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終わりと始まりのランドスケープ | 五十嵐太郎+森山学+山内彩子+陳玲 The Beginning and End of Landscape | Igarashi Taro, Moriyama Manabu, Yamauchi Ayako, Chen Ling キリストの生誕より2度目のミレニウムがあと数年で終わろうとしている。これは恣意的に決められた数字の節目でしかないのだが、すでに数えきれないほどの世界の終末が語られてきた。数々のカタストロフ、数々のハルマゲドン……、それらは前世紀末の退廃的な雰囲気よりもさらに悲壮感をおびている。が、今世紀の終わりは次なるミレニウムの始まりでもある。新しい時代へのカウントダウン。最初のミレニウムが終わる頃にも、終末的なヴィジョンが世をおおったが、それを過ぎてから新しい芸術が芽生えることになった。そして再び、われわれは奇妙な時間を生きている。終わりと始ま
ミレニアムの都市(後編)──ディズニーランド化×マクドナルド化 | 五十嵐太郎 The City in the Millenium Part 2: Disneylandization vs. McDonaldization | Igarashi Taro 白と灰の融合 一九八九年は東西の冷戦構造が崩壊し、日本では昭和が終わり、時代の変革を象徴づけた年になった。二〇世紀のシステムが終わった年とみることもできよう。この年、アメリカのディズニーワールドでは、マイケル・グレイヴスの設計した《スワン・ホテル》がオープンした★一[図1]。続いて翌年には同じ設計者による《ドルフィン・ホテル》も登場する。いずれも名前の通りに巨大な白鳥やイルカが付随した建築であり、ホテルの外壁には水の波やバナナの葉のカラフルなパターンが描かれ、内装も同一のテーマを反復していた。お伽の国のディズニーらしい、わかりやすいデザイ
ボナパルティズムの署名──都市クーデターの技術 | 田中純 The Signature of Bonapartism: Techniques of the Urban Coup d'Étet | Tanaka Jun 1 蜂起機械と暴力の神 一九九九年に刊行された福田和也による奇妙な書物『日本クーデター計画』には、「自由の擁護者たちに捧げる」という献辞につづけて、クルツィオ・マラパルテの『クーデターの技術』から、次のような一節がエピグラフとして掲げられている。 あのばかばかしい伝説によれば、今日の、また将来のありとあらゆる革命の責任は私にあるのであり、私はいわばヨーロッパの全動乱の「全能の神(デウス・エクス・マキナ)」、現代革命の「陰気な恋人」、イタリア・ルネサンス人につきものの例のシニズムが、マルクス主義者とファシストのシニズムに重ね焼きされた、現代のマキアヴェリということになっている★
歌の意味とはなにか?──声・歌・歌詞の意味論に向けて | 増田聡 What is A Meaning of Song? : Toward Semantics of Voices, Songs, and the Lyrics | Satoshi Masuda 『AERA』誌の記者(当時)である鳥賀陽弘道と、日本人ロック・ミュージシャンのボニーピンクのあいだに起こった「論争」(というにはあまりにも一方的な、烏賀陽の「言い負かし」に終わったが)から話を始めよう。二〇〇〇年六月、『別冊宝島・音楽誌が書かないJポップ批評』誌(第七号)にて、烏賀陽は「Jポップ英検ランキング」と題し、Jポップに散見される英語詞表現の語法の誤りについて挑発的な論評を行なった。これに対し、当該記事のなかで批判を受けたボニーピンクが『Jポップ批評』第八号に反論を寄稿、さらに烏賀陽も追加論考を同号に掲載(ただし、烏賀陽はボニー
音楽ジャンルとは何か?──サウンド・概念・権力のトポロジー | 増田聡 What is Musical Genre?: The Topology of Sounds, Concepts, and Power | Satoshi Masuda ポップ・ミュージックの領域で「ジャンルを越える」という宣言はすでにクリシェとしてしか機能しない。「オレたちの音楽にジャンルは関係ないぜ」と主張することは、その実践の卓越化を彼らが志向している証──誰もがそのように主張するが故に、卓越化の「資格」のようなものとしてしか機能しないのだが──として受け取られる。「ジャンルを越える」というクリシェの存在が当のジャンル自体を特徴づけるという再帰性ゆえに、ロックやポップの諸ジャンルはモダニズムと無縁なままモダニズムを演じることが出来るのだが、それはまた別の話である(要するに彼らは、資本主義の揺籃の中で無自覚なポスト
