サクサク読めて、アプリ限定の機能も多数!
トップへ戻る
画力アップ
ashizu.hatenablog.com
庵野秀明は、2006年、『ヱヴァンゲリヲン新劇場版』の制作発表にあたり、極めて挑発的な所信表明を行なった。「この12年間エヴァより新しいアニメはありませんでした」*1。この表明が意味していることとは、『エヴァ』を更新するアニメは『エヴァ』それ自体でしかありえず、「ポスト・エヴァンゲリオン」などというものは存在しない、ということだろう。ここには、アニメの現状に対する庵野秀明の認識が明確に示されていると言える。つまり、『エヴァ』以降も、非常に多くのアニメ作品が作られ、その中には斬新な試みを行なった傑作もあっただろうが、真の意味で新しいアニメ作品はなかったのである、と(もちろん、それではアニメにおける新しさとは何なのか、ということを次に問う必要があるだろうが)。 山本寛(ヤマカン)は、これと似たような声明を、『フラクタル』の制作発表にあたって公表したが、ヤマカンの声明は、庵野秀明の大胆不敵な声明
『ソ・ラ・ノ・ヲ・ト』は2010年の1月から3月にかけて放送されたアニメ作品である。つまり、この作品は、2010年代の冒頭に出てきたのであり、「アニメノチカラ」と名づけられたアニメシリーズの最初の作品ということから考えても、何らかの形で新しいアニメの可能性を模索しようとしていたと言える。「アニメノチカラ」という言葉には、おそらく、次のような危機意識が反映されていることだろう。すなわち、現在のアニメ(特にテレビアニメ)は、それが以前持っていた可能性の多くを見失ってしまった。アニメにはもっと豊かな可能性があったはずだ。その豊かさを、アニメの力を再発見すべきだ、といったような危機意識である。 『ソラノヲト』に見出されたアニメの可能性がどのようなものであったのかということとは別に、アニメという言葉が、その一般名詞の使用法とは違って、どのような特殊な意味を持ちうるのか、具体的にどのような特定の作品傾
(ネタバレ大いにあり) 今月の6日から公開されている劇場アニメ『涼宮ハルヒの消失』。僕は初日に見に行ってきたのだが、感想をブログに書くのはしばらく控えようと思っていた。何というか、考えがまとまるための熟成期間がしばらく欲しいと思っていたのである。それでは、現在、もう考えが熟成したのかと言われると、まだ十分ではない気もするが、待っているといつまでも書かない気がしてきたので、ひとまずこの作品について自分が考えていることを書いてみることにする。 また、僕は、『涼宮ハルヒ』という作品だけでなく、その制作会社の京都アニメーションも非常に重要だと思っている。つまり、京都アニメーションが作るアニメとはどのようなアニメなのかということにも関心を持っている。しかし、京都アニメーションについてはまだ考えがまとまらないので、ひとまず今回は、この『ハルヒ消失』というアニメがどういった作品であるのかという点に集中し
フロイトは「精神現象の二原則に関する定式」という論文の中で次のような奇妙な夢を報告している。 ある男が父が長いあいだ苦しんだ不治の病気を看病したが、父の死んだ翌月に何回も次のような夢を見たという。父がまた生きかえって、昔のように彼に話をしている。ところが彼は、父がもう死んでしまっているのに、それを知らないでいるのを非常に心苦しく感じていた。 (『フロイト著作集6』、井村恒郎訳、人文書院、1970年、41頁) 自分がもうすでに死んでいるのにそのことを知らないということ。ここにひとつ現代的なモチーフを見出すことができるような気がする。 こういうことを僕が思ったのは、『魔法少女リリカルなのは』のアニメ(第1期)を改めて見たからなのだが(劇場版『なのは』も見た)、この作品に登場するフェイトというキャラクターが抱えている問題というのも、まさに、この「自分がすでに死んでいるのを知らない」という状態では
アニメ(ブロガー・twitterアニメクラスタたち)の饗宴、あるいは2009年アニメベスト/ワーストのススメ(反=アニメ批評) http://d.hatena.ne.jp/ill_critique/20091220/1261317064 アニメブログ年末合同企画(EPISODE ZERO) http://d.hatena.ne.jp/episode_zero/20091220/p2 上記の企画に参加。 2009年のベストアニメというか、もし仮に2009年のアニメの中からひとつだけ見るべきものを選べと言われれば、僕は迷いなく、『エンドレスエイト』の名前を上げることだろう。『エンドレスエイト』は、『涼宮ハルヒの憂鬱』のアニメのひとつのエピソードとして考えるべきではなく、独立したひとつの作品として捉えられるべきである。 つまり、2009年のベストアニメは『エンドレスエイト』である。以上。 これで
