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よしをです。 ユニバーサル・ベーシック・インカム(UBI)は、 国民が最低限の生活を営めるだけの資金を、 国家が国民一律に支給するという制度です。 経済格差が拡大し、無人化や自動化といった労働環境の変化をうけて、 UBIは世界的にも注目を集めています。 すでに外国では社会実験がおこなわれています。 2016年にはスイスでUBIの導入について国民投票がおこなわれ、 フィンランドやオランダでは、小規模の実証実験がおこなわれるなどの 取り組みがされています。 イギリスやスペインは、UBIの検討や導入を発表していますが、 まだ現時点では、UBIを全面的に導入した国はありません。 日本では武漢肺炎の経済対策として、 全国民一律10万円の特別給付金が支給されましたが、 これは部分的なUBIの取り組みといえるかもしれません。 UBI導入のメリットはいくつかあります。 努力して収入を増やせば、その分豊かに
よしをです。 滑稽話や人情噺を得意にした五代目古今亭志ん生ですが、 ほかの落語家とは違い、陰惨な内容を滑稽に演じる独特のスタイルで、 「黄金餅」や「藁人形」などの怪談話をよく演じていました。 江戸永代橋脇に小さな注ぎ酒屋を営む夫婦がいました。 この店に、行商の老人が毎晩やってきては、 「(一合枡に)半分だけお願いします」と、五勺だけ酒を頼み、 それを飲み終わると、「もう半分」といって、また五勺注文するという、 かわった酒の飲み方をしていました。 1合の酒を半分ずつ飲んだ方が、得をしたように感じるというのです。 ある日、老人が店に風呂敷包みを置き忘れて帰ってしまいました。 店主が中を確かめると、50両もの大金の包みが入っていました。 悪心をおこした店主は、慌てて風呂敷包みを取りに戻った老人に、 知らぬ存ぜぬの態度を貫きます。 老人は、「娘が吉原に身売りをしてつくった金だ」と明かしますが、 あ
よしをです。 第二次大戦中、三菱が設計した零戦は、 優れた機動性により、緒戦では圧倒的な優位を保っていましたが、 防弾装備の不備や、急降下性能の弱点から、 次第に劣勢に立たされていきました。 当時の日本の戦闘機に搭載されていたエンジンは1000馬力クラスであり、 アメリカの強力な戦闘機に対抗する大出力エンジンが望まれていました。 中島飛行機が開発したエンジン「誉(ほまれ)」は、 零戦などに搭載されていた14気筒エンジン「栄(さかえ)」を 18気筒に強化して出力を向上させると同時に、軽量化を図りました。 アメリカのエンジンよりも一回り小さく、軽量であるも関わらず、 2000馬力を出せる、驚異的な高性能エンジンでした。 誉は昭和17年に生産を開始し、すぐに量産体制に入りました。 昭和19年6月、誉エンジンを搭載した高速偵察機「彩雲」は、 マリアナ沖のアメリカ機動部隊を偵察したおり、 グラマン戦
よしをです。 三国時代、武勇絶倫の名を欲しいままにし、戦乱を駆け巡った呂布は、 数多い三国志の英雄のなかでも異彩を放っています。 呂布の人生は、裏切りの連続でした。 かつての主君である丁原と董卓を殺し、 袁術に身を寄せますが、裏切って逃亡し、 袁紹に与力して、兵力1万の黒山賊を手勢の数十騎で打ち破りました。 その後、呂布は独立勢力を築いて、 1年以上にわたって曹操と激戦を繰り広げて破れると、 放浪の果てにたどり着いたのが、劉備が治める徐州でした。 ところが、ここでも呂布は劉備を裏切りました。 呂布は、劉備の出陣中に城を奪うと、劉備は曹操と組んで反撃に転じました。 劣勢に立たされた呂布は籠城の末、ついに降伏しました。 がんじがらめに縛られて曹操の前に引き出された呂布は、 絞首刑により、生涯を終えました。 生年も不詳につき、死んだ年齢もわかっていません。 実は呂布は漢民族ではありません。 かれ
