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note.com/ganrim_
初めに述べておきますが、この記事は考えている問題の核心に一通り触れながら書いている内に大部となりました。 この「しらなみのかげ」を桃の節句に久々に更新してから、又暫く時間が経った。 前回書いた如く、一昨年より我が抱負を一事業とせんとして走り続けてきた私の人生は、一月の末から二月の頭に掛けての間に共同事業者の一人、しかも立場上の責任者の背信行為に遭い、唐突なカタストロフを迎えた。奇しくもそれは、全てのリソースを使い果たした後のことであった。前回の記事は、心の中にそこから何とか立ち直る兆しが見えたことで書くことが出来たものであった。しかしながら、そこで語った「探究」と「創作」は、そこから三週間以上もの時間が経ってしまったことから判るように、中々思うように形に出来ていない。ここでも又、「ハビトゥス」を自分の中に再び養い直すことにこんなにも時間が掛かるのかと、己の不甲斐無さを自覚すると共に、真に忸
いつの日からか、私はジャパニーズ・ヒップホップが大好きになった。特に、ギャングスター・ラップが大好きになった。 元々音楽好きで、あらゆるジャンルを摘み食いしながら聴いてきたつもりだが、このジャンルが取り分け好きになっていった時期があった。 昼は大学で授業を受けたり研究に勤しんだりし、週の内二、三日は夜の街で働いて日銭を稼ぐ生活を長く続けていた最後の頃だったと思う。大学の籍が無くなって奨学金を借りられなくなった三、四年前から、前者が見る見る内に出来なくなり、後者ばかりがそのまま生活になっていったら、益々好きになっていった。 その時期は丁度、フリースタイルバトルが全盛を迎えていたということもある。それは余りに面白く、YouTubeで延々とその動画を見続けていた時期もあった。巧妙で心地良い韻も、華麗なフローも興味深いのだが、自らの「生き様」を言葉にしてビートに乗せていくその様が何とも素晴らしいの
昨日(正確には30日付の深夜未明)に上げた「「オープンレター」講解」は、15000字に及ぶ長文であるにも拘らず、お蔭様で多くの人に読んで頂けた。御読み頂きました方々には改めまして厚く御礼申し上げます。 物議を醸し続けている「オープンレター:女性差別的文化を脱するために」に対して逐文解釈的に内在的読解を施すという試みは恐らく初めてだろう。この試みにおいて、呉座勇一氏の名前を連呼し、呉座氏の懲戒停職と准教授テニュア内定取り消しに影響を与えたと思われるあの文章は、「社会問題に目覚めよ」と絶叫するウォーキズム(wokism)の一派による紛れも無い〈キャンセル・カルチャー宣言〉であることが明らかになったのではないだろうか。この問題に関心のある未読の方には、是非共御笑覧頂きたい。 私はあの地道な作業を行なった後に自分の書いた文章を顧みた。そこで気付いたことだが、「講解」を書くことによって、結局の所、「
・はじめに ……「女性差別的文化を脱するために」と言われたら、凡そ反対する者など居ないだろうし、反対する理由を見付けることなど出来ないだろう−「差別に反対」しているのだから、その「内実」を具に見ることなど、必要無いのではないか−そうした真摯な思いが、この現代文明先進世界を生きる知識階層、すなわち「研究・教育・言論・教育にかかわるすべての人」の中の一部にあったに相違無い…… 2021年4月4日、「オープンレター:女性差別的文化を脱するために」(https://sites.google.com/view/againstm/home)は、江湖に問われた。 それ程総人口も多くない筈の業界人から千三百余筆もの賛同署名が集まったのだから、その様に述べても良いであろう。 人気歴史学者呉座勇一氏の英文学者北村紗衣氏に対する「中傷」或いは「他の多くの女性への中傷を含む性差別的な発言」が明るみに出されるという
