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円安とは
inuki-seia.hatenablog.com
「大学入試センター試験にいい思い出がない」とか「興味がない」という人もけっこういるかもしれない。 自分もそうであったが、そんな方々にも、国語の本文(テキスト)を名文のアンソロジーとして読んでみることをおススメしたい。 評論(大問一)は新鮮な思想を知ることができるし、小説(大問二)は今年、収穫のひとつだった。 「岡本かの子って、こんな生きのいい小説を書いていたのか。 戦争中の1938年に、こんな自由な感覚の小説が書かれていたんだ」と目を開かされる思いがして、昭和文学史を実地で知ることができた。 国語のテストにはいろいろと批判がある。 ただ、入試とくにセンター試験は、優秀な人も評価しなければならないから、18歳、17歳の多くの若者にとって難しく感じられる文章や、短時間かつプレッシャーの下では正解に辿りつきにくい問題も出される。 小説だったら、“大人の味わいの小説”。 心情を述べる主人公が年上な
作家武田泰淳さんについての雑誌の追悼特集で、日記を公表した武田百合子さん。 ご家族の回想という枠でもあったのだろう。 では、『富士日記』『犬が星見た ロシア旅行』――つまり、泰淳さんとともに生きていたころの日記は、なぜ書かれたのか? 百合子さん…
http://www.geocities.co.jp/Bookend-Yasunari/1951/Yuriko_Takeda/chronicle.html の転載です。今後はそちらで加筆修正していきます。 武田百合子さんの人生(年譜) 1951年/61年/71年/81年/85年/91年 私の未入手作品 1925(大正十四) 9月25日 神奈川県横浜市神奈川区栗田谷で誕生。 異母兄姉と、同母のお兄さんがいた。以後弟さんが二人誕生。 1932(昭和七) 7月13日 お母さん逝去。 以後、母方の大叔母が「母代わりとして一家に入る」* 幼少期を描いた作品に登場する「病死した母の代りに私たちを育ててくれる、この遠縁のおばあさん」(『ことばの食卓』の「牛乳」)だろう。 1938(昭和十三) 4月 神奈川県立横浜第二高等女学校入学。 同人誌『かひがら』のメンバーになる。 1942(昭和十七) 文章「父
画家の日記2 ポントルモ 『ルネサンスの画家ポントルモの日記』中嶋浩郎訳・宮下孝晴解説 白水社、1991年 前、デューラーの日記について書いたが、画家・ルネサンス・羅列・日記、というつながりで、ヤコポ・ダ・ポントルモの日記(Diario)を思い浮かべずにはいられない。 ポントルモはマニエリスムを代表する画家である。私の印象では、優美だけど、幽霊のような不安げで生気のない聖母子の絵などを描いた。 【粗食すぎるメニュー】 そんな彼が日記に書いたのは、食べ物のことばかりである。 「1月31日 卵。 2月1日 卵。」 「夕食にブタの舌を食べた。」 「金曜日、パンを14オンス。」 「夕食をとらなかった。」 「土曜日の晩から断食。日曜日の晩に肉のローストを少し食べるまで。」 ・・・・・・。 ポントルモが生涯を過ごしたのは、イタリア。美味しいイタリア。地産地消、山野と海川の幸を豊かに味わうスローライフの
インターネットで評判を知り、興味が湧いて読んでみた。 夕食前のひとときに、夢中になってページをめくった。 「おもしろい!」 方丈記は、もともと好きな古典である。 関心をもっている家/住まいについて論じられているし、とても短いからだ。 四〇〇字詰原稿用紙に換算すると、二十数枚らしい。 実際、わたしの持っている文庫本は薄くて軽いし、そのうちの本文は三〇ページほどに過ぎない。 方丈記は“きわめて薄い本”なのである。 二〇代のころ、生き方とか将来に悩んで、「方丈記なら答えがありそうだ!」と思い、はじめから通して読んだことがある。 すると、多くの言葉が胸に刺さった。 しかし、「ゆく河の流れは‥‥」といういかにも流麗な和文らしい――橋本治は、原文が漢字カナ混じり文であるところから、「観察しながら書いた」「科学的な文章」だと言っている(『これで古典がよくわかる』より)――冒頭ではなく、若いわたしの心に刺
