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miyuyuchang.hatenablog.com
小津安二郎の作品に触れてみたい気持ちが高まり、「東京物語」「お早う」「秋刀魚の味」を観てみました。 「東京物語」は1953年(昭和28年) 「お早う」は1959年(昭和34年) の作品。 どちらもまだ私が生まれる前の時代のものです。 「秋刀魚の味」は1962年(昭和37年)で、ちょうど私が生まれた年の作品でした。 小津安二郎の作品は、たしか40代の頃にも2作品ほど見たことがあるような気がしますが、この当時はなんの作品を観たのかよく覚えていません。 でも、観た印象としては、「自分が生まれる前の時代だけれど、自分がかなり小さかった頃の雰囲気も感じられて、懐かしいな~」といった程度のものでした。 小津作品は、伝統的な日本の家庭生活を描いているので、当時の生活の様子や日用品、日常的な言葉使いとか人々の服装とか、そういったものが見られるのが私にはとても興味深いものでした。 奇想天外なストーリーより、
高校時代からの友人と、大学時代からの友人とは、長年に渡りブランクもなく、ずっと付き合いが続いています。 女の人は一生の友達が作りにくい、などという説も聞きますが、私も友人たちもずっと独身だったせいか、生涯の友として成立しています。 大学時代からの友人は、私と同じようにここ数年のうちに両親を亡くしました。 高校時代からの友人は、母親はまだ健在です。 彼女は母親が23歳のときに生まれたそうなので、彼女の母親はまだ84歳。 私の母は36歳のときに私を生んだので、生きていたら97歳か。 同級生でも、親がいつ生んだかによってだいぶ年齢は違いますね。 母がもっと早く私を生んでおいてくれたら、母ともっと長い時間を過ごせたのかな、なんて、たまに考えることもあるけれど、若くして親を亡くしてしまう人もいるわけだから、そう考えると十分すぎるほど私は親との時間はもらえていた気はするかな。 高校時代の友人とは、今年
2019年11月に父が亡くなって、4年が経とうとしています。 あれから11月が巡ってくるたび、いつもとは違った特別な感情で 父のことを思い出す時間が増えてきます。 父は1ヶ月半ほど入院した後に 病院で亡くなりました。 家に居られた最後の1ヶ月間ほどは たくさんの薬を苦しそうに飲んでいた姿が忘れられません。 普段は朝と晩に飲む薬を小分けにセットしておき、父の食事が終わったら私がその都度出してあげていました。 父の薬は徐々に薬が増えていき、不安でした。 初期の頃は、血圧の薬が一粒だけだったのに。。 父が家に飲み残した大量の薬を、4年経った今でもまだ捨てられずに、あの当時置いておいた棚の所に、置いてあります。 徐々に食事も摂れなくなって、それでも薬だけは無理して飲んでいた父。 辛く苦しかったのはわかっていたのに、父には我慢させすぎちゃった。 最終的には救急搬送。 そして、再び家に戻ることはなかっ
私は、2009年47歳頃から股関節の違和感や痛みが強く出始め、変形性股関節症であることが判明しました。 その当時の私は、多大なる不安感と将来への絶望感を覚えました。 というのも、変形性股関節症は治せるものではなく、そのまま放置しておくと進行していく障害だという情報を知ったからです。 手術 (人工股関節置換術)という選択肢もあるようでしたが、数々のリスクも懸念され、それ以上に私は、自分の身体を傷つけることへの抵抗感が人一倍強いので、手術は絶対にしたくないと思いました。 命に関わるようなことでなければ、自分の身体は絶対に傷つけたくない! そんな信念のような強い思いが私にはあるのです。 なので私は若い頃から、美容整形はもちろん、ピアスの穴だってとんでもない!という考えでした。 もちろん、他人がそうすることに対しては、とやかく言うつもりは全くないです。 私に限っていうならば 手術という選択肢は、あ
