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【マレーグマ舎】 私達はマレーグマ舎にやって来ました。マレーグマは、クマの種類の中では最も小型なクマですが、東南アジアの熱帯雨林に生息しています。その熱帯雨林を切り開いてアブラヤシ栽培が拡大しています。アブラヤシの実から採取されるパーム油は、ポテトチップスやパンなどの加工食品、洗剤、せっけん、化粧品などに使用されており、生活とは切っても切り離せない植物油です。ところが、アブラヤシ栽培の拡大が熱帯雨林を破壊して、マレーグマの生息地が減少しているのです。【他の写真】 【マレーグマ】 マレーグマはクマの種類の中では最も小型なクマです。木登りが得意で、20cm以上ある長い舌で、果実や虫を食べたり、蜂蜜などをなめたりして生活しています。【他の写真】 【メンフクロウ】 お面をつけているように見えることからメンフクロウと命名されました。南極を除く世界中の全ての大陸に生息していますが、日本には生息していま
周南市徳山動物園のアジアの熱帯雨林ゾーンに私達は来ています。スリランカゾウを見たあと、少し歩いていくと、熱帯いきもの館 “太陽と水の森” が見えてきました。熱帯雨林の地域にはアジアのメコン川、アフリカのコンゴ川、南米のアマゾン川などがあり、その水辺には多数の生き物が生息しています。【他の写真】 【熱帯いきもの館 “太陽と水の森”】 この施設は、熱帯雨林の生態系の仕組みや大切さ、自然と共存する未来を考える空間です。マダガスカルの森、アマゾンの林床、東南アジアのジャングルなどなど。とても楽しみです。【他の写真】 【熱帯いきもの館 “太陽と水の森”の入口ホール】 熱帯雨林で生きる動物や生物を紹介し、その生息地も再現しています。熱帯雨林のジャングルには、両生類や爬虫類も多く潜んでいます。この空間にとても魅せられて、多くの時間を費やしました。カメレオン、ヘビ、トカゲ、カエルなども通常のものと異なり習
【周南市徳山動物園ゲート】 周南市徳山動物園は旧徳山市制25周年を記念して1960年(昭和35年)3月20日開園しました。2023年1月現在で108種類515点の動物を飼育しています。【他の写真】 【周南市徳山動物園入口】 動物園一帯は徳山藩主・毛利氏の屋敷があった場所で、ゆかりの史跡や神社仏閣があります。動物園の前は自然の森の徳山公園として市民に親しまれていました。隣にはKRY山口放送本社があります。【他の写真】 【周南市徳山動物園・園内マップ】 周南市徳山動物園は北園と南園に分かれています。オープンしたアジアの熱帯雨林ゾーンが人気です。春は桜の名所として知られています。【他の写真】 【まど・みちお詩碑】 周南市出身の詩人・作詞家、まど・みちお(1909年11月16日~2014年2月28日)は、童謡「ぞうさん」(作曲・團伊玖磨)の作詞家として知られています。まど・みちお氏は1994年11
【長島の上関港から上関海峡にかかる上関大橋(かみのせきおおはし)を望む<上関大橋のこちら側が長島で向こう側が本土の室津(むろつ)>】 上関大橋は1969年(昭和44年)6月に完成。上関海峡の長島と本土の室津半島を結ぶ全長220m、海面からの高さ23mのプレストレスト・コンクリート箱桁橋です。2020年11月14日午後6時上関大橋が損傷して室津側の主桁端部が浮き上がり、路面に約20cmの段差ができ、そこに乗用車1台が衝突する事故が発生、全面通行止めになりました。復旧工事後、2021年3月26日午前5時通行が全面解除されました。【他の写真】 【上関港から上関町の行政中心地区を望む】 長島の上関港周辺が上関町の行政中心地区で、上関町役場、上関町商工会、山口銀行上関支店、東山口信用金庫上関支店、中国電力海来館、上関航運(有)上関港航路待合所、山口漁業協同組合上関支店、上関タクシー、鳩子てんぷら(上
