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パリ五輪
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関連リンク ブログ1・路上ネイチャー協会 ブログ4・反-反写真 ホームページ・itozaki(仮設Fc2版).com/ ブログ2(休止)・2コマ写真 電子メール・itozaki.kimioアッとgmail.com アフォーダンス理論を採用すると、ぼくが傾倒していた動物の「行動プログラム」という概念は無効になってしまうかもしれない。 結局のところ「行動プログラム」という概念は「本能」という古い概念の枠組みに留まっており、アフォーダンス理論だけがそれを乗り越えることができる。 行動の際に「行動プログラム」を使用するのは人間だけということになるかもしれない。 人間だけが、コンピューターのような「計算能力」を持つと言えるのかも知れない。 動物の行動は身体構造とアフォーダンスとの協調によって規定され、そこに「プログラム」の出る幕はない。 プログラムは言語的概念であり、アフォーダンスは非言語的概念なの
美大時代、いちばん才能があって、ぼくが嫉妬してた同級生が、アートからすっかり離れて真っ当な勤め人になってた。 恐らく、彼が学生時代に絵を描いてたのは一種の精神療法で、卒業後ビョーキが治ったのかも知れない。 あの頃美大の同級生はみんなビョーキで、ぼくも他人の才能に嫉妬とか…完全にビョーキだった(笑) 学生時代のぼくは、言ってみれば精神治療的なアートが好きだったのかも知れないのだが、その証拠にぼくが才能があると思ってた友人は、みんなアートと無関係な勤め人になってる。 芸術が一種の精神病だとしたら、自らのビョーキを養い続けることが、芸術家を続けることなのかもしれない。 そして、芸術をやりながらビョーキが治った芸術家は「才能が枯れた」と表現されるのだ。
関連リンク ブログ1・路上ネイチャー協会 ブログ4・反-反写真 ホームページ・itozaki(仮設Fc2版).com/ ブログ2(休止)・2コマ写真 電子メール・itozaki.kimioアッとgmail.com 『現代写真論 コンテンポラリーアートとしての写真のゆくえ』という本に紹介された写真家のリストに、それぞれリンクを張って掲載します。 リンク先は作家のHP、もしくはgoogleイメージ検索の結果です。 自分の勉強のために作成したものですが、みなさんにもご利用いただければと思います。 もっとも、電子書籍が一般化すれば、こんな苦労は入らなくなるのかも知れませんが・・・ __ 1章 これがアートであるならば 1.sarah jones 2.alec soth 3.william eggleston 4.5.stephen shore 6.bernd and hilla becher 7.
関連リンク ブログ1・路上ネイチャー協会 ブログ4・反-反写真 ホームページ・itozaki(仮設Fc2版).com/ ブログ2(休止)・2コマ写真 電子メール・itozaki.kimioアッとgmail.com (*「ツギラマ」は、「鑑賞主義」という新たな「神話」のための挿絵である) ■前提としての神話論 文化人類学者のレヴィ=ストロースは、いわゆる「未開部族」と言われていたさまざまな部族の「神話」を比較研究するうち、人間にとっては「すべては神話である」という結論を見出し、思想や哲学の世界に決定的な影響を与えた。 なぜなら、古い歴史を持つ「ヨーロッパ的知」が、未開部族の神話と「同じものだ」などと、それまで誰も考えなかったからである。 しかし、「ヨーロッパ的知」をマスターした人があらためて考えると、なるほどレヴィ=ストロースの言うことはもっともなのである。 なぜなら、人間は「五感」を使って
関連リンク ブログ1・路上ネイチャー協会 ブログ4・反-反写真 ホームページ・itozaki(仮設Fc2版).com/ ブログ2(休止)・2コマ写真 電子メール・itozaki.kimioアッとgmail.com 以前、美術家の大先輩である彦坂尚嘉さんから「糸崎さん以前にも、非人称芸術を提唱していた人達がいた」というお話を伺っていた。 それで改めてネットで検索すると、確かに「非人称」をコンセプトにした「グループ<位>」という前衛美術集団が存在することが判明した。 まずは以下のサイトのから写真と紹介文の一部を引用。 http://www.artm.pref.hyogo.jp/2002-2008old/exhibition/j_0411/right.html >■グループ〈位〉とは? >「グループ〈位〉」は、1965(昭和40)年、神戸在住の若い美術家9名(井上治幸、奥田善巳、河口龍夫、武内博
デュシャンは「芸術的価値」に疑問を表明したかったのでしょうかね?。 「美」には固定的な要素と変動し続ける要素があるように思えます、固定的な要素と は遺伝子的に用意された「快」につながるものであり、変動し続けるのは情報を求め 続ける「知」の欲求かな?・・・と 改めて考えてみると、柳宗悦の民芸運動は輸入品だった芸術が「美」そのものを価値 とすることへの反発だったのかなあ?・・・と、だとすればスゴイ人かもしれない。 >デュシャンは「芸術的価値」に疑問を表明したかったのでしょうかね?。 デュシャンは物事をハッキリ明示したわけではなく、だからさまざまな解釈の可能性があるのだと思います。 理論的ではないが、解釈の幅を持つ豊かな言葉、ということでしょうか? だからデュシャンについては「正しい解釈」というのはナンセンスで、「面白い解釈」とか「役に立つ解釈」を目指すのが妥当なんじゃないかと思います。 ぼくの
ココログさんには以前あったサービス「ココログセレブ」にも登録していただいて、たびたび記事を取りあげてもらったりと、お世話になりました。 またココログは無料にもかかわらずアクセス解析が充実していて、単なる数字以外に細かいデータまで表示してくれて、その点は大変に便利でした。
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