2019年に父は95歳で他界、2022年に母は96歳で他界。両親を亡くした今、親の死を受け入れるということについて、思ったことを綴ってみます。 子供時代の私は、親が死ぬなんてことは普段はほとんど考えたことはなかったけれど、いつか親が死んでしまったら。。ということをふと想像し、悲しくなって泣いたことは多々あるな。 よくよく考えてみると、子供時代だけじゃなく、介護をする前の40代位までは、親の死なんてとても受け入れられないという、子供時代と同じような感覚でいたような気がします。 親の死、というと、両親という意味合いに捉えられるかもしれないけれど、特に母親の方です。 父が亡くなったら、と想像して泣いたことは、なぜかないような気がする😅 介護を経験する前までの私は、親の死なんて考えられないし、考えたくもないし、考えただけで悲しくてどうしていいかわからなくなっていた。 そもそも親の死の前に体験する
2022年に96歳で亡くなった認知症の母について、思うことの記事です。 母が亡くなって1年以上過ぎました。 この1年間は、介護で大変だった頃の母を思い出すことが多かったのですが、次第に私は母の人生そのものについて考えるようにもなってきました。 母は生まれたときから最も身近な存在で 母のことはなんでも知っていたような気になっていたけれど。 母がまだ若かった頃の写真を見ると、そこには私の知らない母の世界が感じられ 私は改めて 母のことをもっと深く知りたくなりました。 見た目には母は明るく元気で 愛情深い人だったけれど。 ネガティブな感情も強く そのような発言をする事も多かった。 本気なのか冗談半分なのかは結局わからなかったけれど、 母はよく自分のことを 世界一の不幸者 そんなことを口にしていました。 少なくとも幸せな人生だったな~とか 幸せだな~といった言葉は 母からは聞いたことがない。 私の
2009年の末頃から、私が変形性股関節症の痛みが本格化してから今年で14年になります。 痛みがひどく眠れない夜もあったというのに、手術もせず、これいった保存療法に励むでもなく、それでもなんとか元気に日常生活は送れています。 過去の股関節の状態に関してはこのブログでも記していますが、今現在の状態についてはあまり記していないことに気づき、このあたりで少し記録していく必要があるかなと感じました。 今現在の私は、杖なしで歩けています。 歩き出しはかなり痛みが強いですが、しばらく歩いているうちに安定してくるようです。歩き続けるのはやはり苦痛です。それは脚の痛みというより、疲れてきてしまうからです。一日の限界歩数としては、5000歩位でしょうか。4000歩以上歩くと、翌日まで響くくらいの疲労感を覚えます。 脚長差はあります。右脚を軸にして立った時、左脚はつま先立ち状態でないと吊りあうことはできません。
今回は変形性股関節症発症から7年目 2016年後半の日記をもとに、その頃の状態を記しておきたいと思います。 10月2日 夜は疲れてぐったり。脚の筋力がさらに落ちたのかすぐに疲れ、脚も動かなくなり持ち上がらない。 10月3日 夜、初めて(患側ではない方の)右脚の力が抜けて、布団の上に転倒してしまった。 10月22日 筋膜ほぐしローラーというものを見つけ、脚の痛みに効きそうな気がしたので購入。 使ってみたら気持ちいい。股関節周辺の筋肉のコリに効く感じ。 あ。今でも同じ商品見つけました。これですこれ! ↓ La-VIE(ラヴィ) 筋膜ローラー ほぐ師 マッサージローラー La-VIE(ラヴィ) Amazon 10月23日 昨夜は筋膜ほぐしローラーを使ってコリをほぐしていたら、夜間の脚の痛みもだいぶ緩和されていた。 11月2日 気になっていた内転筋を鍛えるトレーニンググッズ(内ももに挟むもの)を買
