サクサク読めて、アプリ限定の機能も多数!
トップへ戻る
大谷翔平
goisan.hatenablog.com
昨日6月24日は父の命日。もう38年たつ。1977年のその日の朝、階段下から父の声がする。「早く起きろよ。遅刻するぞ。」と。そして父は会社に出かけていった。自分もその声に起こされ、支度をして職場に出かける。就職してまだ2ヶ月。スーツも真新しい。職場について9時を少し過ぎた頃に電話が入る。父が会社で倒れて救急車で運ばれたという。そして3日後、意識を回復しないままに息を引きとった。帰りの車の中で涙が溢れてきた。何故だろう。その時の気持ちは今でもよく分からない。 それから1ヶ月あまり、毎晩のように夢を見た。生きている時にはあまり見せたことがないような笑顔の父がいた。ふっと家に帰ってくる、いつもそんな夢だ。「お帰り」と言ったところで目が覚めたりする。あれほどに嫌っていたのに、そこには父と話したがっている自分がいた。でも夢の中でも結局は話をすることはできなかった。何を話していいのか分からなかったのだ
日曜日の夜に親友の健さんからメールが入った。「27日の夕方、空いてる?」この日は毎年恒例のアメ横での買い物に出かける日だったので「6時ぐらいなら大丈夫。」と返した。そうしたら今度は「有楽町で4時頃はどう?」とメールが来た。時間的には間に合いそうなので「何とかなるかも。」と返信したところで詳細が送られてきた。この日は奥さんと二人で加藤登紀子の「ほろ酔いコンサート」に行く予定だったのだが、奥さんの都合が急に悪くなったのだという。そこでその代役としてごいさんを選んでくれたというわけだった。 予想した通り、会場はおじいちゃん、おばあちゃんで溢れている。全体的には我々よりもいくぶん年上の人たちのように見える。「赤い風船」「ひとり寝の子守唄」「知床旅情」「百万本のバラ」と彼女の曲をずいぶんと口ずさんだものだが、おときさんのファンはいわゆる団塊の世代ぐらいの人たちが多いのかな。 4時15分に入場するとロ
昨日、小学校のクラス会に行ってきた。否、幹事という立場だと行ってきたという表現はちょっと違うのかな。参加者は先生を含めて12人と少しばかり寂しい人数だ。みんなまだ現役で働いていたり、ご両親の介護をしていたり、もちろん遠くへ離れてしまった人などさまざまだ。まあ、小学校のクラス会を開けるだけでも良しとすべきなのだと思うけど。 その先生も88歳になる。昨年にご主人を亡くしてからは外に出かけることはほとんどないと言う。こういう教え子に囲まれることは嬉しいことなのか、だいぶ前から楽しみにしていたようだ。4年前の前回の時に比べてだいぶ年を取った感じはしたけれどまだまだ元気なご様子。記憶力もしっかりしていて、このクラスに半年しかいなかったごいさんのこともよく覚えていてくれる。今日の写真ができたらゆっくり訪ねて行ってみようかな。 先生をタクシーに乗せて送り出してから、みんなで駅前のカラオケ店に向かう。昼間
京都に住む友だちと会う約束がキャンセルになったところで、前から気になっていた京都の紅葉狩りを遅ればせながらだけどしてみようと思い立った。ならばどの辺だろうとネットで調べてみると、嵐山、北野天満宮、東山地区などなどいくつかの候補があがった。そして思いついたのが哲学の道。そう言えば法然院や永観堂もあるはず。南禅寺から祇園、丸山公園を抜けて帰ってくれば十分に楽しめそう。(実際には南禅寺まで行ったところで時間が無くなってしまった) 哲学の道を初めて歩いたのはもう40年以上も前になる。百万遍に下宿していた友のところに毎夏一週間ほど泊まり込んでは京の街を歩き回っていた頃だ。その時はいかにも自分が西田幾太郎にでもなったようないっぱしの哲学者を気取って歩いたものだ。その頃は哲学という言葉を口にするだけで自分があたかも高尚な人物になったような気になっていた。デカンショ節とはよく言ったものだけど、分からないま
