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やる気の出し方
kazetabi.hatenablog.com
今日の新聞も、「新型コロナウイルスの感染者が187カ国・地域で400万人を超えた」という見出しが踊る。 しかし、おそらく一般の人々の生理的な感覚では、パンデミックと言われるけどピンとこないという人が増えてきているのではないか。 ロックダウンされて行動に規制がかかっているけれど、自分の知り合いのなかに感染による死亡者がいるという人が、非常に少ないからだ。 これまでの日本国内のコロナによる死者は600人。3月だけで自殺者が1700人なので、自殺や交通事故の方が、その影響の範囲内にいる人が多く、死の深刻さを自分事として感じているはず。 そうした生と死の現実的なリアリティよりも、数字に追い立てられる切迫感と、行動制限による閉塞感というヴァーチャルな不安が、今回のウィルス現象の特徴だ。 情報というのは、伝えられ方によって、その印象は、まったく異なってくる。 今回の新型コロナウィルスにおいて、今から1
8月9日(金)、退院後間もない私の息子(18)が、着の身着のまま、手ぶらで、行方不明になり、その捜索のために多くの方の協力をいただきました。この場を借りて、御礼申し上げます。 今回の深刻な事態にいたる原因となったタクシー会社の件について、文章を書かせていただきました。自分個人の問題ではありますが、社会の問題も少しはあるような気がしますので。 8月9日(金)以降の経緯ですが、8月13日(火)に、東京の大崎警察署から連絡がありました。 そして、大崎警察署で息子と会った後も、法的手続き上、困難な局面がありましたが、様々な支援もあり何とか乗り越えました。しかし、息子は、著しく衰弱していたこともあり、東京の病院に入院しました。 まだ面会できないため、私は、いったん京都に戻ってきています。 なぜ息子が東京にいたかというと、京都から東京までタクシーに乗ってしまったからです。そして、無賃乗車のため、タクシ
今、認知症やそれ以外の理由で徘徊や失踪の恐れのある人を介護している人に、お伝えしたいことがあります。 背中とか、どこか明確なところに、名前と保護者の電話番号を目立つように書いてください。 というのは、現在、タクシードライバーの中には、経験が浅くてナビやオートマに頼っているだけの人も多く、プロとしての勘を働かせられる人ばかりとは限りません。 乗せた客が、たとえ手ぶらで着の身着のままにもかかわらず、はるか遠方の場所、九州の博多とか東京と行き先を告げて、「お金は着いた時に家族が払う」と無責任なことを言っても、なんの疑問も覚えず、そのまま行ってしまうドライバーがいます。20万円ほどの料金になることがわかっていても。長時間のドライブの前に到着先の家族の電話番号を聞いて支払いの承諾の確認してから出発するのではなく、そのまま行ってしまうということが起こります。 そうすると、いくら捜索願を出していても、全
昨日、広河隆一氏の性暴力について2度目の記事を書いたところ、それを読んだ女性から、メールでメッセージをいただきました。 彼女が書いていることは、このたびの事件における一つの大事な側面であると感じ、すぐに返事を書き送ったところ、それに対する返事がきました。 今回の事件に関して、世の中でやりとりされている言葉は、そのほとんどが広河氏の酷い性的暴行に対する非難および、被害に遭われた方を慰るものであり、それは当然の心理であると思います。 しかし、今回の事件を、広河氏の非人間的な行為とだけで片付けてしまっても、それはワイドショーの扱いと同じで、一人の人間を極悪人として葬り、次にまた別の事件を探してきて、「こんなやつ、人間じゃない」と攻撃することが繰り返されるだけ。 こうした構造自体に、今回の問題を生み出した原因も横たわっていると私は考えていて、それは、今はじめて考えたことではなく、風の旅人を50号ま