2023年がスタートしました。 このブログものんびり更新ながらも、書き続けて3年以上経つんだなぁ。 書き始めたのは父が亡くなった後からだ。 その当時の母は、介護施設に入所したての頃でまだ生きていました。 このブログは親を介護した中での数々の体験を、当時の日記をもとにその時の想いと共に、ブログとしても残したいと考え綴り始めました。 そして、自分自身の変形性股関節症の状態も、時の経過と共にどのように変化していくのか、自分でも興味深く見つめながら、過去の日記も引用しながら記録として残していきたいと考えました。 親の介護をテーマにしたものは、過去の体験談がたくさんあるので、書きたいことはまだまだあります。 ただ、これからは、親を亡くした後の心境の変化や、還暦を過ぎ歳を重ねていく上での自分自身の体や心の変化などについても、綴っていきたい気持ちは膨らんできています。 変形性股関節症に関しては、「絶対に
在宅介護5年目 2014年10月~11月頃の母のことを記しておきます。 10月27日 この日は昼頃、母は兄に付き添われ、タクシーで1分ほどの距離にある整形外科から帰ってきました。 この当時母は月に一度、骨粗しょう症の薬をもらいに、定期的に受診していました。 最初の頃は歩いて通えていたのですが、次第にたった5分の距離も歩けなくなり、タクシーで通うことに。 そして、この日タクシーからは降ろせたものの、きちんと立つことができずに、そのまま地面にへたりこんでしまいました。 このパターン。家の中でも何度も経験していて、立たせるまでに最長2時間位かかったこともあります。 兄と二人で脇を抱えて立たせようとすると、痛い痛い!といって嫌がり、一向に立とうとする気はありません。 家の中から歩行器を持ってきて、それにつかまって自分で立ってもらおうと促しても、全く力が入らないような素振りを見せて、立ち上がれません
お題「気になる番組」 私は、健康に関するテレビの情報番組はわりと気にして観るほうです。 ここ数年で医学も急速に進んでいるようで、癌に関しても近い将来撲滅できるようになるとか、最近の抗がん剤治療は昔に比べて、副作用はだいぶなくなった、といった情報も先日テレビで観て、癌に対する不安感も軽減される気がしました。 癌では死なない、認知症も治せる、そんな時代も、そんなに遠くない未来にやってくるんだろーなあ、という希望も見えてくる気がします。 先日は、NHKで「チョイス@病気になったとき」という健康情報番組で、変形性股関節症をテーマにしたものを放送していました。 ただ私は、自分に関連した変形性股関節症をテーマにした情報番組に対しては、ついつい厳しい目で見てしまうせいか、納得いかない想いが残ってしまうのです。 それはなぜかと言えば、手術を選択した人にしても、運動療法によって手術はしなかった人にしても、そ
2016年 変形性股関節症発症から7年目の記録をもとに、書いてみたいと思います。 私は股関節が悪いわりには、転んだりつまずいたりといったことは、今のところほとんどありません。 ただ2016年11月に、お店の外階段3段くらいあるところを上った際、軽く転んでしまったことはあります。 靴も片方脱げてしまい、すぐに立ち上がれないでいたら近くにいた人に 「大丈夫ですかっ?」 と、心配して声をかけられ恥ずかしかった。。(/ω\) 立ち上がっても痛みもケガもなく大したことはなかったのですが、股関節が悪くなってから転ぶことなど初めてだったので、ショックと不安は大きかった。 これからちょくちょくこんなことが起こったら、どうしよう。。という不安は膨らみましたが、今現在も含め、その後は転ぶようなことも、つまずくようなことはありません。 むしろ、脚にはなんの問題もない兄や友達のほうが、段差もないところでつまずいた