だれが謳った音階理論?──小泉文夫の歌謡曲論、その後 | 増田聡 Who Sings the Theory of the Musical Scale?: Fumio Koizumi's Study of Japanese Popular Music, and the Sequel | Satoshi Masuda 音楽批評に対して知的に興奮させられることは極めて少ない。他の表象文化諸分野における批評の現状と比べるとそれは明白であろう。その原因はおそらく、音楽への学的な分析アプローチの主流が未だに形式主義的美学(その最も洗練された形態としてのシェンカー理論は、アメリカではほぼ自然科学同様に受容されている)に依存していることと、消費文化のロマン主義的なエートスを背景にした「作者への欲望」の自堕落な蔓延によるものだろう。 これは批評対象の高尚さ/低俗さの別を問わない。クラシック批評もポップ批評も
最小限住宅──起きて半畳、寝て一畳 | 西川祐子 Minimal Housing: Make the Most of What You Have | Nishikawa Yuko 今、小さい家が注目されている。戦後の住宅はひたすら部屋数をふやすことと、大きな家になることを目指してきたのだが、家族数が減れば方向転換がありうる。小さい家は一室住宅になることも多いから、本連載の扱う対象となるであろう。大きな家は伝統民家と呼ばれて、文化財として保存されるが、その昔、大きな家のまわりにあった無数の小さな家は時間の経過とともにはやばやと消え去ることが多い。「起きて半畳、寝て一畳」ということわざがあるように、最小限住宅という概念は新しいものではないのだが、それがどのように住まれたか知りたいと思う。 個人の家の伝統に庵がある。庵またはいおりは「木で作り草で葺いた粗末な小屋。特に、僧や世捨て人、又は、風流人
レム・コールハースはどこへ向かうのか?──OMA/AMOに見る、歴史と白紙との戯れ | 白井宏昌 Where is Rem Koolhaas Headed? At Play with OMA/AMO: On History and the Blank Sheet | Hiromasa Shirai 「レム・コールハースは、この先どこへ向かうのか?」この質問の答えを探すのは容易でない。予測不能な彼の内面と、気まぐれな世界経済の動向を計るのは至難の業だからだ。ほとんど不可能といってもよいであろう。しかし、今日彼がどこにいるのか? そして何と格闘しているのか(あるいは何と戯れているのか)?を考察することは、この先の彼の“旅先”を予測する楽しみをわれわれに与えてくれる。間違いなく彼の“今”は、“次”の布石となるのだから……レムは今どこにいるのだろうか? 矛盾 市場経済を計画経済の対と捉え「個人に
赤塚不二夫の『天才バカボン』に、バカボンのパパが自分をいじめた友人を藁人形で殺そうとする話がある。しかしパパは絵が下手だったため、藁人形と同じ顔をした別の人物の心臓が貫かれてしまう(「催眠術の呪いなのだ」)[図1]。(赤塚の)マンガのなかでは、人物の表象とそれを写した表象の表象は絵柄として区別されないために論理が踏み抜かれているわけだが、そこで示されているのは、イメージの「宛先」とはなにかという基本的な問題でもある。 ウィトゲンシュタインは『哲学探究』第一部の最後で、同じ問題にとりつかれている。 わたくしがある頭部を素描する。あなたが「これは誰を表象しているのか」と尋ねる。──わたくし「Nのつもりだ。」──あなた「でも、それはかれに似ているようには見えない、むしろまだMに似ているように見える。」──わたくしが、それはNを表象している、と言ったとき、──わたくしは、ある繋がりを作り出したのか
「大地讃頌」事件について 後編 | 増田聡 Case of "Daichi-Sansho" : The Second Part | Satoshi Masuda 承前 文化の論理と法の論理がきしみを見せる「大地讃頌」事件を、文化論理の水準から眺めるなら、クラシック音楽的な文化規範と、ジャズ、あるいはポピュラー音楽実践における文化規範との摩擦の事例として見ることができよう。すなわち、クラシック音楽の「楽譜がそのまま確定された作品を指し示す」ような作品観念と、ジャズの「楽譜と演奏の間の差異が創造性の指標となる」ような作品観念の対立である。 現行著作権法の音楽に対するアプローチは、楽譜の水準とその演奏の水準、さらにその録音の水準を通じて、ひとしなみに一貫した「同一の作品」が存在すると見なす観念に依拠している。ゆえに、ここでは「楽譜を逸脱した演奏」と「編曲」とを区別することができない。これはクラシ