昨日から神奈川県の公立高校の入試が始まった。昨日が学力試験で、今日と明日は面接試験が行われる。この入試の業務はこの日の学力試験から始まり、今日明日の面接試験、それに来週の月、火の採点作業と丸々一週間かけて行われる。少しのミスも許されないから、採点も点検も何度も繰り返す。今年から一部にマークシートが導入されたが、全体としてあまり楽になったという感じではなさそうだ。受験生のことを考えればしっかりやることは当然なのだが、集中力の維持と緊張の連続でこの作業が終わる頃には精神的にも体力的にもくたくたになってしまう。今年も無事に終わることを祈りたい。 そしていつもながらに、自分の高校受験の頃が思い出される。50年ほど前のその日の朝は、前日に雪が降って校門から校舎へと続く坂道が凍っていた。友だちとふざけながら歩いていたごいさん、突然足を滑らせて思いっきりお尻を強打。カバンの中のものもみんな勢いよく飛び出
昨日のお話。10時半の出勤なので電車もだいぶ空いてくる時間なのだがそれでも座席は一杯で立っている人が何人かいる、車内はそんな状態だ。ごいさんは運良く7人掛けのシートの中ほどに座ることができた。 次の停車駅でおばあさんが杖をつきながら電車に乗り込んできた。その後ろから重そうな荷物を持ったおじいさんが続いて入ってくる。瞬間的にごいさんの斜め向かいに座っているサラリーマン風の中年くらいの男の人が立ち上がっておばあさんに席を譲る。座ったおばあさんは後から来たおじいさんから重そうな荷物を受け取ろうとする。 おばあさんの隣には学生らしき若者が寝ていたのだが、少し間があって、その若者が立ち上がっておじいさんに席を譲ったのだ。おばあさんが席を譲られた時からごいさんはその若者の存在が気になっていた。その若者は思った通りで寝ていなかったのだ。彼の頭の中ではきっといろんな思いがよぎっていたに違いない。そしてこの
自分がニューヨークに行く前日の朝、母は頭に強い痛みを感じてしばらく横たわっていたという。夕方になっても一向に痛みが引かないので妹に連絡して、妹の家に泊まることになった。一晩休んだら、多少痛みが和らいだようで自宅に戻ったという。妹からのメールでそれを知ったのは、ニューヨークにちょうど着いた時だった。母はもう大丈夫だから楽しんできていいよとも添えてあった。 ところが実際はその後も痛みは続いていて、病院に行ってCTを撮ってもらったりしたのだが何の異常も見つからなかったという。処方された痛み止めを飲むが、痛みは治まらない。ニューヨークから帰った自分に、母がもう一軒だけ病院に連れて行ってくれと頼む。すでにCTでも異常がなかったんだから気のせいだと本気にせずにあしらう自分。それでも母の勢いに負けて、脳外科の病院に連れて行った。 専門のドクターは母の顔色やCTの話などから特に問題はないようだと語ったが、
「ごいさんのブログには奥さんが登場しませんね」というご意見があったので、今日はその奥さんのことを少しだけ書こうと思う。職場で「どういう馴れ初めだったのか」とよく聞かれるのだが、実際話すほどの出会いでもないので未だに謎のままになっている。ということでこの記事もその辺りは割愛させていただこうと思う。 まずは奥さんの経歴から。彼女は北海道の出身で、高校を出ると札幌にある看護学校に進学する。お姉さんも看護師だ。都会に憧れ、就職先は神奈川県を選んだ。上の子ができたのを機に教員免許を取得して看護学校の教員として働くようになる。50歳近くになって病院の現場へ復帰。教員時代もそうだったが仕事熱心で帰ってくるのは夜の10時過ぎ。60歳で定年を迎え、今は再雇用で都内の病院の研究施設で助手として働いている。 とにかく働くのが好きで、一度家を出たらいつ帰って来るか分からない。子どものご飯を作るのはたいがいごいさん