両親の介護を卒業した今、ついつい目にとめてしまうのは、娘や息子に介護されている高齢の親達の姿です。 先日も、月に一度の内科受診に行った先のクリニックで、40代位の息子が付き添ってきていた80代位のお母さんを見かけました。 その日は、市の健康診断を受けるために来たようなのですが、どうやら申込書を持ってこなかった模様。 「市の方から、A4サイズ位の封筒届いていませんでしか?」 看護師さんに訊かれると、息子さんの方がお母さんに 「そんなのきてた?」と、全く知らない様子。 するとお母さんのほうは、 「そういえばなにか来てたけど、よく見てこなかったわ」と。 お母さんのほうは認知症ではないようでしたが、杖を持っていたし、かなり痩せて弱々しい感じに見えたので、役所から届いた書類などを任せっきりにしておくのは、無理があるんじゃないかな、と思えました。 診察室で待つ間も、息子さんは母親とは離れたところでずっ
タイトルからもお分かりの通り、私はこの夏、ついに還暦を迎えました。 年齢など気にしないで生きようとは思っているものの、やはり慣れ親しんだ50代から未知の60代という世界に入っていくには、抵抗感を含んだ緊張感があります。 60代か~。60代と言えば、もはや高齢者の仲間入りだよな~なんて思いも、正直言って拭い去れない部分はあるものの、 自分が子供の頃とか若者時代に見ていた60代と、今の時代の60代とはずいぶん印象が違う。 たしかにどの年代を見ても、時代とともに若々しくなってきてます。 60代という未知のエリアを一歩踏み出し、これから自分はどうなっていくんだろう❔ いやいや待てよ。どうなっていくんだろう❔なんて、成り行き任せにしてていいんだろーか、とすぐに思い直した。 年齢にあらがうことなく自然のままに、というのは理想だけれど、私の場合かなり意識して自分を保っていないと、どんどん朽ち果てていく自
少しずつ記憶を失って、ゆっくりゆっくり時間をかけて遠ざかっていくことから、アメリカでは認知症のことをロンググッドバイ(長いお別れ)と呼ぶこともあるようですね。 スローグッドバイなどと表現していたのも聞いたことがあり、認知症の母と長い年月をかけてお別れした今の私には、心から納得する表現だと感じています。 世の中には母親との縁が濃い人もいれば薄い人もいる。 母親のことを大好きな人もいれば、なんらかのワケがあって好きになれない人もいる。 そう。母親との関係は人それぞれ。 私は子供の頃から母のことは宇宙で一番大好きで、母が死んでしまったら私も生きていけないとずっと思っていた。 「いつの日か母が死んでしまったら」 まだ母が認知症にもならず元気なうちから、そんな考えが頭をよぎると悲しくなって、泣いていたこともありました。 実際にはどうだったかと言えば、いま私は母の死をとても穏やかな温かい気持ちで受け入
2022年6月 要介護5だった母は96歳で亡くなりました。 先日、母が入所していた介護施設の退所手続きを済ませました。 その介護施設はショートステイで約1年、その後入所し約3年、合計4年近くお世話になりました。 介護施設やケアマネさんに関しては、当たり外れがあるとか、相性が合う合わないがあるとかよく聞きますが、母をお願いしていた施設は皆さん温かく親切丁寧で、良い所にお願いできたと思いました。 介護施設は、ケアマネさんから紹介されたのではなく、私が自分で決めました。 決め手になったのは、家から比較的近い所にあることと、そこは私が子供時代を過ごした地域であり、母にとっても馴染みのある環境だと思えたからです。 その介護施設は何年も前からそこにあることを知っていた、ということも安心材料のひとつでした。 ほぼ直観のような感じで決めた所でしたが、よくよく調べてみるとそこは周辺地域でも上位を争う位の人気
介護施設に入所していたに母が老衰で亡くなる一ヶ月ほど前(2022年5月)に、母の弟(私達にとっては叔父さん)に会わせることができました。 母の兄弟はたくさんいましたが、長生きしていると皆 他の兄弟たちは次々と亡くなってしまいます。 唯一生き残った叔父さんは、母とはひと回り違う弟です。 その時点での母は、そろそろ看取りに入る直前だったので、会いに行ってもウトウトまどろんでいることが多く、呼びかけても全く目を開けてくれないこともありました。 ちなみに看取りというのは、無理な延命治療は行わず、自然に亡くなるまでの過程を見守ることです。 しかしこの日、母の弟である叔父さんが顔を見せると母は珍しく目を精一杯開けて、叔父さんの呼びかけに反応し始めました。 もう声を出す力はありません。それでも、叔父さんの呼びかけに時折「うんうん」と頷き、マスクの下の口をなにか言おうとモゴモゴ動かしていました。 かなり弱