よしをです。 ネットの質問コーナーで、このような相談を見つけました。 娘の名前が、「みなみ」なのだが、 結婚を前提にお付き合いをしている男性がいて、 その人の苗字が、「みなみ」だというのです。 もし、結婚すると、名前が、「みなみ みなみ」になってしまうので、 悩んでいるという相談でした。 昔、阪神タイガースにいた、真弓選手について、 「奥さんの名前が『まゆみ』だったら、笑うな」、などと思ったものです。 男だったら、五郎丸五郎とか。 当たり前ですが、本人にしてみれば、深刻な悩みです。 理由があれば、戸籍上の名前を変更することは可能です。 家庭裁判所に、申立書など、必要な書類を用意して提出するだけで、 15歳以上であれば、本人の申し出で改名できます。 ただし、改名が許可されるかどうかは、裁判所の判断になるので、 家裁への説明のために、説得力をもたせたい場合は、 許可が出やすいような申立書の書き
よしをです。 関ケ原では、結局、最後まで島津軍は動きませんでした。 やがて、西軍の敗勢が決定的になり、 西軍は戦場の後方にある、北国街道に殺到しましたが、 退路はすでに大混雑で、初動が遅れた島津義弘率いる島津隊300は、 周囲を東軍に囲まれてしまいました。 戦場から逃れるためには、北国街道ではなく、 敵中を正面突破して、別のルートで離脱しなければなりません。 島津隊は敗走する小西行長、宇喜田秀家隊に鉄砲を向けて追い払うと、 軍の誇りである、十字の旗指物を捨て、徳川本陣に突撃しました。 そのまま南方の伊勢街道に進路を変えると、 徳川軍は、島津隊のあまりの大胆さに衝撃を受け、 しばらく、呆気にとられて見守っていたといわれています。 少し遅れて、本多忠勝、井伊直正、松平忠吉が組織する追撃隊が、 島津隊に向かいました。 島津隊は退路の途中、300の軍勢から、しんがりとして数人を座らせました。 かれ
よしをです。 ミヤンマーの国家顧問にして、事実上の国家元首である、 アウンサンスーチーは、 長期間の軟禁状態に耐えて、非暴力主義を貫いて、ミヤンマーの民主化を導き、 1991年にはノーベル平和賞を贈られました。 そのアウンサンスーチーが、 イスラム系少数民族ロヒンギャに対する非道な迫害に加担したとして、 非難にさらされています。 ミヤンマーの先住民の多くは、仏教徒のビルマ人(人口の70%)で、 ビルマ人以外の少数民族も加えると、 国内の仏教徒は、人口の90%以上を占めています。 仏教国といえるミヤンマーにあって、 イスラム教徒のロヒンギャは、推定人口200万人のマイノリティでした。 あらたな入植者と既存の住民とのトラブルは、 現在、アメリカで暴動に発展している黒人差別問題や、イスラエル問題など、 世界各地で散見することができます。 ドイツにおけるトルコ人労働者差別や、日本における在日朝鮮人
よしをです。 歌川広重の出世作「東海道五十三次」が描かれたのは1833年、 広重37歳のときでした。 その前年に京都に旅して構想を得たとされていますが、 実際には広重は旅行をしていないという説が有力です。 まず箱根の図には存在しない巨石がそびえ立っています。 天下の険をモチーフに、 芸術としてデフォルメされた姿としてみることもできますが、 箱根を越えると、さらに実態とは異なる景色が多くなっていきます。 傑作のひとつに数えられる蒲原(静岡県)の図は雪風景ですが、 温暖な静岡でこれほどの積雪があるとは考えられませんし、 終着の三条大橋では、石造りの脚柱をもつ巨大な橋を木製として描くなど、 細かな現実との違いを指摘されています。 最近の研究では、広重作「東海道五十三次」は、 司馬江漢の「東海土五十三次画帖」や「春波楼画譜」、 あるいは数人の合作である「東海道名所図会」を手本にした、 という説が有