僕は、このブログで、これまで主として物語という観点からアニメ作品を問題にしてきた。しかし、当然のことながら、物語という観点からだけで、アニメ作品について語るのは不十分であるし、物語という観点だけからアニメを見ていると、ある種の空疎さにぶつかることがある。それは、つまり、非常に多くの作品が、ある種の類型に基づいて物語を展開していて、そこには、物語上の複雑さ(あるいは物語展開上の強度)というものを見出すことが難しいからだ。 そもそも、現在のサブカルチャーにおいて、物語の衰退と同時並行的に、それを代補する形で、(萌え)キャラによる作品強度の獲得という方向性が浮上してきたのではなかったか。こういう文脈においては、現在のアニメ作品を問題にするにあたっても、物語を問題にするよりは、キャラを問題にしたほうがラディカルかつアクチュアルなのではないか、と思うところがある。また、物語を問題にするにあたっても、
現在『マクロスF』の劇場版が公開されているわけだが、僕も今度この作品を見に行く予定なので、その予習を兼ねる形で、この作品についてちょっと書いてみたい。いったいこの作品でどのようなことが問題になっていたのかということを自分なりの視点で少しまとめてみたいと思ったのだ。 『マクロスF』を物語的な観点から見ていったときに注目されるべきなのは、メインとなる三人の登場人物、つまり、アルト、シェリル、ランカという三人の登場人物の関係性である。これら三人の登場人物の関係を恋愛における三角関係として提示するのがオーソドックスな見方であるだろうが、そのようなありきたりの見方を踏襲しても面白くないので、ここでは、あえて別の観点を提出してみたいと思っている。それは、すなわち、これら三人の登場人物を男性と女性とで分けて、男性と女性を対立させるという観点、つまり、アルトをシェリルやランカと対立させるという観点である。
2008年10月から2009年3月にかけて放送されたアニメ、『テイルズ オブ ジ アビス』について、ちょっと思うところを書いてみたい。 このアニメの原作は2005年に発売されたゲームであるが、僕は未プレイである。 ゲーム原作のアニメ作品にありがちであるが、ゲームとアニメという異なったジャンルの溝をどのようにして埋めるのかということが、この作品においても大きな課題であったことだろう。RPGのアニメ化にとって重要なのは、ゲームのプレイにおいては非常に地味な時間(しかし重要な時間)、イベントとイベントとの間を繋ぐ時間、経験地稼ぎや情報収集や移動の時間をどのように再現するのかということではないかと僕は思うのだが(というのは、こうした時間がゲームの物語をプレイヤーにとって生きたものにすると思うからだが)、この『アビス』のアニメにおいても、その点はあまり上手くいっていないように思えた。少なくとも僕は、
先日まで、『涼宮ハルヒの憂鬱』のアニメにおいて、八回にわたって、「エンドレスエイト」のエピソードが放送されたわけだが、ネットでの議論を少し見た限りでは、同じ内容の話を何度も繰り返して放送することに対する賛否が主に話されていて、物語内容についての解釈等についてはあまり話されていないという印象を受けた。そういうこともあって、ここでは、「エンドレスエイト」が八回にわたって放送されたことについてはいったん脇に置いて、まずは、その物語内容の側面から、この作品について考えていきたいと思っている。 『涼宮ハルヒの憂鬱』という作品の興味深いところは、複数の視点、複数のパースペクティヴのギャップというものが、非常に上手く提示されているところである。この作品について、そこには、キョンの一人称視点しかないというふうに言うこともできるだろうが、キョンの一人称を取り巻く形で、他の登場人物のパースペクティヴも問題にな
先週、『バトルスピリッツ 少年突破バシン』のアニメについて少し書いたが、そこで書いたことを自分なりにもう少し発展させてみようと思う。 先週あの記事を書いているときにはあまり意識していなかったが、僕は、あの記事で、対立関係をことさらに構築することよりも、対立関係を回避することのほうを肯定している。それから、僕は、四月に『けいおん!』を取り上げて問題にした記事でも、自己実現の物語よりも、自己実現の物語を回避する傾向のほうを肯定している。こうした僕の趣味傾向がどういう意味を持っているのかということについて、ちょっと反省を加えてみようと思ったのである。 僕は、21世紀という時代は、対立関係が徐々に解体していく、そんな時代になるのではないかという気がしている。あるいは、20世紀後半から21世紀までの流れを見ると、冷戦のような大きな対立関係がなくなり、小さな対立関係が乱立する、そういう時代になってきて