【上関城の主郭のあった丘の上から上関城山歴史公園(かみのせきじょうやまれきしこうえん・標高58m)の曲輪(くるわ)跡地を望む】 コロナで中止されていた上関城山歴史公園さくらまつり(河津桜)が2月23日から開催中(3月上旬まで)。私達は2月下旬、同公園さくらまつりの花見に来ました。ところが約180本の河津桜の開花はまだ3分咲で、来場者もまばらでした。3分咲でしたが、それなりに美しく、楽しめました。【他の写真】 【階段を上がって冠木門(かぶきもん)を通り上関城の主郭跡の丘に上がります】 冠木門の河津桜も3分咲位です。2019年(平成31年)2月下旬、「第9回さくらまつり」に来た時には、桜が満開で絶景の上関海峡を見降ろす名所、上関城山歴史公園は約6000人(24日)の花見客であふれていました。今年は桜の開花が遅れていて、さくらまつりの期間は3月5日までが3月上旬まで延長されました。【他の写真】
【上関海峡。海峡の左端の上関大橋は上の長島(上関町)と下の室津半島(上関町)を結びます(写真は山口県観光連盟のサイトより)】 「鳩子の海」の上関海峡にやって来ました。上関海峡には、上関城山歴史公園、四階楼、道の駅「上関海峡」、旧上関番所、旧砲台跡、上関大橋、上関海峡温泉「鳩子の湯」、シーサイドホテル上関などの名所、施設があります。私は何回も訪れていて、上関海峡は思い出の場所でもあります。 【上関大橋から「鳩子の海」の上関海峡を望む。右端の建物が上関海峡温泉「鳩子の湯」です】 NHK連続テレビ小説「鳩子の海」(昭和49年4月~昭和50年4月)は、広島の原爆など戦争のショックで記憶を失い、瀬戸内海の港町(上関町=ロケ地)で育てられた少女、鳩子の放浪の軌跡を感動的に描いています。平均視聴率は47.2%、最高視聴率は53.3%。【他の写真】 【「鳩子の海」で成長した鳩子を演じた藤田美保子】 「鳩子
【かぐや姫美術館】 エデンの海パーキングから車で国道185号線を東に少し走ると、かぐや姫美術館があります。本立寺(ほんりゅうじ・日蓮宗)の中にある、かぐや姫美術館は1999年にオープンしました。土蔵を改造した展示室には、木目込み人形作家・金林真多呂(かなばやし・またろ)の作品「かぐや姫」も展示してあります。【他の写真】 【本立寺・堂内】 かぐや姫美術館は長期休館中で中に入れませんでした。本堂の中2階にある「かぐや姫」関連の書籍、文献、研究書などを収蔵している「かぐや姫文庫」も閲覧できなくて残念でした。日本最古の物語、かぐや姫の「竹取物語」は平安時代前期に成立しましたが、作者も正確な成立年も不明です。映画は「かぐや姫」(1935年)、「竹取物語」(1987年)、アニメ「かぐや姫の物語」(2013年)などがあります。【他の写真】 【おとぎ話の板絵】 アーティスト・園山春二(そのやま・しゅんじ)
【国道185号線からエデンの海パーキング・展望台を望む】 私達は、たけはら町並み保存地区から海岸線(国道185号線)に出て、車で東へかなり走って、エデンの海パーキングにやって来ました。このパーキングは、1998年4月にオープンしました。広島市出身の作家・若杉慧(わかすぎ・けい・1903~1987年)の小説「エデンの海」(1946年)は映画「エデンの海」として3回も映画化されました。このパーキングのすぐ近くにあった旧制広島県立忠海高等女学校(現・忠海高校)が小説の舞台となっています。【他の写真】 【エデンの海パーキング横の砂浜からエデンの海(忠海沖)を望む】 「エデンの海」は、瀬戸内海を望む高等女学校に東京から赴任してきた若き生物教師・南條と、両親のいない自由奔放な女子生徒・巴を中心とした女子生徒たちの物語。高等女学校と寄宿舎を舞台にした青春物語ですが、純粋な青春ものではなく、同性愛やエロテ