よしをです。 マキャベリの「君主論」の一節に、 「優柔不断な君主は、当座の危険を避けようとして、中立の道を選び、 大抵失敗する」とあり、わたしは、この言葉を座右の銘としています。 決断できることが才能の大きな要素であり、 その結末についても、自分の責任として受け止めなければなりません。 これは、わたしの「卒サラ」の最大のテーマでもありますが、 人生において、一度は清水の舞台から飛び降りてみることが必要です。 「君主論」は、さまざまなビジネス書にも取り上げられ、 現代では、目的のためには手段を択ばないという意味で、 マキャベリズムという言葉が使われています。 人も組織も、理想論や人情で動かすことはできず、 指導者というのは、リアリストでなければならないという「君主論」の論旨から、 マキャベリ自身が、強力な信念の持ち主であると思われがちですが、 かれの実態は、想像とは少し異なっています。 ニコ
よしをです。 日頃から、AIという言葉が好きになれず、 常日頃「日本語で『人工知能』といえばいいのに」と思っています。 人工知能の発展は目を見張るものがあり、 古文書のくずし文字を90%解読するというソフトが開発されたという、 記事を見つけました。 「KURONET」という文字解読ソフトを開発したのは、 タイ出身の日本の古典の研究者です。 この開発者によれば、古典の文字解読は、 専門家でも1ページあたり10分程度はかかりますが、 この人工知能をつかえば、1ページを1秒間で解読できるといいます。 しかし、仔細に記事を読んでみると、 90%というのは江戸時代の版木本の解読段階だそうで、 江戸時代以前の文書をはじめ、 肉筆の文書を解読するまでの能力は備わっていないようです。 これまでも、人工知能をつかった古文書解読の実績はありますが、 従前のものは、文字の並びを認識して、 センテンスごとに解読す
よしをです。 先日、広島県の選挙違反事案にからんで、現金を受け取った某市長が、 頭を丸刈りにして謝罪会見に臨み、その後辞職しました。 なぜか、日本では反省の意思を示すために、 頭を丸めることがおこなわれています。 過去には、年金未納が発覚し、民主党代表を辞任した菅直人氏も、 頭を丸めてお遍路の旅に出ました。 そもそも、丸刈りは反省した証になるのでしょうか。 丸坊主になったところで、いずれ髪は生えてくるし、 もし丸坊主を謝罪の証とするのであれば、 その人物にとって大切なものとは髪であり、 しかもその「反省の度合い」は、 数か月で元に戻る程度のものということになってしまいます。 古代中国では犯罪者の髪を剃ることがおこなわれていました。 三国志の時代、蜀の馬謖が独断的な采配が原因で街亭の戦いに敗れた際、 諸葛亮によって馬謖には死罪が命じられましたが、 馬謖の幕僚全員は連座制で剃髪の刑を命じられた
よしをです。 「仙台遷都などアホなことを考えてる人がおるそうやけど…(中略)、東北は熊襲(ママ)の産地で文化的程度も極めて低い」。 1988年のサントリー佐治敬三社長のテレビ番組での発言が、 大きな反響を呼びました。 熊襲(くまそ)とは、 古代日本において、大和朝廷に対抗した九州地方の勢力のことで、 同じように、東北地方に存在していた反朝廷勢力は、 蝦夷(えみし)と呼ばれていました。 いずれの勢力も、畿内の朝廷からみた蛮族に対する蔑称です。 したがって、佐治氏は「蝦夷」というべきでしたが、 さすがに「文化的程度も極めて低い」は言葉が過ぎ、 東北地方でサントリーの不買運動が起こりました。 首都移転構想は、かつて河野一郎建設大臣が、 静岡県浜名湖畔への首都移転を検討していたことに遡りますが、 河野氏の急死で構想は頓挫しました。 その後バブル景気で首都圏の地価が高騰したことから移転構想が再浮上し