知っている人は知っているだろうが、『ゆめにっき』というフリーゲームがあって、遅ればせながら僕も去年ぐらいにはまって、この作品についていろいろと考えたりしたのだが、そのときはこの作品について何か書いたりはしなかった。それが昨日ふと、この作品のことを思い出して、ちょっとプレイし直してみたりして、昔考えたことを思い出したので、今さらながらこの作品の感想を書いてみることにしたい。 この作品は、ネットを散策してみると、一部に熱狂的なファンがいるような気がするのだが、それは非常によく理解できるように思う。さらに、僕が興味を覚えたのは、この作品をファンの人たちがどのように受容しているかで、何というか、作品内では明示されていないことをどんどんと埋めるようにして二次創作がいろいろと生み出されているのが面白いと思った。 この『ゆめにっき』という作品は、基本的に説明というものが決定的に不足していて(端的に「言葉
噂の「笹の葉ラプソディ」を見た。『ハルヒ』二期の評価についてはもう少し見てから判断を下したいところだが、このエピソードだけを見た感想を言えば、『ハルヒ』はやはり面白いなあ、という極めて素朴なものである。 しかし、アニメの『ハルヒ』の面白さというのは二面あるように思っていて、ひとつは今回のエピソードのような、SF的な物語構成の上手さといったところであるが、もうひとつは、日常生活をいかに緩く楽しむかという、そういうコンセプトによって成り立っているエピソードの系列であって、この二つの側面がひとつの作品となっているところが『ハルヒ』の興味深いところだと思う。 さらに、アニメの『ハルヒ』には、何というか、理論面と実践面の二つがあるように思っていて、理論面というのは、例えば、「日常生活を面白くしていったほうがいい」というものだったとすれば、実践面というのは、この『ハルヒ』という作品それ自体が日常生活を
それでエントリーをひとつ書いてみようと思っていたのだけれども、どうもあまり気持ちが乗らないというか、『エウレカ』を評価するにしても叩くにしても、どちらにしても、大した実りがないというか、何となくどうでもいい気分になってしまっているところがある。 一番の原因というのは、この『エウレカ』という作品が、完全に閉じてしまった作品、どこにも開かれていかない作品になってしまっている、というところにある。作品のメッセージ的にはどこかに大きく開いている感じなのだが、ひとつのアニメ作品として見たときに、80年代からゼロ年代にかけての様々なアニメ作品の系譜の中にこの作品を位置づけたときに、これまでのアニメ文脈をこの作品がほとんど回収しているとしても、それが集大成にすらなっていないというか、ただ単に目配せをしているだけであって、これまでのアニメ文脈を大きくずらそうとか、新しい段階に発展させようとか、そういうよう
毎度のことだが、新作アニメの消化がスムーズに進まない。前クールのアニメもまだかなり残っている。 そんな中でも、話題の『けいおん!』は見ているのだが、すでにネット上でかなりの人がこの作品について語っているので、別に今この作品をあえて問題にしなくてもいいかなあ、と漠然と思っていたのだが、昨日、たまたまYouTubeにアップされていたオープニングの曲を歌詞を見ながら何度も聞いてしまって、その歌詞があまりにも良かったので、それに引きずられるような形で、『けいおん』のアニメについて、現在思っていることをちょっと書いておきたい。 今のところ、三話まで『けいおん』を見たが、僕は、この三話だけで、この作品を完全肯定していいと思っている。それは、アニメの出来不出来という問題の他に、個人的な思い入れももちろんあるのだが、そこら辺のことをちょっと書いてみたいと思う。 以前に書いたことであるが、僕は、『らき☆すた
『涼宮ハルヒちゃんの憂鬱』と『にょろ〜ん☆ちゅるやさん』という二つのアニメ作品を問題にするにあたっては、まず、これらの作品がYouTubeという動画投稿サイトで発表されているという、その物理的な条件について考える必要がある。 劇場アニメ、テレビアニメ、OVA(OAD)というふうに、これまで分化していたアニメの形態は、時間上の制約というものを、当然のことながら、受けていた。『ハルヒちゃん』と『ちゅるやさん』という二つの作品によって明らかになったのは、30分なり15分なりといったテレビアニメの形態が、絶対的なものではないのはもちろんのこと、そんなふうに時間を制約されることで、作品の内容にも大きな影響を与えるということである。『ハルヒちゃん』や『ちゅるやさん』を15分番組なり30分番組なりにまとめることは可能だろうが、そんなふうに15分や30分をひとつの単位として作品にまとまりをもたらすと、ひと