「大地讃頌」事件について 前編 | 増田聡 A Case of 'Daich-Sansho' : The First Part | Satoshi Masuda 現在、東京藝術大学作曲科教授である佐藤眞は一九六二年、二四歳でカンタータ『土の歌』を作曲した。「大地讃頌」はその第七楽章である。『土の歌』は日本ビクターの委嘱作品であり、ビクター専属の作詞家、大木惇夫の詞に作曲したもので、NHK交響楽団、東京混声合唱団の演奏、岩城宏之の指揮によって同年に初演された。その後、ピアノ伴奏のかたちに編曲を加えた版が六六年に出版され、この作品は広く合唱界で親しまれてゆく。 PE'Z(ペズ)のメンバーたちも、学校教育を通じて「大地讃頌」に出会い感銘を受けたという。PE'Zは二〇〇二年四月にデビューしたポップ・ジャズバンドで、二管編成(トランペット/サックス/ベース/ドラムス/キーボード)による五人組である。
劇場としてのショウ・ウィンドウ | 蘆田裕史 Show Window as Theater | Hiroshi Ashida 1 人間の不在/マネキンの現前 士郎正宗の『攻殻機動隊』、あるいは押井守の『イノセンス』における義体─義手や義足のように人間身体を人工物で代置したもの─は、普通の人間身体よりも多くの「穴」を持つ。すなわちそれは、首の後ろにある四つのジャックである[図1]。義体はこのジャックを持つことにより、都市のいたるところでネットワークとの接続が可能となる。この義体を持つ登場人物は、知覚どころか神経それ自体を都市の細部へまで拡張していると言えるだろう。このような現象を身体からの神経の拡張と捉えるのであれば、そのとき都市全体をひとつの身体とみなすことができる。とは言うものの、この義体というサイボーグ的な身体を現代の人間身体へとそのまま当てはめることは不可能であろう。だが、仮定と結論
メモリー・クラッシュ──都市の死の欲動(ドライヴ) | 田中純 Memory Crash: Desiring the Death of the City | Tanaka Jun 1 都市と死──記憶のエクリチュール 建築家であり、かつてユーゴスラヴィアの首都ベオグラードの市長も務めたボグダン・ボクダノヴィッチは、旧ユーゴスラヴィア連邦一帯の戦争による都市の破壊をめぐって、それが〈他者の記憶〉の抹殺にほかならないことを指摘している。ボクダノヴィッチによれば、都市の概念とエクリチュールの概念とは大きく重複しており、都市とは強力な〈超=言語的エクリチュールのシステム〉であって、このシステムを知的類推のモデルとすることによってはじめて人間は、自分自身を遡行的に認識し、その運命の過程を明確に把握する歴史的存在になりえた。都市とは記憶のシステムであるばかりではなく、歴史を可能とする認識論的モデルなの
黒の表象──黒をめぐる博物誌 | 五十嵐太郎+斉藤理 Black Symbols:An Archive of Black | Igarashi Taro, Tadashi Saito 黒の製法 1──黒顔料の製造機械 一五二一年チェザリアーノによるウィトルウィウス解説図 「まず、黒色顔料について述べよう。(…中略…)小さい炉がつくられ、(…中略…)炉の中に松脂が置かれる。火力がこれを燃やすことによって煤を孔からラコーニクム(熱気室)の中に押し込む。それが壁と円筒天井のまわりにくっつく。そこから集められたものは一部ゴムが加えられて書写用の黒インキにつくられ、残りのものを塗装師が膠を加えて壁に使う」 ウィトルウィウス『ウィトルーウィウス建築書』 「黒にも多くの種類があることを知っておくがいい。(…中略…)葡萄の蔓を焼き、焼けきった時に水をかけ、他の黒のように練砕する。(…中略…)他の黒は巴旦杏