(二日前、1月13日に書いたテクストです。夜は仕事をし、その後は降り積もる雪の中、行きつけのバーに挨拶に行ったら朝まで飲んでしまい、昨日少しづつ改稿や校正をしていたら、出すのが本日になってしまいました。) 私は最近、人生を生きていくに当たって、「単にそのようである世界をまずは認めること」が何よりも重要ではないかと考えている。 嘗て、福田恆存はその有名な『私の幸福論』の最初の章「美醜について」に於いて、「醜く生まれたものが美人同様の扱いを世間に望んではいけない」と言った。確か同様に、貧乏人は金持ち同様の、不具者は健康人同様の扱いを世間に望んではならない、同様に扱われないからと言って世間を恨んではならない、とその後に続けて書いていたように記憶している。現実の世界というのは不公平なものだ、悪く言おうが何と言おうが、それが事実だ、と。 此の文章で福田は、顔採用に対して怒る女性のことも、顔がまずくて
一年に一度、千年の古都の繁華街である祇園と木屋町に札束が降って来る時期がある。高級な背広を着て、胸には同じバッジを付けた大勢の生まれの良さそうな「青年」達が全国からこの街に集まっては、連れ立って夜の街を闊歩し、そこら中でタクシーを飛ばす。彼等は、公益社団法人日本青年会議所(公式略称JCI Japanだが、通例JCと呼ばれている)の会員であり、地方の中小企業の社長であったり、開業医であったり、自分で事務所を開業している士業系の人々であったりする。所謂「地元の名士」であったり、その子弟の「若旦那」であったりする。彼等は、毎年一月の第三週末の数日間に亘り、岩倉にある国立京都国際会館にて開催される「京都会議」に合わせてこの街に降り立つのである。 JCと言えば、今年の2月10日にTwitter社と「メディア・リテラシー確立」のためにパートナーシップ提携を締結したことで話題である。Twitterに溜ま
「男でも女でもなく「人間」として見て欲しい」という言葉を何故女性ばかりが言い立てるのか。しばしば「(多くの西欧語でそうなっているように)旧来の価値観では「人間」とは男性であって、女性は「人間」扱いされていないからだ」などと言われるが、女性が「人間」扱いされているか否かは一旦措いておいたとしても、男性身体に基づく身体図式(認識と行為或いは感覚と運動の連関構造による、身体経験を通した自己理解と世界理解の統一的な枠組み)を基礎として主流となる人間観が形成されてきたことは確かに歴史的事実であろう。だがその主流となる歴史的人間観の検討(並びにその歴史的な「累積」)を云々する前に、まずは差し当たり性的身体に紐付けられた個人レヴェルの身体図式の次元で考えなければならない。 このような主張は、仕事の成果や主張の内容など、凡そジェンダーに関わりがないように思える中立的な事象についての評価が、「女であること」
−深夜、突然の訪問。戸を開けると黒背広に黒い外套の男達。招かざる来客に目を丸くしていたら、突き付けられるは逮捕状。「〇〇を知っているか。知っているなら付いて来て貰う」そんな人物は知らないと言うと、やにわに腕を摑まれ、「夜と霧」の奥へと連れ去られていく− 曾て、秘密警察が吹き荒れた時代があった。日本の特高警察、ナチスドイツのゲシュタポ、ソ連のNKVDやKGB、東ドイツのシュタージ……彼等は、反体制派であると思しき人物や組織に対して徹底的な弾圧を加えていった。厳しい尋問や拘禁、酷烈な拷問をも辞さず、銭湯でのほんの冗談ですら聞き逃さない彼等の緻密な捜査網の元で、人々は恐怖で震え上がった。無辜の良民もまた微々たる瑕瑾に目を付けられて拿捕されていき、或る人々などは彼等の監視の目を内面化し、時によっては私怨を晴らすために悪用した。そうして、市井の人々は相互監視を行うようになっていった…。 こうした政治