まもなく新しい年が始まろうという時、とんでもない事実が発覚した。 人権派として知られるジャーナリストの広河隆一氏が、最低でも7人の女性への性的暴力の責任をとる形で、「DAYS JAPAN」という雑誌を発行する会社の代表取締役を解任されたと発表があった。 これまで、芸能プロダクションや高級官僚や政治家など、世俗的な利益や地位や名声を求める人々が集まりやすいところでは、この種のスキャンダルは珍しくなかった。 しかし、人権を守るという旗を掲げて活動しながら、その活動に積極的に関わりたいと集まってくる人たちを罠にかけていたという今回の事態は、これまでの性的暴力とは別種の異様さがある。神父の児童性的虐待を連想させるところもあるが、人里離れた修道院での出来事ではなく、社会の中で大々的に正義をアピールしている現場で、しかも、犠牲になっていた女性が、明らかになっているだけでも7人という多さ、そしてその犯罪
太陽光発電を邪魔する雑草を取り除くために、ヤギが、現代社会で重んじられるようになってきているのは象徴的で面白い。 ヤギは、確かに食欲旺盛で、草を食べる時に根っこまで食べ尽してしまう。その為、植物が再生できず、荒れ地になってしまう。場所によっては固有植物がヤギによって食べつくされ、絶滅を危惧されるまで至っているため、ヤギは、世界の侵略的外来種ワースト100の1種に指定されている。だから草原地帯では、ヤギではなく羊を放牧する。 そのような貪婪なイメージがあるためか、ヤギは、キリスト教世界では悪魔の象徴だ。それに対して、羊は、神の子羊イエスキリストと喩えられる。 ヤギと羊は、よく似た生き物のように見えるが、まるで違う。羊は群れの中に馴染んでいるが、ヤギには孤高の風情がある。峻険な岩山でも、平気で駆け抜けていく力がある。 キリスト教世界で悪魔になる生き物は、たとえば蛇もそうだが、それ以前の世界では
横山大観と少し時代はずれるが、同じように、明治から昭和にかけて絵を描き続けた田中一村という画家がいる。http://www.ne.jp/asahi/yoshida/gaia/tanaka/frm.htm 田中一村は、若い頃から天才と言われ、横山大観が第一期生として入学した東京美術学校に入学したが、強すぎる個性のためか、学校の方針と合わなかったのか、生活苦で授業料を払えなかったためかわからないが、たった三ヶ月で退学し、世間の目とは関係ないところで独自の画風を極めていった。 奄美のオンボロ小屋で人知られず死んでしまったこの画家の作品を一度見れば、その圧倒的な迫力と美しさの前に心をうち砕かれる人は多いだろう。実際に、根強いファンも多い。しかし、残念なことに、これまで田中一村の展覧会は、大丸とか高島屋とか百貨店ばかりだ。国立新美術館などで大々的にやれば、大きな反響を呼ぶことは間違いないと思うのだが
今日、六本木の国立新美術館に、幼稚園の息子と横山大観展を見に行く。 午前中から行けばそんなに混んでいないだろうと思っていたけれど、すごい混雑だった。とくに高齢者の数が多く、美術を教養として楽しむ人がこれだけ多い国は、世界でもそんなにないだろう。 横山大観の絵は、これまで数点しか見たことがなく、あまり心が惹かれなかったが、「没後50年展」でまとめて作品が見られるということで、とりあえず見てみようと思った。 今回の展覧会でも、特に感銘を受けなかったが、大観の絵は、日本人にとって、とてもわかりやすい無難な美意識で構成されていると感じた。 富士山、桜、紅葉、鹿、水の流れ等々、日本人が既に理解・納得している世界観を、モチーフをちりばめることで、そのままに表しているという感じだった。全体として、とてもわかりやすい。丁寧に根気よく仕事をしていると思うけれど、北斎や若冲などの絵などから受けるような凄みはあ
