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kayahiyu.hatenablog.com
※学部二年の冬に提出したレポートの転載です。 ハミングは音の響きとして繰り返される。リトルネロ、夢というものが意識が回収しきれずにいる綻んだ苦しみをすっぽりと覆い尽くすものであるのと変わらずに、ことばで縫合しきることのない境界をさすり続ける。語られうることばとはすべて暴力的な音楽であって、針の先が肌理を突き破らなければ傷口を縫い合わせることができないように、そのように絶え間ない不快感を不快感で歌いなおすかのように、書き、語る。 ——八柳李花*1 リトルネロと音楽 ドゥルーズには絵画や文学などと違って音楽についての単著がない。にもかかわらず、ドゥルーズ哲学の中核にある概念のうちのいくつかが、音楽的モチーフを用いることによって説明されており、唯一まとまった音楽論といえる『千のプラトー』におけるリトルネロ論は、哲学と芸術の接続点となる概念としてドゥルーズじしんが重要としている(PP 276)。本
こんな夢を私は思い出した。 先の見えない薄暗い廊下を歩いている。なにか塔のような高さのある建物だがひとけはなく、コツコツという自分の足音だけが高い天井に反響している。歩き続けているとやがて分厚い布張りの扉の前にたどり着く。どれくらい歩いたのかわからないが、冷たい風がときおり吹き抜けるので身体の末端の感覚がうすれてきて、瞼も重たい。しかし私はこの扉を開けなければならないと思う。この扉をあける呪文を知っている。ひらく。そこは壁一面にたくさんの本が並べられた図書室のようなところであるとわかる。室内はわずかに明かりがついていて、私はそれをたよりに背表紙をながめやり、一つの書物を手に取る。 * 私たちがプルーストの『失われた時を求めて』*1に対してなにかを言うことを躊躇うとすれば、それはこの小説の長さそのものというよりも、その長さに伴う内容の綿密さに対して私一人の抱え切れる容量がとても足りないように
ほとんど動かなかったのか、寝る前に抱いていたぬいぐるみがそのままの位置にいた。イヤホンもしたままだった。死ぬ前にぬいぐるみとともに棺に入れてほしいって書いておきたい。在宅勤務のありがたみを冬になってかみしめている。いつまでもベッドにいたい。職場で自分がどう思われているかいまいちわからない。与えられたものは早めにこなしてるからマイナスってことはないだろう、でもプラスではなさそう。一度要員が足りなかったほかのチーム(あまりにも足りないらしく年末年始にもなにやら作業があってつらそう…)に手伝いに入ったら、効率よく飲み込み早くて助かりました〜と言ってもらえて嬉しかった。のちのち年下の人が入ってきたら褒めて育てるのを心がけたい。ボーナスも思ってたよりあり、ホワイト企業にさえ入れればいいって思ってたから運良く入れて本当に良かった。ボーナスでまた本や衣類を増やしてしまうかもしれない。ロリィタ(このあいだ
目次 ●前書き 第一章 フロイトのメランコリー論 1−1 喪とメランコリー 1−2 ある批判的審級 1−3 エディプスコンプレクス 第二章 バトラーのフロイト批判 2−1 法の遡及的効果としての「気質」 2−2 同性愛の予めの排除 2−3 パフォーマティヴなジェンダー 第三章 バトラーのメランコリー論の展開 3−1 幻想的同一化 3−2 隠喩と身体 3−3 暴力とメランコリー 私のうちに他人がある。そのことが意識されるのはおそらく、私の欲求を自分で規制するような心の動きがおこるときだ。たとえば、ウーマン・リブの運動家である田中美津はこのような体験を語っている。 リブを運動化して間もない頃、それまであぐらをかいていたくせに、好きな男が入ってくる気配を察して、それを正座に変えてしまったことがあった。あぐら革命的、正座反動的みたいな偏見から己れを嘆く訳ではないが、しかし、楽でかいていたあぐ
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