環境ノイズエレメント──風景の加工性 | 宮本佳明 Environmental Noise Element: Processing Scenery | Miyamoto Katsuhiro 平穏な風景に「ノイズ」をもたらすもの ここでは都市計画上一般に障害物あるいは異物とみなされ、近代都市計画の中心的理念であるゾーニング制が志向、誘導する景観に「雑音」や「ほころび」をもたらしていると考えられる空間エレメントを「環境ノイズエレメント」と呼んでいる。 近年、神戸の連続児童殺傷事件をはじめ、ニュータウンを舞台として発生したさまざまな少年犯罪をきっかけとして、おもに社会学者の間からニュータウンの「感覚地理的寒さ」、すなわち計画的にゾーニングされた「違反のない街」に特有の、スケール感、形態、素材感といった空間の情報量の少なさに起因する風景の均質さが、人間心理の形成に与える悪影響について指摘する声があ
超線形設計プロセス論──新たなコンテクスチュアリズムへ | 藤村龍至 The Super Linear Design Process Theory: Towards New Contextualism | Ryuji Fujimura 1 あえて線形的に設計する OMAの《Casa da Musica》案の骨格は、住宅プロジェクト《Y2K》のために検討された案の流用によってもたらされたことが知られている。コールハースのこのいたずら心に満ちたパフォーマンスが意味をもつのは、建築家による設計プロセスが、そのような論理的飛躍の連続でなく、論理の積み重ねによる「線形的な」思考の延長であったと装われるからである。裏を返せば、建築家が設計過程で辿る経路はいつも、線形的であるようにみえて、いつも非線形的であり、線形性が偽装されてきたのだ。 ここで提起したいことは、設計プロセスを徹底的に線形的に捉えるこ
反近代としての装飾/反表象としての装飾──建築装飾における思想・理論・技術 | 倉方俊輔 Ornament as Anti-Modernization, Ornament as Anti-Representation: Ornament in Idea, Theory, and ArtShunsuke Kurakata | Kurakata Shunsuke 建築にとって装飾とは何か? 現在の装飾論ということであれば、まず鶴岡真弓の仕事に触れなければなるまい。ケルト美術研究に始まり、さまざまな装飾・文様の再評価によって美術史に新たな地平を開きつつある鶴岡は、自らの研究の意義について、一般向けに次のように語っている。 装飾という不思議な美術は、存在と存在を分節する(ための)「名前」を持つことを拒否し、どの美術的中心にも属さず、(ジンメルの意識化した額縁がそうであったように)「関係の帯」として
不可視の都市の複雑系理論 | 池上高志 Complex Systems Theory for Invisible Cities | Ikegam Takashi 都市に住む人にとっての自然な環境とは、人工的な建築物と広告塔の文字、それらが形づくる地平線の輪郭からなり、車を運転すれば、実際の風景とナヴィゲーションの仮想風景によって風景がつくられる。仮想と現実は都市においては自然なフレームであり、別な言い方をすれば都市は本質的に不可視である。複雑系は仮想と現実の違いをコンピュータのなかに仮想世界を構築することでわかろうとする試みである。例えば、カオス的な複雑さや進化のダイナミクスを使って、生命の持つ四つの特徴、自己維持(ホメオスタシス)、増殖、進化、そして運動を暴こうとする。そして生命そのもの(life Itself)もまた不可視なものである。 生命の四つの特徴はまた都市の特徴でもある。都市も
ポスト郵便都市(ポスト・シティ)──手紙の来歴、手紙の行方 | 田中純 Post-PostCity: History of the Letter, Destiny of the Letter | Tanaka Jun 1 啓蒙都市とグラフ理論 トポロジーの一分野をなすグラフ理論が生み出されたきっかけの一つが、〈ケーニヒスベルクの七つの橋〉の問題である。それは一八世紀、東プロイセンの町ケーニヒスベルク(現在のロシアのカリーニングラード)の中心部、プレーゲル川の川中島とその周辺にあった[図1]のような七つの橋を、いずれも一回だけ通って周遊できるか、というものであった。この問題は一七三六年にレオンハルト・オイラーの論文によって解決されたが、その際にはまず、川の実際の形や島の位置などの情報が捨象され、この空間の構造は[図2]のように点と線だけからなる一種の回路として表わされた。こうした抽象化によっ