企業の不祥事が連日のように報道される。賞味期限、偽造、介護現場の不正請求等・・・・・。こうした報道を目にすると、私たちはとんでもない時代に生きているように思わされてしまう。しかし、実際には日本国内に無数の企業があり、その多くは誠実な仕事を積み重ねている。どちらかというと、誠実すぎるくらいに。 しかし、最近、幾つかの企業を相手に仕事をしていると、「正しさ」に対して、あまりにも神経質になっていて、その萎縮ぶりの方が気になるくらいだ。 国民を代表するという大義名分で、メディアの多くは、企業の不祥事があるたびに、国の監督責任を問う。そして、国(お役所)は、重箱の隅をつつくように企業を管理しようとする。本質的に大事なことならまだいいのだが、形式的なところで、つまらないルールをつくる。そのお役所を刺激したくないからと、企業のサラリーマンはつまらないところで萎縮している。 例えば、介護において新しく制度
両国ので大江戸美術館で開催されている「北斎展」のことを先日のエントリーで書いたが、二日前、私の勧めで絵が大好きな私の幼稚園の息子と妻が北斎展を見に行った。 そして、帰宅して展覧会カタログを見ながら、息子が、「知ってる? この絵のなかに、富士山が二つあるんだよ」と言う。 彼が指差したのは、誰もが知っている「冨嶽三十六景 神奈川沖浪裏」の絵だ。 「富士山が二つ? どういうこと?」と思い、息子が指差す部分をあらためてじっくり見ると、確かに立派な富士があって、驚いた。 せり上がる大きな波の下に、船が見え隠れするところの波の形がまさしく富士山の形をしている。波の頭の部分のしぶきの感じも、富士の頂上付近に積もる雪そっくりだ。 「げっ」と思って、絵をじっくり見ていると、今度は、右横の小さな富士が、波の一部のように見えてきた。 この絵の解説は、せりあがる大きな波の「動」と、小さな富士の「静」との間のコント
田口ランディさんの新作「キュア」は、凄い作品だった。 言葉の力を、改めて強く認識させられた。これは、小説だが、純文学とか、エンターテイメントといったカテゴリー分けを無意味化して、田口ランディというジャンルを一つ確立しているとさえ思った。 様式なんてどうでもよく、この作家が見据えて言葉で迫ろうとしているのは、現代のパラダイムだ。かつて手塚治虫が時代のパラダイムに真正面から向き合う力を獲得するために、絵と言葉で「火の鳥」を創造したように、この作家は、言葉の力だけで、それをやろうとしている。 このような言い方を御本人が聞くと、大袈裟だと照れるだろうが、私は本心でそう思った。 プロローグの燕の美しい描写は、上質な純文学の文体で書かれている。その美しい描写に見とれていると見逃してしまうが、燕の飛び方を描写する美しいセンテンスに、何げなく、現代のパラダイムに対する鋭い問題提起が含まれている。 鳥が飛ぶ
ホームページのリニューアルについて、だいたいのイメージはできているのですが、今の技術で何をどこまでできるのか具体的にわからないので、やっていきながら考えていくことにしました。 それゆえ、外部の方にまとめて発注するという形をとれませんので、経験のある方に明日から編集部に毎日来ていただき、話し合いながら進めていくことになりました。 私は、情報伝達が、紙媒体からインターネットに移行していく状況のなかで、ウェブでできないことを誌面でやりたいと思って、「風の旅人」をつくっています。 通常、雑誌や新聞などで紹介される様々な情報記事で、インターネット上で紹介した方がベターなものは、そうした方がいいと思っています。 インターネット上の方が、情報量も多いですし、過去のものも閲覧できますし、検索機能も優れている。 インターネットより雑誌の良いところは、モニター画面では表現しずらい空気感を醸し出すことや、文章の
