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ブックレビュー
gesubancho.hatenablog.com
これは今年の頭に書いたもので、最初は作者に送るつもりでいた。しかし、気が変わり、若干の手直しをして、直接自分のブログに載せる事にした。それらの本がないとわからない部分もあるが、私も本を図書館に返してしまったので、どうしようもないのである… 最近、菊地/大谷コンビの本を――今更ですが――いくつか読みました。『憂鬱と官能を教えた学校』と『アフロ・ディズニー』です。どちらもその絶妙な語り口を「流石だなあ」と思いましたし、特に、『憂鬱』に関しては、私はこの手のことが不得意なので(正直あまり関心がないというのもありますが)、とても勉強になりました。 けれど、間違っているところも多々あります。どちらの本も「倍音」がひとつの核となって議論を進めているのですが、肝心の倍音の構造がどういうものかかが明示されていないので、いまひとつ説得力がありません。というか、言いたい事を言うのに本当に「倍音」を持ち出す必要
最初にギターの倍音奏法について書こうと思った時、その内容は具体的なもの──つまりどうやってそれらの音をだすか──になる予定だった。ところが、書いているうちにそうはいかなくなってきた。色々と考えなければいけないトピックが次々と浮上してきたのである。それら「副産物」トピックのひとつが、ブルース・スケールである。このスケールについては様々な見解があり、いまだに正解らしきものは出ていない(ということでいいのでしょうか?)。そこで、私もひとつの仮説を公表することにした──「倍音から考えるブルース・スケール」である。 私の理論には、勘違いや、間違い、それに計算間違いも含めて、どこかおかしなところがあるはずなので、批判なり反対意見なりが聞ければ幸いである。ただし、「ブルースは理屈じゃない」みたいなイチャモンはちょっと困る。私もそれを承知の上で書いているので。 若尾裕さんがどこかで──それが思い出せないだ
天狗と狐 (杉本拓 宇波拓) 2010年12月03日 19:30開場 20:00開演 2000円+1drink loop-line http://www.loop-line.jp/ 南方熊楠は文通相手の返事が来るのを「まだかまだか」と待ちかまえていたらしい。私も石橋さんの返事が書かれるのを同じような心境で待っていた。それを読んでからまた何か書こうと思っていたが、しかしもう待ちくたびれた。それを待たずに私は書く。自分が前に書いたものを読みなおしてみて、まあだいたい言いたい事を言っているのは分かったから、もうやめようとも思ったが、それでもまだ言い残していることがいくつかあると感じたから、それはやはり書かないと自分で収まりがつかない。 何故「実験音楽」はだめなのか?「ロック」や「ジャズ」や「トラッド」だったら同じ様な拒否反応はでないはずである。またそれぞれはサブ・ジャンルを持っているが—「プログ
家ではインターネットに接続できなくなった。契約をやめたのである。やめた一番の理由はお金の問題だが、それだけでもない。何かしばらくそういうものと距離をとりたくなったのである。もちろんメールをチェックしないわけにはいかない。他で接続できるところはあるのだが、毎日は無理だろう(出きるだけがんばるが)。なので、急な用事がある方は電話をください。 しかし、ただインターネットに接続できなくなっただけで不便この上ない。けれども、しばらくはこの不便さを楽しむことにしよう。しかし、インターネットは利便性だけでなく娯楽を提供する装置でもあった。すでにテレビもオーディオを我が家から消えうせているが、ついに最後のオモチャもなくなってしまったわけである。 さて、本題に入る。先日、私は『朝まで生loop』という討論会に出た。これはユーストリーム(って未だになんだかよくわからないのだが)でも放送されたので、多くの人が観
“室内楽”も“さりとて”もとても楽しかったです。“さりとて”の本番前に萠さんと雑談していたら、入ってきた宇波君に「もう本番はじまってるんですか?」と言われてしまった。“室内楽カラオケ”における私の曲の山形君と萠さんの会話とたいして変わらないような会話をしていましたからね。最近はパフォーマンス・インフレーションが高まっているような気がして、それはそれで非常に面白いと思うのですが、この日の“さりとて”は普通に演奏しました。ファースト・セットは私の中ではプログレです。切れ目なしの全一曲(なんですが4曲入ってます)。セカンド・セットは萠さんのアイデアが中心でした。私の歌うところがいくつかあったんですが、人前で歌うのになれてないので、それだけではないのでしょうが、緊張して失敗した気がします。特にハーモニーはやはり難しい。 来ていただいたお客様と、こういう人気のない音楽に理解のあるループラインに感謝し