2022年6月 介護施設にいた母は 96歳で天寿を全うしました。 お昼に少しだけゼリーなどを口にした後、ベッドに戻りウトウトしているそのちょっとの間に、母の呼吸は止まっていたようです。 認知症はありましたがその他には取り立てて持病はなく、要介護レベルは今年3月の最後の認定で要介護5でした。 そろそろ危ないかもしれません、と言われてから亡くなるまでの間、ずっと気持ちがざわめいていて、ブログの記事を書くこともできませんでした。 いろいろな事が片付いて、気持ちもだいぶ落ち着いてきたので、また少しずつ書き残していけたらと思います。 そろそろ危ないと言われた看取りの段階に入ってから 一ヶ月以上は生きていてくれたので、それなりに心の準備はでき、お別れの時間はたっぷり与えてもらえました。 母は4月までは とろみ食を介助されながら摂取できていたようですが、5月に入ると口に入れてもらったスプーンを舌で押し返
在宅介護5年目の2014年から、週二日ほど母にはデイサービスに行ってもらうようになったことから、私はそれまでなかなかできなかった家の片付けや大掃除に励みました。 認知症の母はもちろん、父もだいぶ物の管理能力は低下してきていたので、私がふたりの持ち物をすべて管理できるよう、物の数はできるだけ減らす方向で片付けました。 とは言っても、母がいない間にこそやることは他にも山積みだったので、不用品などの片付けにはその後も5年ほどかけてやっていきました。 世間では、親の実家を片づけるのに大変苦労している人がたくさんいるようですね。 実家が別にあって、その実家には両親の大量の物があって、それをなんとかしなければならない人達のことを考えると、想像を絶する大変さなんだろうな。。と思います。 私はずっと両親と一緒に暮らしていて、ある程度家にある家族の物の量は把握していたつもりでした。 両親ともそんなに物欲の強
今回は変形性股関節症発症から7年目 2016年6月の記録をもとに書いています。 この時期には、通常の親の介護に加え、家の大掃除や長年倉庫にあった不用品の片付けなどをしていたこともあり、脚の痛みはいつも以上に強く出ていたようです。 整骨院には、月に一度くらいのペースでまだ通っています。 この当時の日記によると、このところすぐに疲れてしまうので、家事などの立ち仕事がつらい、と記されています。 ある日、何気なくホームセンターのチラシを見ていたら、ぶら下がり健康器が目にとまりました。 変形性股関節症により身体のゆがみを強く感じていることから、ぶら下がってみるとけっこう気持ちいいのではないかと思い、ぶら下がり健康器を買ってみようかと考えました。 でも、置けるようなスペースはあるだろうか? 高齢の両親が危なくないように、家の中をスッキリ片付けている最中だったので、物を増やすようなことはしたくなく、しば
2022年3月末 桜が満開の頃に親友のお母様が亡くなりました。 親友である彼女とは学生時代からの長い長い付き合いです。 お互いにずっと独身で実家で両親と一緒に暮らしていた、という、とても似た境遇であり、今となっては身内に近い存在になっています。 病院ではずっと面会できなかったようで、危篤状態となり約3ヶ月ぶりに、そこでやっと母親に会えたようです。 親の介護がスタートしたのは、私の方がだいぶ早かったのですが、彼女もここ4~5年前くらいからは、在宅での介護をすることになりました。 彼女のお母様は昨年の秋頃までは自宅にいられたようですが、徐々に食事がきちんと摂れなくなり入院。その後、12月頃から病院での点滴となり、結局点滴だけでも3ヶ月以上は生きられたことにはなりますね。 これは当然個人差はあるとは思いますが、ネットで調べてみたところ、老衰に向かう際の点滴になってからの余命は、平均3ヶ月程度のよ