私は、もともと出版業界とは無縁で、別業態の仕事をしていた人間が、たまたま「風の旅人」を作ることになり、それゆえに、メディア・出版世界と接点が生まれることになった。 どちらの世界にもどっぷりと足を突っ込むと、一方の側で「常識」と思っていることがもう一方の側で、まったく異なることがわかる。 情報を伝える側は、その常識の違いを頭ではなく身体で理解していなければならないだろう。 たとえば介護の現場のことなども、介護の現場の人は、自分たちと「常識」の違うメディア世界のことを、あれこれ論じる機会をほとんど持てないが、「メディア世界」の住人は、それができる。その際、自分たちの「常識」は、自分たちの世界だけで通用する「常識」かもしれないという配慮が少しでもあればいいのだが、そうではなく、自分たちの「常識」の枠組みに相手をはめこんでしまうことが多い。 もちろん、どちらの世界も、そこに住んでいる限り、その世界
今朝の新聞の折り込みに、政府広報として、C型肝炎感染の危険がある血液製剤が納入された約7500の医療機関のリストが公開されていた。 新聞折り込みの政府広報(8ページ)として全国約3000万世帯に配布するそうだ。 →http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20080116-00000081-mai-pol もちろん、こうした活動が大事であり必要だと私も思う。 しかし、私は天の邪鬼なので、「政府広報」という言葉が気になる。その広報活動じたい、予算(つまり税金)からお金が使われているのであれば、その額も公表すべきだと思うのだ。 国が責任を認めた。そして、その責任を果たすために、被害を受けた人に補償をする。 補償するにあたって、こうした広報も含めて、様々なことが必要になる。それらは全て、税金でまかなわれる。 そして、こうした広報活動が、新聞社などの善意で無償で行われてい
これまで「風の旅人」のホームページは、ホームページ制作に関しては素人の編集部のスタッフが運営していたのですが、そろそろ一新したいなあと思っています。 単にデザインとかそういうレベルだけではなく、コンテンツも含めて。 具体的には、たとえば、”写真”のことに関しては、他のどこにも負けないものになるくらい、充実させるとか。 写真に関するホットな話題とか、考え方とか、若くて無名だけど、これはと思う写真家を毎週一人ずつでも紹介していくとか・・・・ 今の出版界で、出版される写真集は、すぐに販売の結果につながるものが求められているらしく、若くていい仕事をしている写真家でも、写真集を出すことは絶望的に難しいです。自費出版とかでないと・・。 また、彼らの個展情報なども、人目に触れる機会があまりないです。 「風の旅人」は、これまで5年やってきて、非常にたくさんの写真家と接してきたのですが、いい仕事をしているの
今日書いた「シンポジウム」の件で、大事なことを書き忘れた。 このシンポジウムの最後、司会進行者である朝日新聞の論説委員の「まとめ」がひどかった。 1時間という短い時間のなか、パネリストはできるかぎりの問題提起も行っていたのだが、司会者が最後に「いろいろあるけれど、深刻に考えずに、楽しく保護していきましょう。自分も、白神山地などを歩くのは楽しいですから」といった言葉でまとめた。 このパネルディスカッションの内容に関係なく用意されていたような自説で、唖然とした。今回の対話が、台無しになったような気もした。 なぜなら、パネルディスカッションのなかで、屋久島の件、そして最後に出た広島の原爆ドームの件で、世界遺産に指定されることと、そこに住む人の気持ちのギャップというものが、時間がなくて未消化であったけれど、今回の対話で、けっこう重要な鍵になっていたからだ。 司会者である朝日新聞の論説委員は、原爆ド
昨日、文化庁、外務省、朝日新聞が中心になって上智大学の講堂を使って行われた「世界遺産と生きる」というシンポジウムに出かけた。 パネリストおよび講演者は、文化長官の青木保さん、上智大学長の石澤良昭さん、東京文化財研究所国際企画情報研究室長の稲葉信子さん、衆議院議員の鈴木恒夫さん、アフガニスタンのバーミヤン遺跡を研究している前田耕作さん、作家の田口ランディさん等であった。 ランディさんと石澤さんと懇意にしていることもあって出かけたのだが、シンポジウムとしては中途半端だった。6人が参加するパネルディスカッションが1時間しかとられていないというのは、最初から実りのある議論を主催者側が期待していなかったということだろう。 もともとこのシンポジウムは、「アジアの遺産と生きる」というテーマだと石澤さんから聞いていた。実際に、アンコールワットの石澤さんと、バーミヤンの前田さんが、声をかけられていた。しかし