よしをです。 昨今はサンマが大不漁です。 ご祝儀価格なのでしょうが、 先日は店頭で一尾6000円の値がついたということです。 不漁が続くサンマは、高級魚になりつつあるのかもしれません。 江戸時代には、サンマは庶民のための安価な魚でした。 それは、当時の人にはあっさりとした魚が人気だったためで、 マグロのトロと同様、サンマはあまり好まれなかったといわれています。 脂ののったサンマは行灯の油をとるために使われたそうですから、 随分と雑な扱いをされていたものです。 サンマがどこに生息しているのかは、あまり注目されていませんが、 普段は太平洋の真ん中、ハワイの北あたりを回遊しています。 かれらは産卵するために群れとなって秋頃に南に移動するのですが、 その一部が日本の沿岸近くを通過します。 それが秋サンマであり、産卵前なので脂がしっかり乗っています。 日本の水揚げの大部分を占める秋の回遊群は、 現在
よしをです。 世の中には、多くの未来予想がありますが、 容易に予測できるものと、予測が難しいものに分類されます。 将来の人口予想は、戦争や大規模災害などの変数がなければ、 過去の死亡率や出生率から、かなり正確な数値を導き出すことができます。 その一方で、新技術の普及率など、過去のデータがないケースは、 仮説の前提として、何を変数要因として重視するかによって、 予想の方向は大きく変わり、 要するに、「当たるも八卦、当たらぬも八卦」になってしまいます。 未来予想は、楽観論と悲観論に分類することもできます。 悲観論は、科学的な根拠に基づいていると思いきや、 実際には、最悪のシナリオを避けたいという、 情緒的な願いに由来していることが多いのです。 それらしいデータが並べてあっても、 それが実現不可能なぐらいに過大に評価されているなど、 多くの悲観論の根底には、 あえて最悪のケースを導き出すための恣
よしをです。 公職選挙法によれば、公職の候補者が、虚偽の事項を公にした場合、 2年以下の禁固または30万円以下の罰金に処せられます。 最近の政治家の経歴詐称といえば、 参院議員蓮舫氏の国籍問題が思い浮かびますが、 もっとも多い経歴詐称は、学歴に関するものでしょう。 なぜ、政治家の学歴詐称がなくならないのかといえば、 候補者の見得、もしくは、学歴が有権者の投票行動に影響すると、 候補者自身が考えているからなのでしょう。 とくに外国の大学の場合、真偽を突き止めにくいという事情もあります。 小池百合子氏は、1952年、兵庫県芦屋市生まれ。 甲南女子高校を卒業後、関西学院大学社会学部に入学しますが、 中退して、エジプトに留学します。 カイロ・アメリカン大学からカイロ大学に移り、 カイロ大学を1976年に卒業しました(主席卒業と説明)。 帰国後は、アラビア語通訳として、しばらく活動し、 1979年か
よしをです。 5月14日の当ブログの記事(「感染拡大の原因は第2波だった」)でも 言及したように、現在の武漢肺炎の日本国内の流行は、 欧米からの帰国者(無自覚の感染者)が原因であるという主張が、 主流になってきました。 日本国内の感染状況が示すように、 第1波の武漢由来のウイルスは、1~2月の春節前後に持ち込まれ、 3月までに一旦収束しているとみることができます。 その後、3月に欧米で感染が爆発し、 3月下旬までに、感染地域からの帰国者がウイルスを持ち込み、 日本国内で感染を拡大させました。 これが感染の第2波だと考えられます。 わたしの記事でも言及していますが、 感染拡大地域が、首都圏と関西に集中していることは、 これらの都市部に、帰国者が多いという事実と一致しています。 つたないわたしの試算では、欧米からの帰国者のうち、 無自覚のウイルス感染者が2500人いるとしていましたが、 専門家