昨日、一昨日と久しぶりに下の子と話しをした。話題は、iPhoneとiPadのこと。お互いちょうど買い替えようとしている所で話題が一致したのだ。もちろん子供の方が詳しいからごいさんはもっぱら聞き役だ。一昨日は夜中の2時近くまで、そして昨日は夜中まで。ここ何年もまともに喋ったことがないのを一気に吐き出すような感じだった。小さい頃からあまり喋る子ではなかったからこんなに話すのにちょっと驚いた。 ごいさんは小さい頃から酒を呑んでは暴れる父親が大嫌いだった。だからろくに口をきくこともなかった。そんな父親のようになりたくないと思っていた。子供に口をきいてもらえない父親なんて寂しすぎる。ではどんな父親がいいのかと聞かれると、実はそれもよく分らなかった。ともかくも子供の意思が大事だ。子供に嫌われたくない。自分が父親になった時にまず頭に浮かんだことだった。 でも実際の子育ては親のエゴだらけだった。勉強はでき
さて先日はマラソンで日立に出かけてきたのだが、ここはごいさんが小学校6年の夏まで住んでいた所だ。正確に言えばお隣の常陸多賀という駅から歩いて5分ほどの所に家があった。今は駐車場になっている。周りは新しい家ばかりだが、その中に見覚えのある家が廃屋のような状態で取り残されている。小さい頃、ここのおばさんにはよく可愛がってもらったのを思い出す。 全体的に街の様子は代わり映えしない。というより昔よりも人通りが減っていて寂しくなっている感じだ。日立という名前の通りこの街は日立の工場でもっている。日立の浮き沈みがそのまま反映されるのだろう。そういう意味ではここにいた小さい頃の方が街は人で溢れていたような気がする。日立の工場で働くことはごいさんにとっても憧れだったのだ。 街を歩いているのはお爺ちゃんやお婆ちゃんが多い。何人もとすれ違って、もしかしたら同級生かしらなんてことも考えたりした。途中で転校したた
前回の記事に書いたように、この日はカメキチさんご夫妻と1時に大阪駅の「時空(とき)の広場」で会うことになっている。沿道で応援したいと言ってくれたのだが、たくさんの人出もあり大変だろうということで、前日に会うことをお願いした。新大阪が近づくとさすがに緊張感が高まってくる。大阪駅の改札を出てインフォーメーションで場所を確認したらすぐ真上の所だった。エスカレターで上がっていくと金色の時計が見えてきた。カメラをパシャッパシャッとやって目を前方に向けた時、ごいさんの視界に二人の姿が飛び込んできた。それが正しくカメキチさんご夫妻だった。 奥さまに案内してもらって駅構内のカフェに腰を落ち着かせる。改めて自己紹介というところだが、もうそれも必要がなくなってしまった。最初にお二人の目を見た瞬間にあれほどあった緊張感がどこかに行ってしまったのだ。カメキチさんは風邪の治りかけということで、ごいさんに気を遣ってマ
4月9日は下の子の誕生日だった。31歳になった。もう十分大人じゃん。今さら誕生日でもないだろうにって思う。確かに、そう。だからこれといってお祝いするわけじゃない。子供にもお祝いの言葉を言ったりするのでもない。ごいさん一人が勝手に思い込んで盛り上がっているだけなんだ。 小学校4年生の時の暮れからお正月にかけて発症した病気は彼の人生を大きく変えたに違いない。ミニバスをやっていて思い描いていた未来への夢は消え、さらには丸々一年に及ぶ苦しい闘病生活を送った。子供が歩くこともできなくなるかもしれないとドクターから言われたその日のごいさんは、寝ることもできないくらいにいろんなことを考えた。今でも自分がもう少し早く気づいていれば軽症で済んだのにと思っている。 腰の周りをギブスで固定して半年余り寝たきり状態だった。それがどんなに苦しいことか。家に帰ってソファでじっと動かず仰向けになって横たわってみたけど数