【胡堂から照蓮寺(しょうれんじ)を望む】 竹原町並み保存地区の本町通りの突き当り(最北端)の胡堂まで来ました。胡堂の東側の奥には照蓮寺がありました。浄土真宗本願寺派の寺で、山号は龍頭山。この寺は江戸時代に恵明(えみょう)、片雲(へんうん)などの優れた学者僧を輩出しました。儒学者・頼春水(らい・しゅんすい=頼山陽の父)一門などもこの寺で学びました。寺にある高麗鐘(こうらいがね=朝鮮鐘)は国の重要文化財です。【他の写真】 【胡堂(えびすどう)】 本町通りの終点(最北端)には胡堂が建っています。竹原市の小祠(しょうし=ほこら)の中でも最古、最大のものです。塩田業が盛んだった頃、胡堂は商業の守り神として祭られていました。毎年10月には商業の繁栄を願い祭礼が行われます。大林宜彦監督の映画「時をかける少女」(1983年)のロケ地としておなじみの人気スポットです。【他の写真】 【胡堂から本町通りを望む】
昔ながらの木造建築の屋敷が建ち並ぶ、たけはら町並み保存地区(重要伝統的建造物保存地区)の本町通りを散策してきましたが、突き当りに、胡堂が見えてきました。通りの散策も終わりに近づきました。【他の写真】 【頼惟清(らい・ただすが)旧宅】 幕末の尊王攘夷運動に多大な影響を与えた歴史家・思想家、頼山陽(らい・さんよう・「日本外史」の著者)の祖父、頼惟清(1707~1783年)が紺屋(こうや=染物屋)を営んでいた邸宅です。江戸中期の1775年頃の建築。昭和32年に県史跡に指定されました。【他の写真】 【頼惟清旧宅・内部】 中央に土間があり、左右に和室がありました。頼惟清は家業の傍ら和歌を学んだ文化人でした。頼惟清の長男、頼春水(らい・しゅんすい=頼山陽の父)も儒学者・詩人で広島藩の藩儒に招聘されました。【他の写真】 【頼惟清旧宅・内部・右側の和室】 座敷の奥には「生涯一片青山」の額がありました。頼山
【たけはら町並み保存地区】 たけはら町並み保存地区を散策、歴史的建築物などを見学しながら中間点位まで来ました。昔ながらの伝統的木造建築の屋敷が立ち並ぶ通りは、塩田と町人文化の隆盛が生んだ歴史の風情が漂っていました。ちなみに竹原市は「北前船寄港地・船主集落」として2019年5月に「日本遺産」にも認定されています。 【初代郵便局跡】 この建物は竹原で初めて郵便局として使用されました。明治4年に建築され、明治7年に郵便取扱所になりました。昭和9年まで70年間、竹原の郵便局として市民に親しまれてきました。ここにあるポストは明治4年のポストと同型のものですが、現在でも郵便ポストとして実際に使用されています。【他の写真】 【竹原町並み保存センター】 「竹原市重要伝統的建造物群保存地区」に指定され保存されている町並みの数々の歴史的建造物。その町並みや建造物、歴史の解説を、このセンターで映像により見るこ
【竹原市歴史民俗資料館】 竹原市歴史民俗資料館の建っている場所は、江戸中期の医者・儒学者、塩谷道碩(しおのや・どうせき・1703~1764年)の旧宅跡です。頼山陽(らい・さんよう・大阪生まれ・歴史家・思想家・漢詩人)の父・春水(しゅんすい)と叔父・春風(しゅんぷう)は道碩の門人でした。道碩の死後、春水と春風が志を受け継ぎ「竹原書院」と命名し学問所を開きました。現在の建物は昭和4年に「町立竹原書院図書館」として建築されたものです。レトロでモダンな洋風建築です。昭和55年に「竹原市歴史民俗資料館」になりました。【他の写真】 【1階ホール展示室】 入口から入ると、すぐにホールがあり、展示室にもなっていました。「竹原の偉人コーナー」や「”日本のウイスキーの父” 竹鶴政孝(たけつる・まさたか)コーナー」などがありました。【他の写真】 【”日本のウイスキーの父” 竹鶴政孝コーナー・1階ホール展示室】