水曜日のハイツ 池ノ上のカフェ『現代ハイツ』は水曜日が定休日なのですが、その定休日を利用していつものカフェとは感じが異なる飲み屋『水曜日のハイツ』を決行することにしました。もともと店主の岩田氏には定休日を生かして別の飲み屋をやるというアイデアがあって、その話を聞いているととても面白そうなので、是非私もまぜてくれ、ということになり、いきなりの開店(8/19)になった次第です。さて、どんな店かというと、まずは以下のメニューを見てください。 ウイスキー 250円 バーボン 300円 赤ワイン 250円 白ワイン 250円 焼酎 200円 日本酒 300円 割り物(炭酸、ウーロン茶等) 100円 ソフト・ドリンク 200円 かなり思い切った値段です。一杯の量も少なくありません。しかし質に関しては、まぁこればかりは察してください(我々のコンセプトから「質」は真っ先に除外したので)。銘柄はとりあえず公
この前、立ち飲み屋でテレビを見てたら、津軽三味線の名人が出ていて、最近は曲がおぼえられない、またこういう伝承芸のようなものをどう後世に残すべきか、みたいなことを言っていた。そこで、どこかの大学の先生が出てきて、その名人の演奏を、楽器に取り付けた機械(ピック・アップだと思う)から発せられる音声信号をもとに楽譜(五線譜)にするということをやっていた。その時使用された楽器は一種のエレキ三味線で、装置もたいそう大げさなものだった。そこまでやらなくても、いい耳を持っている人がいれば楽譜くらいは書けるだろう、と誰でもが思うが、つっこむところはそこではない。一体、そうやって楽譜化されたものを後世の人間がそれをたよりに演奏できたところで、果たしてそれが津軽三味線なんだろうか?それではまるで、日本語が全く出来ない人がローマ字で読んだ日本語みたいなものではないか。こういうやり方というのは実はその文化をなくす方
3連続でお客さんの数が一桁だったので、これはまずいかもと思って、今年になってからの平均観客数を算出してみると、11.43人だった(最高は25人で最低は2人)。これはどういうレベルの数字なのか?間違っても多くはない。しかし、こんなもんでしょう、という気がしないでもない。とりあえず二桁にはなっているし(今のところ)。冷静になって考えてみると、もう何年もこんな感じだったように思う。もちろん希望としてはもう少し入ってほしい。せめてあと3〜4人くらい増えないだろうか、何か打つ手はないだろうかと悩む。もともと売れる音楽じゃないから、売るための努力はむなしいが、多少状況を変える努力はしなくちゃいけないだろう。でもどうすればいいのかな。私なりに色々やってきたつもりだし、これからもこりずにやるだろうけど、それでも集客的なことに関しては実りがほとんどない。地道に続けていけば報われる、なんていうことは私がやって
好きなんだよね、『がんばれベアーズ』。なんというか非常に乾いた演出で、こういう映画はありそうであまりない。少なくとも今後のアメリカ映画からはこの手の味は望めそうにない。ときたまむしょうに観たくなることがあって、今回も発作的にレンタル屋にかけこんでしまった。 やっぱり主人公のバターメイカー(ベアーズの監督)がいいなあ。アル中のプール清掃人。缶ビールにウイスキー流し込んで飲んでるわ、チームの子供らにプール清掃の仕事を手伝わせるしで、完全なろくでなし。子供の頃はこういううだつの上がらないオッサンに憧れたものです。オープン・カーの後ろにはプール清掃の道具が積んであって、エンゲルバーグに割られたフロント・ガラスはひび割れたまんま。なんてオシャレなんだろう。今観ても胸がときめく。私にとってアメリカの(白人的)ダンディズムの代表は、このバターメイカーとコロンボとJ・J・ケールになってしまう。 大人もダメ
