いられた。万葉集の歌を万葉仮名で記した「歌木簡」(複製)は、儀礼の場で詠まれたと考えられている。 「大和三山」(畝傍山、香具山、耳成山)を題材にした歌もあり、藤原京(橿原市)跡から出土した「香山」(香具山)と墨書された土器を展示。万葉集の代表的な歌人、柿本人麻呂をはじめ、謀反の罪をきせられて自害した大津皇子らの関連遺物も紹介した。 また、鶴見泰寿・同博物館指導学芸員が18日午後1時から、同研究所講堂で「歴史考古学から見た万葉集」をテーマに語る無料講演会もある
◇空海書籍や古地図、曼荼羅・・・ DB化し閲覧可能に 1200年の歴史を持つ真言密教の聖地・高野山(高野町)で、弘法大師・空海の時代から伝わる経典や古地図、曼荼羅(まんだら)などを、インターネット上で公開する取り組みが進んでいる。貴重な資料の数々をデータベース化して広く閲覧できるようにし、西欧のカトリック総本山・バチカンなどと並ぶ宗教都市であると世界にアピール。伝統や独自の文化を期待する外国人旅行者らを呼び込む。(久米浩之) 神秘的な景観や宿坊での滞在、写経などの珍しい体験が評判を呼び、高野山の外国人宿泊者数は2015年に5万人を突破。16年にはさらに2万人増えた。 開山以来の資料を収蔵している高野山大学では、歴史的価値の高い江戸時代以前に絞っても書籍など10万点があり、「デジタル化すれば、世界のどこからでも『教え』に触れてもらえる」として、「空海作」とされる約50種類の書籍を専用スキャナ
長崎県壱岐市教育委員会は9日、同市のカラカミ遺跡で、「周」という漢字の左半分が刻まれた土器片(弥生時代後期、2世紀頃)が出土したと発表した。 同遺跡は、中国の歴史書「魏志倭人伝」に記された「一支(いき)国」の交易拠点跡とされ、当時の九州北部で広範囲に文字が伝わっていた可能性も出てきた。 漢字が記された資料は福岡市・志賀島で見つかった「漢委奴国王」の刻印を持つ金印や銘文のある鏡などがいち早く国内に入っているが、土器としては国内最古級となる。 土器片は縦7・5センチ、横8・8センチ。鉢(口径23センチ、高さ7・7センチ)の一部とみられ、文字は縁部分に刻まれていた。土器は中国・遼東半島周辺で作られたとみられ、交易を通じて一支国に入った可能性が高いという。 文字関連の弥生時代の遺物は、これまで倭人伝の「伊都国」の王都とされる三雲・井原遺跡(福岡県糸島市)で国内最古級の硯(すずり)(中期後半~後期)
北海道厚真町の厚真川上流域で行われた15年にわたる発掘調査で、13世紀頃に始まったとされるアイヌ文化期の萌芽(ほうが)が、約200年前の擦文(さつもん)文化期に芽生えていたことが分かった。 共通する習俗が複数確認されたためで、研究者らはアイヌ文化の成立過程の解明につながる成果として注目している。 発掘されたのは22遺跡。このうち、上幌内モイ遺跡では、10世紀後半から11世紀前半の擦文文化期の段階で、後のアイヌ文化期にみられる「神聖な方角」の存在が明らかになった。住居跡や儀礼の跡の配置を分析することで判明した。 また、住居から見て神聖な方角にあたる場所でシカの霊を送る儀礼を行ったとみられる跡が、オニキシベ4遺跡の擦文文化期(12世紀)の遺構と、オニキシベ2遺跡のアイヌ文化期(14世紀)の遺構で確認された。
大阪府和泉市池上町の府立弥生文化博物館で開催中の特別展「沖縄の旧石器人と南島文化」(読売新聞社共催)で、研究者もその意味をつかみかねている絵や記号が刻まれた「線刻石板」が「古代人が残した暗号みたい」と入館者の話題を呼んでいる。 沖縄では縄文時代よりもはるか昔の旧石器時代の約2万7000年前の人骨が見つかっており、今回はこうした沖縄での人類学上の貴重な発見成果に関する資料が多数展示されている。 話題の石板は縦36センチ、横26センチ、厚さ4センチ。左側に建物の形にも見える絵があり、「人」という文字に似た模様は特に彫りが深い。山や渦巻きに見える模様や、「正」「七」「二」「十」といった漢字に似た模様も刻まれている。 1959年に沖縄県北谷町の旧家の敷地内から採取されたが、いつの時代のものかは判然としない。ただ、最近になっていたずら書きされたようなものではないという。 弥生文化博物館は「非常に多く
◇桜井市 回遊ルートも計画 邪馬台国の最有力候補地として全国的に知られながら、これまで見学のための施設などがなかった桜井市の 纒向 ( まきむく ) 遺跡で、整備計画が本格的に動き出した。4年後には、訪れた人が発掘調査の成果や歴史を学べる場所を備えた史跡公園が完成する予定だ。限られた財源の中、貴重な遺跡を保護しながら観光に活用し、地域の活性化にもつなげようとする取り組みが進んでいる。 ■埋め戻され原っぱ 同遺跡は3~4世紀の集落遺跡としては国内最大で、中国の歴史書「魏志倭人伝」に登場する卑弥呼(247年頃死去)の時代と重なる。関東から九州まで各地の土器が出土し、 箸墓 ( はしはか ) 古墳などの前方後円墳が最初に造られた場所でもあることから、ヤマト王権誕生の地と考えられている。 2009年には、市教委の調査で大型建物跡が出土。「卑弥呼の宮殿」とする説が紹介され、現地説明会には2日間で1万
◇桜井 小山田・奈良大教授が講演 桜井市 纒向 ( まきむく ) 学研究センターの「纒向学セミナー」が15日、市立図書館で開かれ、奈良大の小山田宏一教授が「前方後円墳の築造と葬送儀礼」と題して講演した。寺沢薫・同センター所長との対談もあり、約280人が熱心に聴き入った。 小山田教授は、古墳時代前期の前方後円墳の土を盛る技法が、弥生時代の墳墓と共通すると指摘。「前方後円墳は新しい技術を使って築かれたのではなく、前代の技術を応用した」と述べた。 葬送儀礼の変遷にも言及した。弥生時代の墳墓に意図的に割られた鏡が副葬されているのは、蘇生を願って死者の耳元で鏡を打ち割った中国の風習に影響を受けたと説明。一方、前方後円墳で完全な形の鏡が納められているのは、死者が復活するのに備えて、悪霊などから守るためだったとした。 対談では、古墳時代が始まる時期や桜井市の箸墓古墳の被葬者などについて意見を交わした。
リリース、障害情報などのサービスのお知らせ
最新の人気エントリーの配信
処理を実行中です
j次のブックマーク
k前のブックマーク
lあとで読む
eコメント一覧を開く
oページを開く