『このアニメがすごい!2009』のランキング(今日もやられやく) http://yunakiti.blog79.fc2.com/blog-entry-2689.html マクロス ギアス 墓場 とらドラ 00 夏目 かんなぎ tt ポニョ 絶望 このランキングに取りたてて異論を出したいというのではないけれど、何というか、このランキングを見ていてもあまり面白くないというか、これらの作品だけで2008年のアニメが語られてしまうことにちょっとした不満がある。 実際にこの雑誌を手に取ったわけでもなく、このランキングだけを見ているから、そんな不満が出てくるのかも知れないが、しかし、何かつまらない。 それでは、果たして僕自身が納得がいくランキングとはどのようなものかと考えたときに、2008年のアニメの中で最も良いものを10選ぶというのではなく、ちょっと微妙なところもあるけれど、でも、注目点なり良いとこ
『WHITE ALBUM』のアニメを最後まで見たので、またちょっと感想を書いておきたい。 この作品を見ていて個人的に気になったのは、昭和と平成という時代の違いがどこにあるのかとか、80年代はどういう時代だったのかとか、そのようなことである。このアニメが描いている1986年(昭和61年)という時代、僕は小学生くらいだったが、果たして過去の自分の実感として、このアニメで提出されているような時代の描き方で問題がないかどうか、自分もまたこのような世界を生きていたのかどうか、そういうことがやはり気になるのである。1986年が仮にこのアニメで描かれるような時代だったとして、それから現在まで、果たして時代はどんなふうに推移していったのだろうか、と。 しかし、アニメをずっと見ていて思ったのは、おそらく、このような問いの立て方は間違っているのではないか、ということである。このアニメ作品が舞台にしている時代は
大した感慨もなく最終回を見ていたのだが、アニメ『機動戦士ガンダム00』について、これまで考えてきたことをざっと書いておきたい。 まず、この作品のアクチュアリティ(現代性)という点について。この作品は、「ガンダム」という古い物語をいかにして現代という時代に組み込むかということにかなり奮闘した作品だ、ということはひとまず言えるように思う。「ガンダム」というのはどのような作品なのかということを問うた結果が、このような形になったわけで、人類の革新なり何なりというところは、確かに、『ファーストガンダム』のニュータイプ思想というものを想起させて、今回の「ガンダム」も(『ガンダムSEED』などと同じく)、ある種の原点の反復をなそうとしているところがある、というのはよく分かった。 しかしながら、大きな問題なのは、そのような「ガンダム」の核心とでも言うべきものと、現代の国際的な政治状況を始めとした現代的な問
アニメ『天体戦士サンレッド』を最後まで見た。この作品の舞台である武蔵溝ノ口には何度も足を運んだことがあったので、非常にリアルに描かれる駅前の風景などを見ているだけでも楽しめるところがあった(もちろんギャグも面白かったが)。 この作品を見ていて、地方性というものについて、いろいろと考えさせられた。単に武蔵溝ノ口という特定の地域が舞台になっていることだけに興味を持ったわけではなく、なぜそのような特定の地域をリアルに描かねばならないのか、ということをいろいろと考えさせられたのだ。グローバル社会とかグローバル資本主義などという言葉が囁かれている昨今、それと歩調を合わせるかのように、ローカルなものにも焦点が当たられるという傾向が出始めているように思う。 『サンレッド』においてローカルなものの描き方が秀逸だと思うのは、正義の味方と悪の組織との闘いという大きな枠組の内部でローカルなものが提示されるのでは