2月に入ってバタバタッと早くも一週間が過ぎた。そうこうしているうちにこのブログも4年目に入った。最初の記事を書いたのは3年前の2月1日。本当は1月から始めようと考えていたのだが、なかなかその決心がつかなかった。何事にも飽き性のごいさんだから、どうせこれもまた中途で投げ出すだろうと思うとどうしても踏み出せなかったのだ。 それでも始められたのは呑み友であり親友のI坂さんの書いているブログの影響かな。彼は自分の生きた証しを書き残したいのだと言う。生きていたその日々の思いを肩肘張らずに淡々とそこに書き留める。いつか家族の誰かが読んでくれたらそれでいい。そんなことを聞いたら、ごいさんも自分の気持ちを素直に書いてみようなんていう気になったのだ。そうすれば本当の自分を見つめることができるかもしれない。そうやってようやく2月1日にごいさんのブログはスタートした。 最初の半年ぐらいは一日に10ほどのアクセス
大阪マラソン、岡山マラソン、つくばマラソンと、このところマラソンのことばかり書いているので、ごいさんはよほど走るのが好きなんだと思われているに違いない。実際それにはまっていることは確かなのだが、でも走ることがそれほど好きというのでもない。今、週に3日走っているけれどそれだって今日は休んじゃおうかとかいつも考えている。だったら止めればいいのにという声もすぐに聞こえてきそうだけど、ブログにもあるいは友だちとの会話でもそれなりのことを書いたり言ったりしているとそうそうあっさりとは止められない。 もともとはサッカーをやっていたから走るのは苦手ではない。ただ球技のようなスポーツをやっている人で本当にマラソンが好きだという人はあまりいないんじゃないかな。サッカーの場合、最終的にはゴールを決めるという目標があって、それまでの動きはさまざまに変化する。それに比べて、マラソンのあの黙々と何時間も走り続けるこ
今日は大晦日。まもなく新しい年を迎えようとしているところで、ではこの一年間どれくらいのことができたか、ちょっと考えてみる。点数をつけたら60点に達するか達しないかぐらい。自分としてはもう一歩といった感が強い。ブログの記事は書こうと思った半分ほどしか書けなかった。マラソンの方も怪我や故障に悩まされて、練習も中途半端、当然大会の結果も納得できるものではなかった。 英会話の学習は本格的に始めて来年の4月で2年目を終える。学校のスパンで考えれば3年ぐらいが目安だから来年は最後の一年になる。少しは力はついてきていると思うのだけれど、実際の経験がないから不安ばかりが先行する。まだまだ先の見通しが暗い感じだ。 とまあこんなことで一年間の振り返りを書き始めると、不満だらけ、愚痴だらけになりそうだから、ここで止めることにする。 で、今年最後に書いておきたいこと。それは子供から贈られた誕生日プレゼントのことだ
一昨日の日曜日に、上の子の2番目の子の七五三のお祝いに出かけてきた。上の子には小学校2年生の長男と5歳の次男、それに2歳の女の子がいるのだが、今回はその次男くんの七五三である。今通っている幼稚園の園長さんが神主さんということで、その神社でお祓いを受け、祝詞をあげてもらうのだ。 長男くんもこの園の出身なので2年前にやはり園長先生にお祓いをしてもらった。初めに園長先生が次男くんと1対1で会話する。15分くらいかしら。さすがに園長先生、子供から言葉を引き出すのが上手い。最初のうちはもぞもぞ答えていた次男くんも少しずつ声が大きくなりしっかり答えていた。それから祝詞をあげてもらいお願いをする。最後に神主さんも一緒に記念撮影をして無事終了。 そしてみんな揃ってのお食事会となる。今日は上の子の家族5人とお嫁さんのご両親、それにごいさん夫婦と合わせて9人と賑やかだ。我々の食事は言わずもがなだが、子供たちの
6年前の今日14時46分に東日本大震災が発生した。その時は4階の職員室にいたのだが、窓のすぐ外にある電信柱が今にも倒れそうなぐらいに左右に大きく揺れた。一度収まったもののまたしても大きな揺れ。初めて机の下に身を隠すほどの恐怖を感じた。3月の午後なので学校にいる生徒は少なかったが、その後電車が止まりその多くは帰宅困難者となった。当時は防災の担当をしていたから、倉庫から乾パンや水、それと毛布などを大慌てで用意したのを思い出す。幸い、その日のうちに保護者の方が迎えに来てくれて生徒は全員帰路に就くことができた。 自分もやっとのことで自宅にたどり着いたのだが、そこでテレビに映し出される津波の映像に驚愕した。それまで地震が起こるたびに何度も耳にしていたのに特に関心も持たなかった津波という言葉。それが今、家を流し車や船を運びそしてたくさんの人をのみ込んでいる。とてもまともに見ていられる状況ではなかった。