化(ケ)モノ論ノート | 瀝青会+中谷礼仁 Note on Kemono | Rekiseikai, Nakatani Norihito 黒い戸 見飽きない写真がある。 故篠原一男設計による《白の家》(一九六六)のモノクロームの内観写真だ[図1]。その家の台所わきの裏口側から眺めた居間の様子が記録されている。村井修撮影によるこの写真の緊張感は、立ちつくす面皮柱、精妙に消え入る天井、開口のプロポーションをはじめとして、白い空間に置かれた家具や小物を含む写り込まれたものすべてが緊密に構成されていることに由来するものだと思っていた。 しかし今和次郎の訪れた民家を再訪してさまざまな体験が蓄積しつつあったさなかだったろうか。ある日再びその写真を眺めていて、この《白の家》の緊張感が実はむしろ別の理由によってこそ立ち現われていたことに気がついたのだった。 冷静に眺めれば、この白い空間の張りつめた空気は、
地図のメランコリー 地図制作(マッピング)の喪 | 田中純 Maps and the Work of Melancholy | Tanaka Jun 1 ゲルハルト・リヒター《アトラス》 ゲルハルト・リヒターの《アトラス》は、現在五千枚を越す写真や図版を収めた六〇〇を越えるパネルからなる作品である。その制作は一九六〇年代初頭から延々と続けられており、規模を拡大するとともに、展示形態も変容している。旧東独に生まれたリヒターは、一九六一年、西独のデュッセルドルフに移住した。フォトペインティングの素材として蒐集した写真をパネルに配列する作業が開始されたのは一九六四年頃からと思われる。その八年後の一九七二年にユトレヒト現代美術館で三四三枚のパネルからなる展覧会が開催された。こののち七〇年代に数回の展示がなされているが、《アトラス》の展示が相次ぐのは一九九〇年代を迎えてからのことである。展覧会ごとに
掲載『10+1』 No.15 (交通空間としての都市──線/ストリート/フィルム・ノワール, 1998年12月10日発行) pp.214-225 1499年、ヴェネツィアで出版された作者不詳(フランチェスコ・コロンナ修道士?、1433─1527)の物語『ポリフィリア(Poliphilo)の夢』は瞬く間にヨーロッパ中を席巻し、その後のさまざまな建築像の源泉のひとつとなった。というのも、主人公ポリフィリアによるヒロインを求める道程を描いたこの物語が、その途上で出会う多くの記念碑的建築物について新たな視点で解説を行なっているからである。そもそもヒロインであるポリア(Polia)の名前はポリス、つまり都市を表わしており、主人公ポリフィリア(Poli-philo)の名には、ポリア─愛、つまり都市(建築)を愛する者であることが内示されているのである。ここで語られる建築は、数学的比率による知的領域におい
視覚的無意識としての近代都市──三つの都市の展覧会をめぐって | 五十嵐太郎 The Modern City as Visual Unconscious: On Three Urban Exhibitions | Igarashi Taro プロローグ──ある空中散歩 一八五八年の冬、ナダールは飛んだ。操縦士のゴダールと気球に乗って。雨まじりの空を八〇メートルほど上昇し、すぐに降下したのだったが。これがただの飛行であれば、気球は一八世紀から実験されていたのだし、すでにブランシャールがドーバー海峡を横断していたのだから、さして特筆すべきことはない。だが、ここで注目すべきなのは、気球に乗り込んだその人、フェリックス・ナダールが写真家だったことだ。気球の放出するガスのために、彼は一八五七年に初めて気球に乗りあわせて以来、幾度も失敗を重ね、とうとうこのときパリ近郊の村、プチ・ビセートルの撮影に成功
実験住宅と発明 個別技術が可能にしたもの | 藤森照信+中谷礼仁 Experimental House and Origination: Individual Art That Enables Things | Fujimori Terunobu, Nakatani Norihito 実験住宅と社会的大儀 中谷──「実験住宅」という特集の企画趣旨を聞いたときに、「実験」なんて誰でもしているじゃないかと思ったんですね。町場の大工のみならず日曜大工中のわれわれが「どうしたらいいか」と試している状況まで含めれば、全部実験でしょう。だからまずは「実験住宅」といわれるものの本質を定義する必要にかられる(笑)。その辺を踏まえてから、二〇世紀の実験住宅と呼びうるものが何であったかを考えるべきではないかと思ったのですね。 藤森──建築界には実験好きな人はずっといて、例えば明治期の伊藤為吉なんかはその代表で