アニメの『とらドラ!』の最終回を見た。今クールは、『CLANNAD AFTER STORY』という、『とらドラ!』とテーマ設定のところでいろいろと重なる作品があったので、『とらドラ!』を見ているときでも、『CLANNAD』とどう違うのかといったことをいろいろと考えながら見ていることが多かった。その点について少し書いてみたい。 『とらドラ!』も『CLANNAD』も家族を問題にしている作品であると、ひとまず、言うことはできる。しかしながら、ここで問題となっている家族というのは、家族というものの自明性が失われた後の家族だろう。つまり、家族という言葉がいったい何を意味するのかよく分からなくなった、そのような地点から、これらの作品が、再び家族というものを捉え直そうとしているように思えるのである。 『とらドラ!』と『CLANNAD』との共通点は、恋愛関係が家族を作ることと密接に結びついているところであ
現在『夏目友人帳』のアニメの第二シリーズが放送されているが、僕はまだ、第一シリーズのほうをちゃんと最後まで見ていなかったので、ひとまず、第一シリーズのほうを最後まで見てみた。第二シリーズを見る前に、この作品を見た感想をちょっと書いてみたい。 この作品のアニメーションとしてのクオリティの高さを問題にするのはなかなか難しいが、ひとまず、そこで提出されている問題設定なりテーマ設定というところは、やはり非常に見事なものだったと思う。原作を知らないので、原作と比較して云々できないが、いろいろなアニメ化の方向性がある中で、基本的に非常に抑えた演出をしていたのはとても良かった。とりわけ、人間のキャラクターが、現在のキャラ化の方向性から言うと、どれも非常に抑えがちであったが、そうしたところは、この作品の作風と上手く合っているところだったと思う。 妖怪ものの作品というのは無数にあるだろうし、何か特殊なものが
アニメ『キャシャーン Sins』を最後まで見たので、感想を書いてみたい。 アニメのリメイク作品というものは無数にあるが、それらは概ね、失敗する傾向にあるように思う(もちろん、いくつかの例外はあるが)。というのは、そうしたリメイク作品の多くは、アニメ作品をそれ単体で、幾分か現代的な装いの下に、作り直しているにすぎないものがほとんどだからである。 作品というものは、それ単独で自律しているわけでは決してなく、その作品が成立するための文脈というものを必要とする。昔人気があった作品が、現在において必ずしも同様の人気を獲得できないのは、その作品が古くなったというよりも、文脈が変わったからである(むしろ、こうした文脈の変化が「古い」とか「新しい」という言葉で問題になっていることだろう)。従って、文脈を無視して、単に過去の物語を繰り返しているだけのリメイク作品が面白くないのは当然のことである。 では、今回
アニメの『CLANNAD』があまりにも良かったので、今度、原作のゲームにも手を出してみようと思っているのだが、その前に、出崎統が監督を務めた劇場版の『CLANNAD』を見てみた。京都アニメーションのTV版と比べてみると、とても同じ原作のゲームから作られたとは思えないのだが、いったい、どういうところでそんなにも違いが出てくるのかということをいろいろ考えさせられたという点では、興味深い作品だったと言える。 TVアニメの『CLANNAD』は全4クール、50話近くにもわたって放送されたのに対して、劇場版のほうはたった一時間半しかないという時間上の制約というのが当然ある。しかし、逆に、そんなふうに時間が制限されると、いったいどこに作品の力点を置くかというところが非常にはっきりするように思う。 結論から先に言うと、出崎統は、『CLANNAD』のメインテーマとでも言うべき家族の問題というものがよく分かっ
新作アニメ『鉄のラインバレル』の第1話を見て思ったこと http://d.hatena.ne.jp/ashizu/20081010#1223611140 アニメ『鉄のラインバレル』が放送され始めた当初、いろいろな期待を込めて、上記のような記事を書いたわけだが(この記事ではコミュニケーションという観点から『ラインバレル』を問題にした)、それから5ヶ月ほどが経って、現在自分がこの作品に対してどのような評価を下しているのかということをこれから書いてみたい。 まず、大きな誤算だったのが、第1話だけしか見ていなかった当時の僕が、この作品を完全にシリアスな作品だと決めつけていたことである。言い換えれば、この『鉄のラインバレル』という作品を正しく評価するためには、この作品のギャグアニメ的な側面というものをしっかりと把握しておく必要がある、ということである。 第1話だけを見ても、この作品が一種のギャグアニ