【旧笠井邸前から、たけはら町並み保存地区を望む】 旧笠井邸を出た私達は、たけはら町並み保存地区を巡りました。国の重要伝統的建造物保存地区にも指定されています。塩田と町人文化の隆盛が生んだ重厚な家々が並んだ通りを散策しました。【他の写真】 【旧松阪屋住宅】 少し歩くと左手に数寄屋風の商家の邸宅、旧松阪屋住宅が見えてきました。松坂家は塩田経営、石炭問屋、廻船業、醸造業など多角経営の豪商で、明治維新後に竹原町長も務めた名家です。現在の建物は江戸末期に建築され、明治12年に改築されたものです。当時の当主・松阪昭二は書画や儒学に親しんだ文化人で、見事な京風の庭園も人気です。時間の関係で邸内には入りませんでした。【他の写真】 【お好み焼き店「ほり川」】大正8年創業の醤油醸造元でもあります。店舗は築200年を超える醤油蔵を改装したもの。竹原市を舞台としたアニメ「たまゆら」では、お好み焼店「ほぼろ」として
【頼山陽広場】 「道の駅たけはら」から、たけはら町並み保存地区へ行く途中、本川沿いにある頼山陽広場は、頼山陽(らい・さんよう)の故郷が竹原市であることを記念して平成18年に完成しました。竹原市民の心の中には頼山陽が永遠に生き続けているのでしょう。【他の写真】 【頼山陽銅像、頼山陽の詩碑、頼山陽概略伝記・家系図】 頼山陽広場には頼山陽の銅像や詩碑などが建っています。詩碑には頼山陽の漢詩「題不識庵撃機山図(不識庵 機山を撃つの図に題す)」の「鞭聲粛々夜過河(鞭声粛々夜河を過る)……」が刻まれていました。上杉謙信と武田信玄の川中島の合戦を詠んだこの漢詩は有名です。【他の写真】 【頼山陽銅像】 この座像は頼山陽生誕200年を記念して、彫刻家・南部祥雲氏により製作され、昭和55年7月19日に建立除幕されました。頼山陽は江戸時代後期の安永9年12月27日(1781年1月21日)、大阪生まれ。歴史家・思
【道の駅たけはら】 道の駅たけはらは、まちなか交流拠点を目指して2010年10月オープン。運営管理は(株)いいね竹原(今市恵誉社長)。重要伝統的建造物群保存地区に指定されている、たけはら町並み保存地区の玄関口で、道の駅の外観は、町並み保存地区の伝統的な景観に配慮したデザインです。同地区にはここから歩いて行けます。見えませんが手前には駐車場(無料)があり、田ノ浦川にかかる小さな赤い橋を渡って道の駅に行きます。【他の写真】 【正一位玉福神社】 道の駅たけはらの敷地内にあります。 正一位は、神階では最高位の神社ですが、通称「たまふくさん」と呼ばれていて、パワースポットになっているそうです。【他の写真】 【道の駅たけはら・道路情報提供スペース・1階】 私達が南側の入口を入ると広い情報コーナーと休憩スペースがありました。道の駅の内部は、あちらこちらにアニメ「たまゆら」(竹原を舞台に女子高生達が夢を追
【高台の普明閣(ふめいかく)より、たけはら町並み保存地区(手前)と扇状に広がる竹原市街を望む。遠方の山は竹原市の西に聳える朝日山(あさひやま・標高454m)】 広島県竹原市を訪れました。平安時代に京都・下鴨(しもがも)神社の荘園として栄えた所以から、竹原市は「安芸の小京都」と呼ばれています。竹原市の人口は23993人(令和4年8月31日現在)。竹原市出身の郷土の有名人は➡【他の写真】 【エデンの海展望台(パーキングエリア)横の砂浜の上から忠海沖の瀬戸内海を望む。日本一高い送電鉄塔(226m)が建っている島が、うさぎの島・大久野島(おおくのしま)】 交通の要衝として発展した竹原市は室町時代より港町として知られ、江戸時代後期には製塩業で栄えました。1982年、たけはら町並み保存地区が国の重要伝統的建造物群保存地区に選定され、2000年に「都市景観100選」に選ばれました。また、「市の木」が竹で
西側から虹ケ浜海水浴場(全長約2.4km)の東側を望む。8月末なので海水浴客は少ないです。室積海水浴場と形状が似ています。広々とした遠浅のビーチで、砂も細かく水もきれいなので人気の海水浴場です。東側の端の沖にある大きな島は大水無瀬島(おおみなせしま・無人島)、その右の小さな島2つは小水無瀬島(こみなせしま・無人島)。 西側の防風保安林近くから東側の虹ケ浜海水浴場を望む。瀬戸内海国立公園に位置する虹ケ浜海水浴場は室積海水浴場とともに西日本屈指の海水浴場として親しまれています。遠浅で安全なので人気があります。光市を流れる島田川(2級河川)を挟んで、西側すぐ近くに虹ケ浜海水浴場、東側の離れたところに室積海水浴場があります。 防風保安林近くから虹ケ浜海水浴場と瀬戸内海を望む。「虹ケ浜」という地名の由来は、「光市地名考」(古野秀夫編著・光地方史研究会・昭和52年)によると「毛利藩主が船で通りかかった