よしをです。 全国で緊急事態宣言が解除されました。 多くの日本国民の高いモラルや協力の賜物があったことは確かですが、 医療従事者の懸命の努力と、 遅ればせながら、政府のバックアップも多少は寄与したかもしれません。 PCR検査の少なさを批判していた海外メディアも、 圧倒的に被害を食い止めている日本の対策を評価し、 日本から学ぶものはなにかといった論調に変化しつつあります。 マッチポンプのような日本のマスコミにも、 根拠のない危機を煽るのではなく、自発的に変化してもらいたいものです。 それにしても、日本においては、まるで異次元のように、 感染者や死亡者が少ないのは、一体どうしたわけでしょうか。 4月中旬の段階で、厚生労働省の対策班は、 人との接触を減らすなどの対策を取らない限り、 国内の重篤患者は85万人になり、 40万人が死亡するという試算を発表していたのです。 西欧やアメリカで爆発感染が広
よしをです。 中国の富裕層の投資先は、 国内の不動産価格の停滞から、海外不動産と現物投資に移行しました。 日本のタワーマンションなどは、中国人投資家のターゲットになり、 違法民泊などは、社会問題になっています。 現物投資のほうは、貴金属や珊瑚のほかに、 シングルモルトウイスキーやボルドーワインへの投機が目立ちます。 中国近海では、高価な珊瑚を獲りつくし、 日本近海における、中国船の珊瑚の乱獲も問題になりました。 清末以降、膨大な数の書画骨董が、西欧や日本に流出したため、 現在、中国国内には、めぼしい骨董品は残っていません。 したがって、海外に流出した美術品を買い戻す動きが盛んで、 国際的なオークションでも、中国人コレクターの参入が目立ちます。 たとえば、サザビーズでは、 2014年に、明代(15世紀)成化の酒杯が、 中国の陶磁器としては、史上最高額の3600万ドル(約36億円)で、 上海の
よしをです。 加藤清正は、毒殺されたという説があります。 1611年に、二条城でおこなわれた、 徳川家康と豊臣秀頼との会見の3か月後、 会見に同席した加藤清正は、 領国の熊本に帰る船内で急遽体調を崩し、熊本で死去しました。 働き盛りの49歳でした。 家康は秀頼との会見の場で、秀頼の毒殺を図って、 毒の入った饅頭をすすめますが、それを察知した清正が、 自らその毒饅頭を食して、秀頼の身代わりになったというのです。 遅効性の毒だったために、3か月経ってから、体に毒が回り、 清正は倒れたというのですが…。 加藤清正は、民衆に人気があり、落語にも度々登場します。 加藤清正を敬愛する、「清正公酒屋」の息子の清七は、 饅頭屋「虎屋」の娘といい仲になります。 清正公酒屋と虎屋には、古くからの因縁があり、 清七の父親は、娘と別れるようにと、清七を説得しますが、 清七は勘当されても別れないといいます。 困った
よしをです。 江戸時代にも、不動産業がありました。 とくに100万都市・江戸の住宅事情は、幕府の管理の及ぶものではなく、 もし、民間の不動産業が有効に働かなかったとすれば、 江戸の町の機能は、正常に成立しなかったことでしょう。 江戸庶民の住まいといえば、いわゆる長屋(ながや)とよばれるもので、 現代でも、古い町並みなどにある、連棟(れんとう)に、 江戸時代からの名残を、みることができます。 江戸の町は、階層によって住居地域が決められていましたが、 庶民の町(町人地)は、面積にして、江戸全体の15%を占め、 人口にして、およそ50万人の庶民が生活し、 そのうち、35万人が、借家暮らしをしていたと推定されています。 長屋は、間口の狭く、奥に長い、 鰻の寝床のような、長い長方形が標準です。 管理人のことを大家、借家人を店子といいます。 現代では、大家とは、物件のオーナーを指しますが、 江戸時代で