今回は、2014年7月 母の在宅介護5年目の記録を振り返ります。 この年の5月から母はデイサービスに通い始めています。 この頃、デイサービスでの様子をたくさんの画像と共にプリントしたものを初めていただきました。「デイだより」のような新聞形式になっていて、その後も毎月発行されて、家族も見るのを楽しみにしていました。 それを見ると、母は塗り絵やボールゲームをしたり、料理を手伝ったり、歌を歌ったり、お花見や様々なイベントに参加している様子がわかりました。 この頃には家では家事などすることは一切なく、まして料理なんて危なくてさせられるはずはなかったのに、デイでの写真を見ると、包丁を持って野菜を切っているではありませんか!? 後日ワーカーさんからも 「お母さんはまだまだ包丁の使い方も上手です!」 と、言われビックリ! もしかしたら家でも、私がしっかり見守り続けることができたら、母が家事能力を落とすス
変形性股関股節症発症から7年目 2016年3月~5月頃の様子と、2022年現在の様子も併せて書いておきたいと思います。 今回は、股関節痛とは直接関係のない症状についての記録となります。 2016年、この頃から、手の指にポツポツと湿疹が出るようになり、皮膚科に何度か通っています。 最初は手だけだったので、家事や水仕事などをする人によく現われる手湿疹と診断され、塗り薬を処方され、素手で洗い物はしないように言われました。 なので、洗い物をするときには中に綿の手袋をして、外側はゴム手袋といった完全防備状態に。 在宅介護をしていた時期だったので、なにかと洗い物は多く、そのつど二重手袋をするのはとても大変でしたが、湿疹が悪化するのも怖かったので、それでもなんとか頑張ってやっていましたね。 塗り薬にはわりと強めのステロイド剤が出たので、抵抗感はあったものの、塗ってみると、手の湿疹はすぐに治っていきました
今回は、2014年6月 母の在宅介護5年目の記録を振り返ります。 母がデイサービスに行っている間には、日頃できない箇所の掃除などをこなしておく。 母の洗濯物が多い。梅雨時は大変。アイロンも使って頑張って乾かす。 この頃にはまだ少しだけ余裕も作れたのか、図書館にもたまに行っていました。 6/16 母は一晩中右肩を痛がっていて、私も気になりよく眠れず。 一日前のデイサービスでなにかあったのだろうか? 送ってきた際に、ワーカーさんからは特に報告は受けていなかったけれど。 この日の夕方からは体の力も抜け、熱が8度2分ほど出る。 夜寝てからも、なかなかトイレに立つことができず。 翌6/17日 深夜0時過ぎ、リハパンもパジャマもビショビショにしてしまう! なんとか立たせてトイレに向かわせてみたものの、途中で転んでしまい断念。 やっとのことで移動させて布団に戻り、寝かせたままでリハパンもパジャマも交換。
今週のお題「復活してほしいもの」 今回は、お題に沿って書いてみたいと思います。 長く生きていると復活してほしいものといえば、ちょっとやそっとでは語りきれないほどたくさんあるものですね。 まず、私が今真っ先に頭に浮かべた復活して欲しいものは、2年ちょっと前に亡くなった父親かな。 亡くなった人がこの世に復活するなんて、絶対に無理なこととはわかっていても、また会いたいし、この手で触れることができたらどんなにいいだろう、と今でもずっと考えてしまいます。 いつか天国でまた会える! そう信じる気持ちがあるからこそ、その想いに支えられ、自分の人生のゴールまで一生懸命に生きられる気がします。 その次に復活を願うものと言ったら、やはり正常な股関節ですね。 ゆがみも痛みもない、普通に歩くことのできる股関節を復活させたい! その気持ちはずっと変わらずあきらめず、強く持ち続けています。 これって亡くなった父親がこ