室積海岸を西側の端から東側を望む。全長約5kmに及ぶ室積海水浴場の後ろには広大な防風保安林が設置されています。遠く室積半島の先端には峨嵋山が見えます。【他の写真】 海水浴場から防風保安林(東方向)を望む。防風保安林は農林水産省の外局である林野庁が指定します。防風保安林の役割は「林冠をもって障壁を形成して風に抵抗してそのエネルギーを減殺・攪乱することにより風速を緩和して風害を阻止します」とあります。ちなみに、指定保安林は、土砂流出防備保安林、飛砂防備保安林、水害防備保安林、防雪保安林、なだれ防止保安林など17種類あります。 海水浴場から防風保安林(西方向)を望む。室積海岸の防風保安林の区域面積は7.7ヘクタールで東京ドーム(4.7ヘクタール)の約1.6倍の面積です。 室積海水浴場の防風保安林の中。このクロマツの保安林は「日本の名松100選」と「森林浴の森日本100選」に選ばれています。防風保
室積海水浴場入口。今回は、お盆を過ぎて室積海岸を訪れました。国道188号線沿いの入口から南側の道路を進めばすぐ室積海水浴場があります。室積海岸は瀬戸内海国立公園に指定されています。【他の写真】 この入口の道路の突き当りが室積海岸で、その大部分が室積海水浴場になっています。ここは海岸の東側なので、入口道路の突き当りを右折して西側の端まで車を走らせます(厳密に言えば室積海水浴場は北西から南東に延びています)。 室積海水浴場(西側の端から撮影)。約5kmにわたってゆるやかに弧を描く白砂青松の海岸は西日本有数の海水浴場です。砂浜の後ろには防風保安林のクロマツの松林が広がっています。水のきれいな美しい海水浴場です。コロナの影響と盆過ぎなので人はとても少なかったです。以前は年間数十万人の海水浴客で賑わったのですが、現在は極端に減少しています。その理由は平成11年、この室積海岸に巨大なホホジロザメが出現
室積半島(むろづみはんとう)の先端に聳える峨嵋山(がびさん)。峨嵋山は普賢寺の近くにあり、峨嵋山樹林は文化庁所管の天然記念物に指定されています。標高117mで、山口県百名山では2番目に低い山です。 峨嵋山麓、普賢寺の隣には、光市室積出身の外交官、松岡洋右(まつおか・ようすけ)の碑がありました。国際連盟総会に日本政府全権として出席した松岡洋右は、昭和8年2月24日、国際連盟脱退宣言書を朗読し退場しました(日本政府の既定方針)。その後、満鉄総裁、外務大臣を歴任。日独伊三国同盟、日ソ中立条約を締結しました。【他の写真】 峨嵋山自然研究路入口。国指定天然記念物に指定されている峨嵋山樹林の中を、峨嵋山の山頂に向かって登って行きます。途中には解説板が13カ所に設置してあります。赤い鳥居がありましたが、峨嵋山には杵崎神社(きざきじんじゃ)と護国神社があります。また、鼓ヶ浦海岸はクサフグの産卵地として知ら
普賢菩薩堂(普賢堂)の仁王門(山門)。仁王門は寛政10年(1798年)に建立されました(1917年に改修)。木造の金剛力士像(仁王様)が両脇に安置されています。金剛力士像は、最初は普賢菩薩堂に安置されていましたが、拝殿が狭くなったので、仁王門を建立し安置しました。【他の写真】 仁王門から普賢菩薩堂への参道を望む。仁王門の楼上には仏教開祖の釈迦牟尼仏(しゃかむにぶつ=お釈迦様)を主尊に、左側に光厳童子(こうごんどうじ=修行者・菩薩)、右側に月蓋長者(がっかいちょうじゃ=インドの大富豪)を配して、その両側に十六羅漢(じゅうろくらかん=仏法を護持する16人の羅漢)が安置されています。毎年5月14日、15日に普賢まつりが開催され、この参道や周囲の道路には多数の露店が並びます。今年はコロナの影響で3年ぶりに同まつりが開催されましたが、規模は縮小され、例年約200店もの露店が出ますが、今年は約50店の