今、大塚英志の『サブカルチャー文学論』を読んでいるのだが、江藤淳のサブカルチャー観を問題にする次のような記述に、僕はかなりガツンとやられた。 ところで江藤がここで「サブカルチュア」をいわゆるアニメやコミックといった具体的な領域を指して言うのではなく「全体文化」から乖離した「部分的な文化現象」の意味で用いていることに注意したい。このような文脈でサブカルチャーを語る時、江藤の中ではやはり「全体文化」の存在が所与のものになっていることをここで確かめておきたい。「サブ」すなわち「部分」なる語は否応なく「全体」の所在を証明してしまうことになるからだ。 しかし、そもそも「全体文化」とは何なのか。例えばここで江藤が「全体文化」ではなく「上位文化」と記していれば理解し易い。その場合はただ文化的なヒエラルキーの中で上位にくる高級な文化を思い起こせばいいのであって、例えばいわゆる「文学」を多くの人はその中に加
アニメージュ オリジナル(津堅信之のアニメーション研究資料図書室) http://d.hatena.ne.jp/tsugata/20081113/1226578800 今更であるが、こちらの記事を取り上げて、ここで語られていることについて少しばかり問題にしてみたい。 昨年は、アニメ批評のことがそれなりに話題になった年だったと言える(東浩紀、山本寛、黒瀬陽平といった人たちが話題になった)。僕もアニメ批評には興味があるので、昨年は、雑誌やネットに載った記事をいくつかチェックして、アニメ批評について、広くはアニメにまつわる言説について、少しばかり考えていた。 アニメ批評についてどう考えるのかということはかなり厄介な問題なので、そのことは順々に述べるとして、まずは、上記の記事で津堅信之さんが表明している違和感を問題にしてみることにしたい。 津堅さんは雑誌「アニメージュ オリジナル」について、次のよ
現在、日本のみならず、全世界が経済危機という名の荒波に飲み込まれているわけだが、そんな時代状況だと、今後日本はいったいどんな国になっていくのだろう、というような日本の行く末のことを考えないではいられない。しかしながら、このような懸念を、僕は、昨日や今日になって急に抱いたわけではなく、90年代後半からずっと抱き続けてきたと言える。経済的な繁栄が頭打ちした日本に明るい未来はないのではないか、という不安をずっと抱き続けてきたのだ。 しかし、そもそもの日本国というものを考えたときに、日本というのは、豊かな国であるというよりも、どちらかと言えば、貧しい国と言えるのではないだろうか? こういうことを、僕は、しばらく前から、考え続けている。もちろん、日本は経済的に豊かな国であったし、現在もそうだと言えるだろう。そういう点では、日本はまったく貧しくはないわけだが、しかし、そのような経済的な豊かさすらも、日
今年の10月から始まって現在放送されているアニメ『かんなぎ』は、『涼宮ハルヒの憂鬱』や『らき☆すた』の制作に関わった山本寛が監督をしているという点で、現在最も注目を浴びている作品だろうし、僕自身もそのような文脈で期待していたのだが、放送が2ヶ月経った時点での感想を述べてみると、この作品は、いったいどこへ向かっていこうとしているのかという方向性のよく分からない作品だと言える。 もちろん、この作品が、他の無数のTVアニメと比べてみたときに、比較的上質の作品であることは間違いない。オープニングのアニメーションは実に素晴らしい。ナギが歌っているアニメーションのクオリティが高いというだけでなく、間に挟まれる似非アイドル物語の演出も素晴らしい。加えて、オープンングの曲もエンディングの曲も非常にいいと思う。同様に、本編の演出でも、注目に値する場面がいくつもあった。 だが、それにも関わらず、この作品を全体
アニメの『かんなぎ』を見ていて、この作品は、何というか、すごく昭和の香りのする作品だなあ、と思った。しかし、それは単に古臭いとか懐かしいというのとは違っている。こんな作品をゼロ年代の終わりにやるなんて時代錯誤だ、とかそんなことではない。むしろ、この作品を見ていて、そうした昭和の香りに何か新しいものを感じたのだ。 いったいその理由は何だろうと考えながら、ネットの記事をいくつか見ていたのだが、まずキーワードとして出てくるのが「ギミック」という言葉である。 「かんなぎ」で山本寛監督がしたい事〜オトナアニメより〜(海ノ藻屑) http://d.hatena.ne.jp/tokigawa/20081010/p1 この記事で検討されている山本寛の発言は、ネットで読める山本寛のインタビュー記事でも語られていることである。 やっぱり「ハルヒ」「らき☆すた」がヒットして、それを追うわけではないんでしょうけど
次のページ
このページを最初にブックマークしてみませんか?
『metamorphosis』の新着エントリーを見る
j次のブックマーク
k前のブックマーク
lあとで読む
eコメント一覧を開く
oページを開く