生徒を叱るというのはとても難しいことです。叱った後の何とも言えない後味の悪さ。それはその日だけではなくその後何日も続く時もある。そんな思いをするくらいなら無理してまで叱らない方がいいに決まっている。そういう思いまでして叱ってくれる先生はたいてい素晴らしい先生なのだ。ただ、生徒の中には先生が叱っている様子を冷静に見ている子がいる。怒りに任せて下手な叱り方をすると逆効果になってしまうことも多い。 ごいさんが初めて生徒を叱ることができたと思ったのは先生になって3年目の12月だった。今でもその時の記憶が鮮明に残っている。その日は朝まで寝られなかった。翌日には顔を合わすが口はきかない。そういう日が過ぎていく中でその子たちの態度が日々改まっていく。その後はもう叱ることはなかった。 ちょうどその年の秋に、金八先生のドラマが始まった。それまでの学園ドラマと言えば、ラグビーやサッカーの部活動を通して友情や連
たまに聞く雨の音もいいな。昨日の夕方から雨がしとしとと降り出した。若い頃は雨の中を歩き回るのが好きだった。高校生の時は土砂降りの雨の中の練習なんていうのも大好きだった。みんな泥んこの顔でお互いに見合って笑い合った。雨の音を聞きながら、雨が縦に流れていくのを見ながら、喫茶店でコーヒーを飲むのも好きだった。あの感覚って何だったのだろう。 雨にまつわる曲って聞いているだけで気持ちが落ち着いてくる。こういう気持ちになる時って、少しばかり疲れているのかもしれない。でもこういう時でもないとずっと人間やってられないようにも思うね。ごいさんにとって、今日の雨はそんなタイムリーな雨だ。 朝、みんなが出かけて静かになって、雨が落ちているベランダを何気に見やったら、遠い思い出がよみがえってきた。いつも言っているのだけど、ごいさんはどの時代も懸命に生きてきたと自負している。だからもう一度あの頃に戻りたいと思うこと
4日の日曜日に秦野水無瀬川マラソンに参加してきた。この日は湘南国際マラソンに注目が集まっているが、こちらも根強い人気を誇っている大会だ。参加者は2,000人ほどの小規模な大会なのだが、半分以上が上り坂という難コースで、参加しているのは上り坂大好きという強者たちがほとんど。最初の5キロに制限時間30分という関門がありそれもその半分が上り坂という、初心者さんにとってはかなり厳しいものとなっている。やっとの思いで通過してもそこから先は延々と上り中心のコースが続く。 苦労して上ったのを下ってはまた上る。峠を越える時に見える美しい富士山が多少その苦しさを和らげてくれるよう。そして3回目に1キロほどの急坂を上りきって「風の吊り橋」を渡るとそこからは一気の下り坂となる。この爽快感がなんともたまらない。みんなそれまでの辛さを忘れるかのように軽快に下って行く。そのままゴールインかと思いきや最後の1キロが緩い
昨日の記事に関連して、2年前の退任式での話を同僚が撮ってくれたビデオから起こしてみた。緊張からうまく言葉が出てこなかったりして、今こうして読んでみるとずいぶんとひどいもんだと思う。それでも教員人生の締めくくりの挨拶なので、記録としてブログに残すことにした。大変長いので、適当にとばして読んでいただければ十分です。 以下全文。 えー、お早うございます。今日は初めて教えた時の教え子がお孫さんを連れて来てくれて、また09年度生もたくさんいてそして08年度生や今年卒業した子もいて、今、心臓の鼓動が非常に早くなり大変緊張していて、上手く話せないかなあと思うのですが、今日は少しだけ話す時間をください。 えー、唐突なんですけども、僕の高校の夢は宇宙飛行士になることでした。えー、高校生の時にアポロ11が月に着陸してアームストロング船長が月面を歩く、そのライブの映像をテレビで見ていて10年後20年後は宇宙に行