『刑事コロンボ』をよく観ている。『水戸黄門』並みに多いお約束の数々。だけど、これが面白くて観てるようなもんなんだよね。中には筋書き的に、これちょっとおかしいんじゃないの、というのもあるが、要はコロンボの立ち振る舞いが楽しめればそれでいい。最初は定番の小池さんの吹き替えで観ていたのだが、ピーター・フォークの声も味がある。物真似研究中。 話は変わって、せっかくマンドリンを持っているのでブルーグラスでも練習してみようという気になって、色々聴いたり譜面を見たりしてほんの少しは弾けるようになったのだが、しかし、それが一体何なんだという気持ちが残ってしまう。結局ただの趣味じゃないの。さらに思うのは、もともとこういう音楽は(ブルーグラスに限らずブルースでもジャズでも)、それが生まれる共同体とか時代的な必然性があって発展してきたものであったのに、今はそういう背景はなくなってただの抜け殻になっている。果たし
ここ何日か、海外での自分の評判が気になって検索して色々見てたんですが、何というか恐ろしく不評ですね。こりゃCDも売れんし、ライブの誘いもないわけだ。もちろん気に入った人もいるでしょうが、そういう人はあまり書かなくて(多少はあった)、多くは憤慨している人が書いているから、かなりきついものがありました。知ってる人も結構いるんだよなぁ。それなりに落ち込みましたが、「勝手にやってください、こちらも勝手にやるんで」と思い直してあっという間に回復しました。 ところで、音楽批評というと大概は、CD聴いたり、ライブ観たりして、それへの批評ということになるんだけど、他にも対象となるものがあります。ひとつは楽譜。楽譜もメディアだから、それを演奏してみる、ということもあっていいでしょう。それについて何かを語ることができるはずです。ところがそういうのはあまりない。楽器が出来なくても、五線譜が理解できなくても、そん
言葉と旋律 「言葉と旋律」という講座をやります。 ある言葉からどのようなメロディーが導かれるのか? 歌詞に対して自由にメロディをつけることも、もちろん出来る。むしろ作り手の多くは、そうやって自由に歌――言葉をメロディーに乗せるもの――を自分は作っている、そして聴き手の多くも歌はそのように作られるものだ、と思っているのかもしれない。 人が日常で発する言葉には抑揚があり、声を大きくしたり、小さくしたりする他、音(ピッチ)の高低を伴うものもある。それらの音は自然発生的に生まれるもので、特に音高については、この音を高く、次の音を低くしよう、とはっきり意識して発音している人はまずいないだろう。音声言語としての言葉がイントネーションを決定していることが多いのである。 こうした「歌以前」と思われている声の表現の中には、私が「わらべうた」として考えているものも多い。和声進行もなく、使われる音高も少ないが(
佳村萠さんとの『さりとて』が今年の5月にスイスで演奏される。主催はヴァンデルヴァイザー・グループのJuerg Frey。それで譜面をずっと書いていた(その作業で自身の老眼の進行を知った)。一応歌とギターの譜面はあるが、ふたりでずっと演奏しているうちに少しづつ変化したし(CDも譜面と違う)、スイスでやるときの伴奏はチェンバロとチェロなので、思い切ってスイス用に新しいのを作った。 問題は歌詞で、日本語で歌ってもらうのはどうかと思ったので、英語ヴァージョンを作ってみた。日本語だとだいたい一文字一音ですが、英語だとそうはいかないので、うまくいかない時は少し言葉を変えたりして、なんとかでっちあげた。作詞家(萠さん)にもチェックしてもらいましたが、どうかなぁ。 いきたいがスイスまでいく旅費はなし。 最近は、曲を送ってほしいとか、作曲してほしいとかの話がよく来て、もちろん喜んで引き受けるが、経済的な観点
今日『松屋』で牛丼食べてたら、いつも以上に店内でかかっているBGMにいらだちを感じた。自分の中の何かがキレ始めているのかもしれない。こんなアホみたいな音楽を一体誰が聞いているのか?もちろん誰も聞いていない。もし流れている音楽がもう少しマシなものだったらどうだろうか?何でもいいが、例えばバカラックだったとしよう。私は個人的にはバカラックは好きだが、それでもイヤな感じはするだろう。食事をする時に音楽は要らない。 家の近所に手打ちの旨いソバ屋があるのだが、ここで小さな音量で流れているジャズにも私は我慢がならない。よくある似非高級店の手口である。「うちは他とはちょっと違うのよ」という傲慢さが見え隠れしてしまうのである。勘違いしているんだよな〜。まあ味は良いし、食ったらさっさと帰れば問題は何もないが、長時間は居れない。テレビやラジオでも流しているほうがはるかに良心的である。 では、酒を飲んでいる時は
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