新風舎が倒産したのですね。驚きました。 http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20080107-00000008-omn-bus_all 一昨年の末、新風舎のビジネスの在り方についての議論がありました。賞で人を誘って共同出版という名の自費出版を勧める方法は、いかがわしいこと甚だしかったのですが、朝日新聞が、この社長を時代の寵児のように取り上げていました。 http://d.hatena.ne.jp/kazetabi/20061128 それはともかく負債の総額が25億円にもなるのだとか。 新聞の報道などでは、一昨年末の訴訟などに関するマスコミなどの報道でイメージが悪化して契約が取りにくくなったからということですが、本当にそれだけなのでしょうか。 というのは、自費出版は、最初にお金をもらって本を作り、印刷会社などへの支払いは後になるので、私がやっている「風の旅人」
昨日の夜、今日の社会や未来に関して、爆笑問題と各分野の大学の先生が討論する番組を見た。 既にどこかで聞いたような話が多く、何か新しい視点を得られることはなかった。爆笑問題にも突っ込まれていたが、各先生は、現在の大学が昔に比べて面白くないと語るのだが、自分たちこそが大学の権威的構成員として学生と向き合っているわけであって、大学が面白くないというのは、自分たちが面白くないということなのだ。 彼らには、その自覚があるようだが、そこから脱する道筋が見えないという感じだった。 さらに、「社会全体を見ても、昔なら見本になったような人物がいたが、今はそれが見当たらない、それが若い人の無気力につながっている」とも言う。 何をもって「見本に」にするのかというところが、その人の価値観なのだけど、「見本がない」と思うのは、「対象」に問題があるのではなく、その価値観じたいがステレオタイプで現在からズレているからと
昨日の私の日記のなかでクーリエに言及した部分で、「クーリエは“世界中のメディアから記事をピックアップ”し、翻訳して読者に情報提供を行う、というのが基本スタンスですから、主にはレイアウトと記事の選出にのみ、その個性なり技量なりを発揮する雑誌です。上述の基本スタンスは、(おそらくはkazetabi氏がなされたような誤解を防ぐために)毎号毎号、目次ページ付近に明記されており、もしもkazetabi氏がそのことを知らずに批判されていたのであれば、訂正された方が良いのではないでしょうか。」 というコメントをいただいたので、そのことについて、もう少し述べておきたい。 クーリエが、自社の主体的な記事でなく、海外のメディアの翻訳をして記事を紹介しているというクレジットは、確かに書かれている。しかし、私は、クレジットがあればいいだろうという感じを持てない。 「タイム誌が選んだ記事です」という言い方は、タイム
年末にエントリーをした「国家と責任」に対して、ブログ上でコメントをいただき、そのことについていろいろ考えたことと、今日の東京新聞紙上の鷲田清一さんと内田樹さんの対談が重なりあい、今年の私のテーマにつながってくるように感じた。 改めて思ったことは、「風の旅人」は世の中で正しいとされることを伝えるのではなく、どんな情報であれ、それじたい単独で単純に絶対的に正しいものはないということを前提に、世界や物事や人と人との関係などの微妙な綾を、ていねいにすくいとって積み重ねていくスタンスを大切にしたいということだ。 世界も人間も重層的で、複雑で、その厚み全体を通して考えようとしなければ見落とすことは多い。 「国の機能不全」、「地球温暖化対策」、「戦争反対」、「原発反対」といった大きな言葉で語られることは、正論だから反対しずらく、それを主張する人もまたそのことがわかっているから、何の後ろめたさもないという