住宅の廃墟に──建築家と住居をめぐる七つの物語 | 五十嵐太郎 On the Domicile's Ruins: Seven Tales of Architects and Domestic Spaces | Igarashi Taro 序─低い声 四本の柱が立ち、そこに屋根を架けた小屋は住宅の原型なのだろうか? [〈それ〉溝は作動している]あるいは、一本の柱が太古の平野に立てられた瞬間に構築が誕生したという、『二〇〇一年宇宙の旅』のモノリスを想起させる魅力的な思考。[いたるところで〈それ〉は作動している]これらはロージエの起源論、さらにはサマーソンによるアエデキュラなる家型が時代を超えて建築の原型になるという指摘にも通底する。[〈それ〉は呼吸し]だが、構築だけで建築のすべてを語れるのだろうか? そしてロゴス=構築の美しき一 致から作られる建築論は、物語るべき多くのことを切り捨ててしまった
26:ユニット派あるいは非作家性の若手建築家をめぐって | 五十嵐太郎 The Unit Group: On the Non-Authorship of Young Architects | Igarashi Taro メディアがユニット派を注目する 今年の後半、飯島洋一による「ユニット派批判」の論文が話題になった★一。ユニット派とは何か。アトリエ派の建築家が強いカリスマ的な指導者であるのに対し、ユニット派では複数の若手建築家がゆるやかな組織をつくる。しかも、一九六〇年代生まれがどうやら多い。こうした傾向が建築の雑誌で最初に注目されたのは、『SD』一九九八年四月号の特集「次世代のマルチアーキテクトたち」だろう。企画自体も若手の編集者がつくったものである。筆者も同世代ということで巻頭の論文を引き受け、これを契機に似たような主旨の企画があると、定点観測のように何度か現状をレポートする原稿を書い
抽象からテリトリーへ ジル・ドゥルーズと建築のフレーム | 石岡良治 From Abstraction to Territories: Gilles Deleuze and the Frame of Architecture | Yoshiharu Ishioka 1 ヴァーチュアル・ハウスと襞の形象 インターネット環境がパーソナルなレヴェルで普及していった一九九〇年代に、さまざまな分野で「ヴァーチュアル・リアリティ(VR)」をめぐる議論が交わされていたことは記憶に新しい。もちろん厳密に考えるならば、ウェブの普及と、諸感覚のシミュレーションをめざす狭義のVR技術が直接関係を持つわけではない。だがこの時期に、音楽や映像などの分野で長い間進行し続けていた「デジタル化」が一定の閾に達したこと、そして「ダウンサイジング」と呼ばれた動きによって、コンピュータをめぐる集合表象が中枢モデルから分散モデル
例えば「情報」や「場所」のように、あまりに一般的であたり前の概念は、幅広く、混乱しており、定義することが難しい。定義は往々にして同語反復に陥る。かといって、議論のために限定的な状況に概念を閉じ込めることは不可能であり不誠実である。そのような場合には、むしろ、その欠如、不在の状態を見定めることによって、逆にそのシルエットを明瞭に示すことができることがある。 カナダの地理学者エドワード・レルフが『場所の現象学』において提示する「没場所性(placelessness)」という概念は、まさに「場所」の姿をシルエットとして描きだそうとするものである。 レルフによれば、没場所性とは「どの場所も外見ばかりか雰囲気まで同じようになってしまい、場所のアイデンティティが、どれも同じようなあたりさわりのない経験しか与えなくなってしまうほどまでに弱められてしまうこと」である。没場所性は「個性的な場所の無造作な破壊
ミニマリズム・ラスヴェガス・光の彫刻──「建築的美術」と「美術的建築」の連続と断絶 | 暮沢剛巳 Minimalism/Las Vegas/Light Sculpture: The Continuation and the Rupture of "Architectural Art" and "Artistical Architecture" | Kuresawa Takemi 公的領域と私的領域、ポリスの領域と家族の領域、そして共通世界に係わる活動力と生命力の維持に係わる活動力──これらそれぞれ二つのものの間の決定的な区別は、古代の政治思想がすべて自明の公理としていた区別である。 ハンナ・アレント「公的領域と私的領域」 単なる建築の域にとどまらない超建築的、アート的な都市プロジェクトの可能性を多方面から探ること──私の早合点でなければ、今回の特集はおおよそこのような意図の下に企画さ
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