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体力トレーニング
blackdaydream.hatenablog.com
『ボクのセカイをまもるヒト(2)』谷川流/電撃文庫/メディアワークス ISBN:4840234442 つーわけで、ぼちぼち書くよ。 まず、大前提として、3人称視点の物語とは、個性を消した1人称に他ならないのであり、3人称とも呼ぶべき絶対的な第三者などは存在しない。それは明らかに「神」とも呼ぶべき視点なのだが、谷川流は、その視点に対して、たびたび懐疑的な視点を投げかける。 たとえば『学校を出よう!』の5、6巻では、作中の世界と原点として、平面幾何の考え方で3人称視点を解体していく。平行世界を横軸、世界の上下関係を縦軸として、平行世界についても描けば、作中世界を操る上位世界、それも我々読者がいる世界と、作中の世界をつなぐような、端点のない永遠の連鎖を描こうとしている。 そして『絶望系 閉ざされた世界』では、キャラクターにたいして、絶対的な駒としての配置を徹底することにおいて、その先にそれを配置
たとえば小説。 現在、黒雨が持つ読書方法論としては2つ実感できている。それがキャラクター主体の読み方であり、ストーリー主体の読み方なんだ。たとえば谷川流作品を読んで思った感想なんてものは、黒雨をその2つの読書方法から解き放つ架け橋となってくれるかもしれない。 キャラクターの設定を語り終えることが小説になりえる視点や、キャラクターは登場人物であり、登場人物が交差することにより生まれた「物語」を読むこともある。 当然ながら、他にも読み方は色々あるだろう。SFやミステリを読む人にとっては、作品中の仕掛けが重要であって、登場人物は二の次であり、作中の仕掛けのためのコマであることが優先事項である。 そういった視点の切り替えによって、小説というのは読み方や読後に抱く感想は変わっていく。どんなに自分に合わないと思った作品も、視点を変えるだけで恐ろしいほど感想が変わるものだ。 ここまでを前置きとして、本題
結局まだ見ていないんですがね。エンディングしか見てないんで。 (※2007/04/01 追記 現時点でまだ見てませんし見る暇も気力もないという体たらくだったりします。たぶん「見たい」ってだけで、見ないことになりそうです。) というわけで、アニメシリーズの「涼宮ハルヒの憂鬱」がみたいんです。 というのも、噂によると、このアニメは第一話で原作二巻の『涼宮ハルヒの溜息』でやった映画シーンだけ説明もなしに放送したらしいじゃないですか。 つまりは、原作の再構成が行われているんですよ。それも考えると「涼宮ハルヒ」シリーズは、よくよく考えるとアニメシリーズ化にとても向いている気がする。 最初の『涼宮ハルヒの憂鬱』は、スニーカー大賞受賞っつーことで、単発作品なわけです。それが展開するにつれて、非常にややこしいストーリー展開をしたシリーズがこの「涼宮ハルヒ」。 どこまでネタバレかと言われれば困りますが、原
前説はこちら あらすじ。 ライトノベルとは現象のことを指す呼び名でしかない。ライトノベルの内実にあった新たな呼び名が生まれない限り、未来はないんじゃないか。 っていうようなことをつらつらと訴えかけたいんですよ! 僕は! ごめん嘘! はい、というわけで。 ちなみに、これを書こうとおもいついた時のメモをなくしたので、わりと話がまとめられないよ。適当だよ。というわけで呼び名について下記に。 たとえば「ミステリ」とかいう呼び名の小説群を考える。 この呼び名の周辺には、たとえば「推理小説」であったり「本格」「新本格」とか「ハードボイルド」であったり「海外ミステリ」「国内ミステリ」とか呼ばれたりするものもあれば「古典」とか言っちゃうものもあったり。 それを「ライトノベル」で考えてみる。 この呼び名に含まれる小説を区分するなら、「ファンタジー」であったり「ミステリ」であったり「SF」であったり「学園もの
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