今年の夏は本当に暑い。働いていないごいさんは昼間はたいてい家に居るのだが、たまに外に行くとお湯の中を歩いているそんな感じだ。水道の水もぬるま湯状態でもはや水とは呼べない。そんな中、一昨年あたりから不調になっていた扇風機がとうとうまったく動かなくなってしまった。部屋にはエアコンがあるから十分なのだが、あのひんやりとした空気のどんより淀んだ感じがどうにも好きになれない。体全体が冷えてしまうのだ。 早速に新しいのを購入しようと近くの家電量販店に行ってみたら、入ってすぐのところでいきなり赤い大きな文字で「セール」と書かれた1,980円の扇風機が目に飛び込んできた。これは安い。周りを見まわしたら5,000円前後は当たり前。これにしようと気持ちは決まったのだが、ここですぐに買わないのがごいさんの性格。一時の勢いではなく、家に帰って気持ちの落ち着いたところで決めたいのだ。 と言ったって、もうそれにするこ
うちの奥さんの経歴は前にも書いたが、看護師として何年か働いた後に看護学校の教員として長く働いていた。50歳近くになって現場に復帰。師長として脳外科病棟に勤務した後に遺伝子研究のお手伝いをするようになった。定年退職をした今も東京の病院に移ってそのお手伝いを続けている。 とにかく働くのが大好きだ。教員時代は帰ってくるのはいつも夜の10時を過ぎていた。現場に戻ってからも同じようなもの。今も朝の6時に出勤し夜の8時を過ぎて帰って来る。そういうことで彼女が家で料理を作ることはほとんどない。子供の夕食やお弁当作りはごいさんの仕事になった。もともと料理をするのは好きではないのだと思う。 そこでよく高島屋で惣菜を買ってくる。それに勝烈庵のトンカツ。ごいさんがそこらのスーパーで買ってきたコロッケやごいさん手作りのトンカツには見向きもしない。高い豚肉じゃなくたって揚げたてが一番美味しいのにと思うのだが。 家で
ごめんなさい。今日は長文になります。適当にお読みください。 一昨日の日曜日にかすみがうらマラソンを走ってきた。いつものようにS田さんとY村さんが一緒だ。これで5回目となる。沿道の人の応援風景だったりたくさんの私設エイドがあったりとフルマラソンの楽しさを初めて教えてもらった大会である。とても素敵な大会なのだが、いつも30キロあたりから失速してしまい最後はヘロヘロになってフィニッシュするという、レースそのものは苦しいイメージしかない。 横浜6時51分発の上野東京ラインに乗って上野で常磐線に乗り換え土浦に8時37分に到着。はてブロランナーさんの集合が9時30分にあるというのでさっさと着替え、仲間の2人に事情を告げてその場所に急ぐ。すでにMacRunさんとfuruhon-yaさんがいて後からICHIZOさん、しろくまさんがやってきた。furuhon-yaさん以外は初めてだが、皆さん揃って速そうな出
ごいさんというと、いつも元気に動き回っているイメージかしら。確かにその通りなんだけど、ここのところ少しばかり調子を落としている。毎年のことだけど、この1月中旬辺りになると新年の疲れがどっと出てくるのだ。ちょっとした鬱みたいな気分かな。そういう時に限って、天気も一段と寒くなったりしてその思いを一層強くする。今朝もベランダに洗濯物を干していると白いものがちらほらと落ちてきた。すぐに止んでしまったけどね。20分ほどベランダにいただけなのに手がカチカチになってしまった。部屋ではガスファンヒーターの燃えている音だけがゴーッと響いている。うちでは、朝はいつも速効性のあるファンヒーターを利用している。 毎年のことだが、新年早々に今年の計画を立ててはあれもやろうこれもやろうなんて張り切り過ぎてしまう。少しオーバーペース気味と分かってはいるんだけど。このせっかちな性格は生まれつきだからしょうがないと思ってい