変形性股関節症発症から7年目 2016年1月~2月頃の様子と、2022年2月現在の状態についても併せて記録したいと思います。 まずは、2016年2月には、相変わらずウオノメの痛みに悩まされ、スピ-ル膏(薬剤付きのパッド)なども使って除去するために励んでいます。 スピ-ル膏は、ボコッと盛り上がっている部分はよく取れるものの、芯の部分は残ってしまうケースが多く、この当時はウオノメの数も多かったので、思うようにはなりませんでした。 それに、何度も繰り返し使っていると、なんだか皮膚がおかしくなってしまうような不安も感じ、長く使い続けるのは控えました。 ウオノメ削り用のカッターなども使ってマメに削ったりしもしていましたが、足裏の同じ部分に圧がかかり続けている以上、いつまで繰り返してもきれいな状態には戻れません。 この当時はウオノメやタコが両足裏に合計6個くらいありました。 2022年今現在は、右足に
今回は、認知症になった母の在宅介護5年目 2014年5月の記録と、2022年1月現在施設にいる母の様子について書いておきたいと思います。 5/3 初めてのデイサービスに行って帰ってきてからは、思ったより元気そうに見受けられました。しかし、夜間トイレに入ってから出るときに脚の力が入らなかったらしく、トイレの前で転んでしまいました。 突然慣れない環境に身を置いて、肉体的にも精神的にもかなり疲れていたのでしょう。 見た目だけでは なかなかわかりませんでした。 転んだことは本人 ショックだったようですが、特にケガをしている様子はなく、多少打ったところが痛い程度で済みました。 翌朝起きてからも、特にどこか痛がることもなく、いつも通りの生活が送れました。 5/7 とりあえずデイサービスは週1日だけ頼んでいたので、家でもお風呂に入ってもらわないとなりません。 最悪、またなかなか入ってもらえなかったり、
今回は、変形性股関節症になってよかったと、思えることについて書こうと思います。 えっ!? よかったことなんて、本当にあるの❔ と、ほとんどの方は当然思われるでしょう。 もちろん、心からよかった、なんて思えることはありません。 でも、私の人生において簡単には取り除けないこの障害は、私にとってなにか意味のあるものではないかと捉え、そのポジティブな意味についてずっと考えていました。 最初に思いついたよかったことは、障害のある人に対する緊張感がなくなった、という点です。 脚に問題がなかった頃には、障害を持った方が身近にいなかったこともあり、なんとなく抵抗感や緊張感がありました。また、必要があればサポートしたいという気持ちを起こす自分に対しても、偽善的なものを感じモヤモヤすることもありました。 今はそのようなモヤモヤは全くないです。認知症の方に対しても、同様です。 そして、2番目に思いついた良かっ
12月中旬、ドクターから家族にお話があるとのことで、母のいる介護施設から連絡があり、兄とふたりで行ってきました。 施設内の医務室に通され、施設長さんやケアマネさんも同席されました。 今現在の母は、食事が十分に摂れなくなり、体重の著しい減少が起こっています。 昼間でも眠っている時間が多くなっています。 ヘモグロビンの値が5.7と低く、かなりの貧血状態です。 体内出血などはないかの確認のため、簡易CTを撮ったらしいのですが、そこでは明らかな問題は見つからなかったようです。 ただし、入念な検査をしてみれば、重篤な病気は見つかるかもしれません。 今の段階でも、水腎症、腎臓に石、肺にも少し水は溜まっているようですが、年齢を考えると本人に負担のかかる、無理な治療の必要はないでしょうとのこと。 ドクターにしても施設側にしても、私たち家族の今後の意向を確認したかったようです。 それはこの先、母に老衰死へと
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