臨済宗・普賢寺(ふげんじ)参道。今回、私達は普賢寺を訪れました。長い参道の塀の右側に普賢寺・本堂があり、そばには雪舟庭もあります。山道の奥に山門があります。毎年5月14日、15日に盛大に行われる普賢まつりは、この普賢寺から少し離れたところにある普賢堂(ふげんどう)で主に開催されています。【他の写真】 臨済宗・普賢寺の山門。普賢寺の正式名は峨嵋山普賢禅寺(がびざんふげんぜんじ)で、臨済宗建仁寺(けんにんじ)派の禅宗の寺院です。安置してある普賢菩薩は延命の仏、海の守護仏として信仰を集めています。 臨済宗・普賢寺。山門から私達は境内の中に入りました。左の建物が本堂で、その奥に山口県指定文化財・名勝の普賢寺庭園(雪舟庭)があります。【他の写真】 普賢寺の境内。境内で写真撮りをしていたら、年配の女性が私に話しかけてきました。普賢寺44世住職・桝野象堂さんの奥様でした。奥様は境内を案内しながら、普賢寺
光ふるさと郷土館(海商通り)。光ふるさと郷土館は平成5年9月オープンしました。光市制50周年記念として、また、ふるさと創生事業の一つとして整備されました。同郷土館の建物は明治初期に建てられた商家です。この商家は、江戸時代から昭和30年代にかけて醬油製造業や廻船業などを営んでいた磯部家を修復したものです。【他の写真】 光ふるさと郷土館入口。館内は休憩室と、第1展示室から第6展示室まであります。江戸時代末期~明治時代の商家の帳場、奥座敷の商家の和室、ふるさとギャラリー、醤油づくりの様子の再現、室積の漁業、船箪笥、弁才船の大型模型、廻船資料など、海上交通で繁栄した室積の歴史・風土が紹介されています。 光ふるさと郷土館内部・休憩室。ここでは光市、室積を紹介する古文書の写し、写真、海の商人・磯部家に関する古文書、自由律俳句の俳人・種田山頭火の資料などが展示されています。【他の写真】 光ふるさと郷土館
室積半島の海商通り。普賢寺前と早長八幡宮を結ぶ通りが海商通りです。車を置いて、ぶらぶらと歩いて光ふるさと郷土館(左手前の建物)まで来ました。遠くの左側に専光寺、その向こうの右側に海商館があります。海商通りは古い家屋を生かしたお店が点在し、室積港が北前船の寄港地として栄えた当時をしのばせる通りです。【他の写真】 専光寺(海商通り)。浄土宗・専光寺(創建は不明)は室町時代、大内氏の頃から外交使節や高官をこの寺で接待していたことから「外来館・官の館」と呼ばれ、毛利氏の時代には渉外館として利用されました。慶応元年(1865年)1月、この専光寺で後の第二奇兵隊となる「真武隊」が結成され、2月に本拠地を普賢寺に移し南奇兵隊と改称されました。さらに4月に石城山(いわきさん・標高362m・光市・田布施町)山頂の神護寺に本営を移し、第二奇兵隊となりました。なお、幕末諸事件の裁判もこの寺で開かれています。【他
【温泉リゾートホテル「かんぽの宿 光」6階展望フロアから室積半島を望む】。今回は、瀬戸内海の室積半島(むろづみはんとう)を訪れました。今日は海も空も青いです。風光明媚な自然に抱かれた歴史と海商の街を巡ります。室積半島の先端には7つの尾根からなる半円形の峨眉山(がびざん・瀬戸内海国立公園)が聳えています。【他の写真】 【室積半島の先端の峨眉山。その左端には美しい象鼻ヶ岬(ぞうびがさき)があります】。峨眉山の7つの尾根は、元々7つの山からなる半円形の連山でした。左から、東崎山、月待山、日和山、大多和羅山(峨眉山<中央の一番高い山>標高116.9m)、杵崎山、高山、西崎山(魚見山)。この7つの山からなる連山は、遙か古には海に浮かぶ島でした。 【象鼻ヶ岬(写真は「山口県の史跡」より)。本土の右端に「かんぽの宿 光」が見えます】。象の鼻に似ていることから命名された象鼻ヶ岬は景観の美しさから、「天の橋