よしをです。 新聞や雑誌の部数が右肩下がりに減少していますが、 テレビ局の売上も、厳しい見込みが続いています。 BSやCS、通信会社など、競合会社はどんどん出てきていますが、 旧態依然とした民放テレビ業界は、 規制改革(門戸開放)の動きをストップさせようと必死です。 今回は、わたしたちになじみ深い、民放テレビ局について、 考察していきたいと思います。 まず、最初にお断りです。 普段、このブログでは、 政治や特定の思想については、言及しないようにしています。 しかし、マスコミの話題となると、 どうしても、微妙な話題を避けることができませんので、 わたしの個人的な考えも、同時にお伝えしていく事になります。 マスコミは、一部のメディアを除いて、反安倍内閣で、ほぼ一色です。 テレビ局も例外ではありません。 その理由は、以下の内閣の方針にあると考察しています。 ①通信会社への門戸開放 ②憲法改正 そ
よしをです。 以前、このブログで、 新聞社の、お寒い現状について、お伝えしました(「新聞社の闇」を参照)。 現在600万部と公称する朝日新聞の発行部数は、 一定のファン層がいることを考えると、 将来的に、200万部程度に落ち着くのではないかとみていますが、 それでも、 朝日新聞が、経営的に苦境に陥るところまではいかないと思います。 その理由は、以前も申し上げたように、 かれらは莫大な不動産を保有しているからです。 民放も、ほかの視聴メディアやネット広告との競合激化により、 長期的には、広告収入を減らしていきます。 東京キー局は、都内に大きな不動産資産を保有していますが、 全国各地に不動産を保有する、新聞社ほどではありません。 したがって、かれらには自己防衛のために、 身を切る改革が迫られています。 キー局の足かせとなっているポイントは、大きく2つあります。 ①制作費(あるいは人件費) ②系
よしをです。 就職戦線は、現在、売り手市場になり、 どの企業でも新規採用が難しくなっています。 その結果(というかなんというか)、 トンデモ応募者のエピソードにも、事欠かなくなっているようです。 先日、取引先の担当者と雑談をしていて、 いくつか、特徴的なエピソードを入手しましたので、お伝えします。 この会社は、名前は伏せますが、誰でも知っている、 東証一部上場の企業で、 毎年、就職ランキングでも上位に入る有名企業です。 かれは、人事部門の担当が長く、最近になって販売部門に異動になった人。 わたしが管理部門での苦労話を聞いたところ、 人事採用の、生々しい苦労話を聞く機会を得ました。 (その1) 電話 面接の連絡のために電話をかけたところ、 「わたし、応募しましたか?」、との一言。 おそらく複数社に応募していて、エントリーしていたことを忘れたようだ。 電話のパターンでは、折り返しが一切ないパタ
よしをです。 以前もお伝えしていますが、 最近、物忘れが多くなっているように感じます。 仕事というのは不思議なもので、 30年も仕事をしていると、トラブルがあっても、 なんとなく経験値で対応できるようになるものです。 しかし、プライベートでは、うまくいかない時があります。 たとえば、ちょっとした忘れ物などが、代表的なトラブルです。 忘れないようにと、わざわざ手元に置いたのに、 そのまま忘れてきてしまったり、 メモ書きをしても、メモの場所そのものを忘れてしまうなど、 時々、われながら、呆れることもあります。 ほとんど、木の実の保存場所を忘れてしまう、 栗鼠のレベルかと(汗)。 心配なのは…。 「ひょっとして、最近、ボケはじめているのではないか?」 ということ。 そこで、今回のテーマですが、 起業や卒サラのテーマになるかどうかはともかく、 実際に、いくつかの資格試験にチャレンジしてみて、 頭の
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