薬害C型肝炎集団訴訟において、福田首相の政治的決断によって、薬害肝炎の被害者に補償する「一律救済法案」と、再発防止のための「肝炎対策基本法案」の成立が目指されることになった。 その際、この薬害における「国の責任」を明記することを被害者は求め、民主党に強く働きかけている。二大政党のうち一方が「国の責任」に対して慎重な態度をとり、もう一方が、国の責任を認めるということに対して積極的な態度をとるということだろうか。 異なる見解を持つグループが、議論を尽くすことにより、それぞれの側の考え方における問題点などをじっくりと検討することは必要だろうと思う。 しかし、この議論が、単純に自民党と民主党の議論にすぎないものであれば、あまり意味がない。国の予算運営に対して当事者責任を持たない野党の時には国の責任を認めるが、与党になって苦しい財政事情に直面すると、国の責任に対して慎重になるということもあるだろうか
今朝の新聞の一面に大きく、「介護養成校入学13%減」、「低い待遇、景気回復で流出」「コムスンで拍車も」というタイトルが踊り、第10面でも「学生の介護離れ」「見返り少ない」「待遇改善、待ったなし」というコピーと関連記事が掲載されていた。 こういうのを読むと、ほんと新聞社の記者というのは傲慢だなあと思う。 コムスン問題の時は、会社として不正があったとはいえ、現場で働くスタッフのほとんどがとても真面目にきっちりとした仕事をしているのにかかわらず、そこで働くことに後ろめたい気持ちになるような報道を繰り返したあげく、このたび介護職で働く人が減少している現実に対して、コムスン問題が影響していると無責任に言い放つ。 そして、それだけでなく、「介護という仕事は給与の安い3K職場」だと大々的に伝えて、この職を目指す人たちの気持ちを萎えさせる。「景気が悪い時、仕方なく安い給料で仕事がきつい介護関係に進んだ生徒
今日、とても嬉しいことがあった。 ある書店から、「風の旅人」の27号、28号と最新号の29号の三冊をそれぞれ75冊ずつ、一人のお客さんから注文を受けたと連絡があった。 注文してくれた人は、ある会社の社長さんだそうで、「風の旅人」を三冊ずつ75カ所に御歳暮で送ってくれるのだそうだ。なんて素晴らしい社長さんなんだろう。こういう人と御縁があり、その人を通じて「風の旅人」が送り届けられる75カ所の人達へと御縁が広がって行くのは、とても嬉しいことだ。 まだやっていけるのではないかと、僅かではあるけれど希望の糸がつながる。 「風の旅人」は、一部の応援してくださる書店を除いて、一般の書店にはあまり好まれない雑誌のようだ。スペースをとる割に、二ヶ月に一度ということもあって他の雑誌に比べて動きが悪いし、単価も単行本ほど高くはない。単価1200円(税込み)ということは、一冊あたり書店には240円ほどしか入らな
目黒美術館で行われている写真やアートなどの若手作家の展覧会を見る。 この展示でもそうだが、昨今の若手アーティストたちに対して、学芸員などが、「知性と感性が感じられる」という誉め言葉をよく使う。品が良くて、すっきりと整えられたものを、そのように評価することが多いが、「知性と感性が感じられる」という言い方をされるものの多くは、デザインに工夫を凝らしたプラスチック商品のように私には見える。それらには「情動」があまり感じられない。 アート作品もインテリア風になっているから、お洒落な「知性」と「感性」が好まれ、「情動」は敬遠される傾向にあるのだろうか。 若い表現者のプロフィールを見ても、大学院とか海外留学というのが多い。学校で表現の方法論を学び、その延長に表現があるわけだから、知性と感性なのだろう。学芸員も同じだ。学芸員になるには、その種の学歴があればよい。学校でアートを勉強し、卒業して、アート関係
