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中東情勢
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辻仁成「海峡の光」に対する初読時の個人的評価は★(特に読む必要なし)で特段に評価が低いわけではない。しかし、前回の藤沢周のところで出た「ホンモノ」「ニセモノ」のテーマを敷衍するのに、彼は格好の作家である。つまり辻の作家としてのありように思いをいたすと、「ホンモノ」と「ニセモノ」との定義が手に入るような気がするのだ。 仮にも小説を書くような人間は、原初に物語に耽溺したという経験を持つ、と措定して、その先の、「その物語に傷ついた人。その傷を癒すために自ら物語を改変しようとする人」を「ホンモノ」とし、一方「ニセモノ」は「物語に傷ついていない人。物語の模倣で、かつての耽溺を延命しているだけの人」、とするという風に。「海峡の光」を読んで、私は直感的にそこに「文学に傷つけられてなどいない人」を見出した。明言はしなかったが、私は辻を「ニセモノ」と断じたのである。 しかしこれでは「物語」と「文学」とがいさ
小説の実作のみならず、小説制作の指南書も書いている保坂の、「小説におけるアナキズムの実践」等々の言説を見ると、彼の小説が、文学史というものを踏まえているものだということはわかる。確かに文学史的には彼が小説というものの一応の先端にいるのは確からしい事実である。それだけに彼の小説がつまらないというのは困ったことである。文学理論だけが先行している小説がつまらないのは、何も彼に限ったことではないけれど。 本作も、37歳の男が、昔のクラスメイトの家に遊びに行き、たわいのないおしゃべりをしながら二人で庭の草むしりをする、というだけの話なのだ。本作と賞を競って落された車谷長吉が「薬にも毒にもならない小説」と唾棄したのは、何も落された恨みからだけではない。小説/文学は毒であり薬である、という一時期確かにあった文学観から見れば、この小説は非文学の最たるものということになる。それに、自らチェーホフ、カフカの系
多分、彼女の詩を読んでも得るところは何もあるまい、ということを知らしめるに足る散文。兄としての淳之介が「分りにくい。行分けでもしたらどうか」などと評しているのは微笑ましい。彼女が1975年、「針の穴」で、初回候補になったときは、淳之介は「私は棄権した。この作品の長所短所を述べるのは易しいことだが、やはり差しひかえる。」として身内という立場から審査を棄権したのに、今回は審査に参加しかつ賛成票を投じている。どういう心境の変化だろう。曰く「私の実妹なので、銓衡委員としての立居振舞に困惑した」「今回の作品はなかなか良いとおもった」「今度はひとつ、自分なりに客観的になって、票を入れてみようと考えた。十五歳年下の妹というのは、他人のようで他人でない厄介な存在だ。」「もはや病膏肓、猫が自分か自分が猫か、猫の人相学や手相まで出てくる始末で、ここまでくれば許せるとおもいはじめた」と。 第85回 1980年前
三島由紀夫及び舟橋聖一の見立ては「分裂病」の症状記録ということらしいが、私はこれを「鬱病」患者の手記と読んだ。心の中にある瘡蓋を引っかいているような自虐的文章が延々と続く。分裂病改め統合失調症患者になる文章には、ときおり痛切で美しいひらめきが見られるが、ここにはそのようなものはなく、あるのは負の想像力というものだけである。確かに鬱病であれば小説など書く気力もなくしてしまうかもしれないが、最近はあまり言わないが鬱病は躁病とのセットで、躁の状態で一気に書いたという解釈も成り立たないわけではない。作中には癲癇の少女も出てくるし、次回の古井由吉の「杳子」と合わせ、木村敏言うところの、アンテ・フェストゥム、イントラ・フェストゥム、ポスト・フェストウムの精神病三類型が揃ったと喜んだが、分裂病者にとって全く意味のない過去にこだわり、差異ではなく同一性に囚われているというのが躁鬱病の特徴であると木村敏はし
2014年から、標記タイトルのブログに移行します。 少し自分の立ち位置を確認しているものの、さほど深い意味はなく、年が改まったので気分一新、というところです。 なかなかこの小説を読む機会がなかった。掲載誌「文藝」は品切れになっていたし、その中古品にははや高値がついていた。私は尋常に単行本を買ったが、そのときすでにそれは12刷になっていた。いざ手元に置くと何だかさっぱり読む気になれず、時折パラパラめくっていたりなどしたが、結局読み終えたのは、本作の野間文芸新人賞受賞のニュースが入ったその後だった。 単行本の帯の宣伝文句、「驚嘆、感涙、絶賛の声、続々」「悲しみと向き合うことで、人は前に進んでいける」、という高湿度の言葉。私は基本的にこういう本は苦手なのである。帯にはさらに読者の声なるものも紹介されていて、それは「打たれました」「泣きました」「涙が止まらない」というようなものである。読者の声には
戦後文学史にわれわれは一人の天才を持った。石原慎太郎である。ただしこの天才は肉体的天才と言うべきものだった。裕次郎が肉体的に天才的な俳優だったのと同じ意味で、石原慎太郎は天才的肉体を持った作家だったのだ。それを多分本人が希望するであろうように、ランボー的天才と言っても良いが、ここではサガン的天才と言うにとどめる。サガンの痛切な小説が、ただのわがまま娘の行状記に過ぎなくなるほど、読者側が肉体を失ったときに、石原の小説もまたそのようなもの(成金の息子に過ぎないガキの放逸)に思えてくるだろう。この天才的小説を感受するのには肉体がいる。肉体の衰弱ととものこの小説の放つ幻惑は薄れていく。しかし肉体の衰弱を待つ前に、この小説の幻惑から離脱するのに格好のものがある。映画「太陽の季節」である。見てみると良い。葉山だか大磯だかの汚い海にヨットを浮かべ、男たちは砂浜でマージャンをしている。さらにヨットの上で歌
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