1月1日、元旦の朝。かなたの地平線は灰色のどんよりした雲で覆われていたが、やがてそれを押しのけるようにして煌々と輝く太陽が力強く昇ってきた。初日の出の登場。そして新しい年が始まった。みんな今年も元気に過ごせますように! 昨年から元旦は、ランニングの練習を兼ねて父の墓参りに行くことにしている。若干回り道をして往復33キロ。風もなく適度に暖かく、走るにはちょうど良い天気だ。いつものように帰り道は調子が出てついついスピードアップ。さて今年のランはどんな感じでいこうかな。去年の大阪マラソン、つくばマラソンで大きな目標だったサブ3.5を達成して、次なる目標をと考えても適当なのがなかなか思い浮かばない。若い人のように次はサブ3なんてことにはならないし。 ということで、今年もこのマラソンが生活の中心になりそうだ。走る以上は少しでも自己記録を伸ばしたい。そのために今年は筋力トレーニングなんかもやってみよう
長崎出身の友人が盛んに五島に行くことを勧めるのと、長崎に住むブログ友のいちご一笑さんにお会いするのを目的に、先月25日の日曜日に五島つばきマラソンを走ってきた。 前日は福江港の近くに宿をとる。天気も良く当日が楽しみだったのだが、朝起きてみると雨が降っていてあいにくの天気。スタート直前にはだいぶ雨足も強くなってきた。大会の種目はフルとハーフ、それにフルのリレーとあって総勢で700人ほどの参加者だという。フルは300人といったところだ。当然スタートロスもなく、混戦もない。スタートの号砲が鳴るとみんな一斉に勢いよく飛び出していく。自分は早い方じゃないかと思っていたけどいきなり置いてけぼりをくった感じだ。 その後もどんどん抜かされて後方に追いやられていく。最初の1キロは5分16秒だからそれほど遅いわけではない。ようやく5キロを過ぎた辺りでエンジンがかかり始め、少しずつ前を捉えられるようになる。そう
今日は5月3日。憲法記念日だ。これって高校生でも知らない子が多い。ちなみに1日はメーデーだったのだが、これも今の若い人たちは知らないだろうな。もっとも、ごいさんだって初めてメーデーに参加するまでは関心も無かった。職場で動員がかかりたまたま参加したメーデーのデモ行進で教職員組合の旗持ちをさせられた。風の強い日で持って歩くのが大変だったのを覚えている。その時に初めて自分も労働者なのだという意識を持ったように思う。40年も前の思い出だ。組合もまだまだ強かった時だった。 ところで4月からごいさんはとうとう念願だった無職の生活に入った。本来は60歳で定年を迎えた時にもう働くまいと決めていたのだが、やれ税金対策だとかボケるとかいろんな声がかかりそれから4年、何だかんだと働いてきた。今回も仕事の口はあったのだけど、母親はもちろんだが何より自分自身が元気なうちにやりたいことをやっておこうと決めたのだ。好き
一昨日の土曜日にテニス仲間のI山さんとT次さんに誘われて初めて競馬なるものを体験してきた。競馬というとどうにもいい印象がない。新聞を片手に赤ペンを耳に挟んでタバコを吹かし、はずれ馬券を紙吹雪のごとくまき散らす。糸目もつけずに金をつぎ込んで挙句の果てにはしんしょうを潰す、まさに悪の権化のようなイメージしかなかった。そんなわけで、以前からラン仲間のS田さんからも誘われていたのだがどうにも気乗りがしないでいた。ここにきて友人である彼らがそれほどに言うならと少しばかり前向きに考えてOKの返事をしたのだが、それでも実際に行くまでは気が重かった。 場所は府中にある東京競馬場。みんなとは南武線の府中本町駅で9時に待ち合わせている。電車から降りるとたくさんの人が食料やら競馬新聞を買い求めてごった返している。これを持っていれば一丁前に見られるだろうかということでごいさんも新聞を購入。駅から歩くこと5分。20
次のページ
このページを最初にブックマークしてみませんか?
『goisan's diary』の新着エントリーを見る
j次のブックマーク
k前のブックマーク
lあとで読む
eコメント一覧を開く
oページを開く