TOSOH PARK 永源山の遊歩道。「ゆめ風車」のある永源山山頂の「えいげんの丘」から遊歩道を下りて行きます。国際交流と歴史、文学と芸術にふれることのできる遊歩道でした。【他の写真】 カロヨン広場まで下ってきました。ヨーロッパで普及したカロヨン(カリヨン)は、日本語では「組み鐘」と称される有音程打楽器です。現在の形態に近いものは15世紀にオランダで開発され世界中に普及しています。時を告げるだけでなく、演奏楽器として、その都市特有の旋律を代々伝えてきました。【他の写真】 カロヨン広場にある永源山北3号古墳。5世紀の豪族の古墳です。郷土の歴史を垣間見せてくれました。墳丘の低い小型の円墳です。内部の箱式石棺には30歳代の男性の頭蓋骨だけが残っていました。副葬品は刀剣や鉄の矢じりなど。他にも、北1号古墳、北4号古墳などがありました。【他の写真】 遊歩道をかなり歩いて来ました。東屋があったので、休
TOSOH PARK 永源山。永源山山頂の、えいげんの丘(標高90m)では、「ゆめ風車」の周囲に、チューリップと桜が咲き誇っていました。その風景がハーモニー(調和)を醸し出し、訪れる人々の目を楽しませていました。【他の写真】 「ゆめ風車」内部へ入りました。中で、最初に風車の仕組みについて学びました。風車の操作は、まず、風向き調節ウインチのハンドルを回して、羽根を風上に向くように調節し、羽根と帆を張ります。帆は風の強さに応じて、全面あるいは部分的に張ります。強風時には帆を張らずに回転させます。4枚の羽根に帆を張り終わったら、ブレーキバーでブレーキを外し、風車を回転させます。【他の写真】 「ゆめ風車」内部1階。「ゆめ風車」は周南市と姉妹都市、オランダ・フローニンゲン州のデルフザイル市(人口約25000人)に実際にある風車を基本に建設されました。1階にはストリートオルガン、カロヨン、風車の仕組み
TOSOH PARK 永源山「母と子の広場」から少し上った所にバーゴラ広場がありました。これからもっと高い永源山山頂の「えいげんの丘」を目指して、徒歩で登っていきます。【他の写真】 永源山山頂付近まで上って来ました。遊歩道には花時計がありました。 花時計。正確に動いていました。文字盤の9時の位置には、周南市の姉妹都市、オランダのデルフザイル市の名前が表示されていました。【他の写真】 「TOSOH PARK 永源山」の永源山山頂にある「えいげんの丘」まで上って来ました。左側に展望台とその奥に風車が見えます。これが「ゆめ風車」です。周南市はオランダのフローニンゲン州デルフザイル市と姉妹都市提携をしています。【他の写真】 永源山山頂の展望台に上がってみました。桜が満開でした。この展望台からは瀬戸内海に浮かぶ島々と、快晴で澄み渡った日には、遙か遠くに九州の大分県も望めます。瀬戸内海に桜を入れてシャ
【TOSOH PARK 永源山(永源山公園)の「ゆめ風車」】 標高約90mの丘、永源山山頂の展望台から「ゆめ風車」と瀬戸内海を望む。瀬戸内工業地域の周南コンビナートが広がっています。中央に周南大橋があり、周南大橋を渡った左側に、東ソー・エスジーエム(株)、東ソー・ファインケム(株)など東ソー(株)の工場群が展開しています。その向こうの小山のような島が黒髪島(くろかみじま・国有地)です。黒髪島では御影石が採掘され、1917年の国会議事堂の建設には黒髪島の御影石が使用されました。その右の細長い島が大津島。大津島は太平洋戦争中、人間魚雷回天の基地でした。回天記念館があります。【他の写真】 【TOSOH PARK 永源山入口から、幹線園路の広いケヤキ並木道を通って永源山山頂の丘の上にある「ゆめ風車」まで歩いて登っていきます】 永源山公園は令和3年4月1日から、東ソー株式会社(本社・東京都港区、本店
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