第25号〜第30号(2008年2月発行)まで、大竹伸郎さんに表紙を制作していただき、「われらの時代」というテーマで、号を重ねてきました。 第31号(2008年4月発行)からは、望月通陽さんに表紙を制作していただき、「永遠の現在」というテーマで、編集をしていきます。 「永遠の現在」というテーマは、創刊の時から流れているものではありますが、それをより意識的に、誌面に反映させるということです。 私たちは、今この瞬間に影響を与えている「過去」から、今この瞬間の影響を受けていく「未来」まで含んだ「時間全体」の中の一瞬一瞬を、不可逆的な波となって、複雑精妙な関係性のなかで様々な影響を受けたり与えたりしながら生きています。すなわちこの一瞬の営みは、どんなものでも未来に対して何らかの揺らぎと影響を与えていく可能性を秘めたものです。 しかし、今日の知識・情報社会で教えられることは、私たち一人一人の営みとは関
ここ数日のニュースで、どうしても納得いかないことがある。 「 肝炎リスト放置 現職3幹部、厳重注意 歴代幹部は不問」2007年12月04日 血液製剤でC型肝炎に感染した疑いがある患者418人のリストが5年間放置された問題で、厚生労働省は3日、当初は「ない」とした実名入り資料が見つかったことについて、現職幹部3人を文書による厳重注意処分にした。減給などの懲戒処分でなく、注意処分でも2番目に軽い。リストを放置した歴代幹部の責任も不問にしており、「身内に甘い」との批判が出そうだ。 「処分」という言葉を使っているけれど、ようするに、口頭ではなく文章で注意をしたという程度のことにすぎない反省のさせ方なのだが、これを伝えるAsahiニュースは、「身内に甘いとの批判が出そうだ」などと日和見的に、のんびりと書いているが、まずは自分が徹底的に批判してみろよ、と言いたい。 この役人の罪と罰に比べて、関東学院大
昨日、立教大学で映像/身体/心理の統合を学ぶ現代心理学部の一般講座で行われた小栗康平監督の「埋もれ木」の上映会と、鼎談を見に行く。 これだけ立派な上映設備があり、学生は恵まれていると思うが、残念ながら参加している学生は30名ほどで、学部全体の1/10ということだった。 「埋もれ木」の上映を見るのは3回目で、それ以外にDVDで一回見た.何度見ても飽きず、見るたびに新たな発見がある。発見といっても何か言葉で定義づけられる答えを見つけるということではない。映画を見るたびに自分のなかに新たなディティールが積み重ねられて、簡単には手が届かない真理に向かって少しずつ近付いて行くような予感が与えられるのだ。 そういう言い方をすると、「ならば真理とは何なのだ」と、これまた簡単に定義づけられるような言葉を求める人もいる。「真理」ではなく、「本物」という言葉にしても同じだ。 「真理」にしても、「本物」にしても
国の財政が厳しく、社会保障や公共サービスが難しくなるので消費税引き上げの議論があるとテレビが伝える。 また、今朝の新聞では、社会保障費を2200億円圧縮するために、診療報酬の引き上げを願う日本医師会と、国庫補助を減らして健康保険組合に肩代わりをさせようとする厚生労働省と、それに反対する経済界が三つどもえで論争をしていて、それに対して、「痛みの押し付け合い」などと、傍観者的なタイトルが大きく踊っている。 日本医師会は、近年、医療報酬の相次ぐ引き下げによって地域医療の疲弊を招いたと危機感を訴えているし、経済界は、健康保険への加入者三千万人が1人当たり年間1万2千円強の負担増を強いられることに反発しているわけで、「大きな団体」が痛みを押し付け合って争っているのではなく、すべて、一人一人に関わってくる問題なのだ。 そうした時、マスコミは、国家予算をわかりやすく示す円グラフを出す。 http://w
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