『作家の超然』(『妻の超然』所収)は忘れられない小説だ。 連作3編の掉尾にふさわしい作品であるだけでなく。 絲山秋子さんによる群馬県の小説では、木々の緑が光り輝いているラストの『ばかもの』、「FMぐんま」内部を覗くような期待感と主人公の快復がうれしい『ラジ&ピース』も好きだ。 でも、『ばかもの』『ラジ&ピース』はそれぞれで1冊の本になっているけれど、短編の『作家の超然』は、わたしの中では格別だ。 はじめは、次の一節に惹きつけられた。 おまえはこの土地の変化に富んだ気象が好きだった。砂埃を舞い上げる春の突風も、夏の強い雨と激しい雷も、秋の冷え込みも。一日という単位のなかでも静穏と暴風が同居し‥‥ 山を越えてきた雲はあっという間に通り過ぎ、広い平野を横切って海のある地方へと拡散していってしまう。 『ラジ&ピース』でも、群馬の雷の美しさは讃えられている。 けれども、『作家の超然』を読んだとき初め
書店の地元作家コーナーで名前を見た気もするが、何も知らないまま手に取った。 わたしが机に置いたその本に、ある人が手を伸ばした。 紅雲町にいたことがあるのだ。 そう、「紅雲町」は実在する。 女子高があり、東京へつながる駅、県庁に近い――群馬県前橋市の町だ。 1冊目『紅雲町ものがたり』(『萩を揺らす雨』)の冒頭の3、4行ですぐに、「高崎では?」「高崎のあそこだ!」「高崎市〇〇町だ!!」と思う人は、高崎出身者だけでないはず。 丘陵の上から大きな観音像が見下ろす街 ゴルフ場や自動車教習所を抱える広い河原 関東平野が終わる山々までゆったりと広がる空を眺める。 遠くの雪山は吹雪いているのか、今朝は見えない。 すべて最初のページの言葉である。 言及されているように、川の対岸が国道(それも2つの国道の合流地点)なので、この風景に見覚えのある人は、高崎市民だけでなく多いだろう。 また、現実の高崎市〇〇町あた
以前のものを書き直しました。 今後は↓で加筆修正していく予定です。 http://www.geocities.jp/utataneni/Yuriko_Takeda/etc6.htm 武田百合子さんあれこれ 今夏、群馬県立土屋文明記念文学館で『開館10周年記念〜北軽井沢より〜岸田衿子 野の花の道』という企画展が開かれた。ポスターの熊のかわいい絵、岸田さんの詩や田舎暮らしに憧れて訪れたのだが、そこで思いがけず、武田百合子さんについて考えさせられた。 ○富士桜高原と北軽井沢大学村○ 企画展のテーマの北軽井沢は、「大学村」のことである。大学村とは、昭和初期に当時の知識人たちが住みはじめた浅間山麓の別荘地で、関係する有名な人としてはよく、野上弥生子・豊一郎、谷川俊太郎、佐野洋子、大江健三郎、岸田今日子、武満徹か小澤征爾などが挙げられる。日本の近現代文化を代表する、そうそうたる顔ぶれともいえる。 しか
http://www.geocities.jp/utataneni/Yuriko_Takeda/etc4.htmlより。 今後は↑で加筆修正していく予定です。 武田百合子さんあれこれ 島尾ミホさん 『死の棘』で知られる作家、島尾敏雄さんの夫人。作品に『海辺の生と死』など。 写真家の島尾伸三さんは息子さん。漫画家のしまおまほさんはお孫さん。 ○『富士日記』と島尾ミホさん○ 『富士日記』の最後のほうには、ミホさんのことがけっこう出てくる。その言及は、一見さりげなく見えるが、実は重要な意味を持っていると思う。記述を抜粋してみる。 1976(昭和51)8月3日の末尾 夜、ミホさん〔島尾敏雄夫人〕に手紙を書きはじめ、しばらく書いて破る。高枝切りに熱中しすぎたためか、首と左の手のひら痛い。 8月4日の日記より テレビのお国自慢なんとかという番組で名瀬からの放送をやっていた。名瀬の少女が沖縄の歌を歌った
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