〈本記事は、ニック・ランド(Nick Land, 1962~)の評論「暗黒啓蒙(dark enlightenment)」(出典:http://www.thedarkenlightenment.com/the-dark-enlightenment-by-nick-land/)(2012年)第二部の翻訳である(第一部はこちら)。ニック・ランドは、昨今千葉雅也氏、仲山ひふみ氏、そして木澤佐登志氏によって紹介されている加速主義の内、右派加速主義と呼ばれる思潮の騎手であり、その「新反動主義」という立場によってオルタナ右翼に多大な影響を与えている哲学者・作家・ブロガーである。本論稿の後半部(第4部c以降)は五井健太郎氏によって解題付きで邦訳されており、『現代思想』2019年5月号(青土社刊)に収録されている。ここでは、その前半部の翻訳をここに漸次掲載することとする。〉 第二部 歴史の弧は長いが、それ
〈本記事は、ニック・ランド(Nick Land, 1962~)の評論「暗黒啓蒙(dark enlightenment)」(出典:http://www.thedarkenlightenment.com/the-dark-enlightenment-by-nick-land/)(2012年)第一部の翻訳である。ニック・ランドは、昨今千葉雅也氏、仲山ひふみ氏、そして木澤佐登志氏によって紹介されている加速主義の内、右派加速主義と呼ばれる思潮の騎手であり、その「新反動主義」という立場によってオルタナ右翼に多大な影響を与えている哲学者・作家・ブロガーである。本論稿の後半部(第4部c以降)は五井健太郎氏によって解題付きで邦訳されており、『現代思想』2019年5月号(青土社刊)に収録されている。ここでは、その前半部の翻訳をここに漸次掲載することとする。〉 暗黒啓蒙 ニック・ランド 第一部 新反動主義者達
最近、主に歴史学周辺で「知識がない人の自由な発想」の問題が大きな論議を引き起こしているようである。一躍ベストセラーとなった『応仁の乱』(中公新書、2016年)をはじめ、多くの専門的な啓蒙書を上梓している気鋭の日本中世史研究者の呉座勇一氏(国際日本文化研究センター助教)は、百田尚樹氏や井沢元彦氏、或いは久野潤氏や八幡和郎氏といった、歴史学者ではないが歴史についての通俗書を執筆している著述家達と日夜論争を繰り広げている。「戦う歴史学者」と呼ばれる呉座氏は、妥協なく徹底的に、非学問的な議論を斥けている。その論戦に、一躍ベストセラーとなった『観応の擾乱』(中公新書、2017年)を著した日本中世史研究者の亀田俊和氏(国立台湾大学助教授)なども参加し、戦線は拡大の一途を辿っているようである。 それは一言で言えば、史料を厳密に読解することで最も確実であると思われる事実を精査することを自らの任とする専門の
食欲、性欲、睡眠欲は人間の三大欲求であると言われている。三大欲求と言われているならば、これだけは人間として満たされるべき欲求であると考えられるだろう。つまりは、基本的人権の範疇に属するものとして考慮されるべきものだろう。人間の生きる基本は寝食であるから、食欲と睡眠欲は満たされることが人権として当然保証されている。ところが、性欲はどうだろうか。 現代では「性の自己決定権」のような形で性の自由権は保証されるべきだとされているが、それが満たされるべき欲求であることが人権によって保証されているという話は聞いたことがない。三大欲求の中で性欲だけが、それが満たされるべきであるという権利は存在
「かわいそうランキングが世界を支配する」というフレーズを目にしたことはないだろうか。この概念は、アルファツイッタラーであり著名なnoteクリエイターである白饅頭さん(Twitterアカウント(noteアカウント): @terrakei07)が提起したものだ。「かわいそうランキング」とは、世間に「かわいそう」だと思ってもらえるかどうかのランキングを意味する。そして、「かわいそう」だと思ってもらえるかどうかによって社会的に助けられるかどうかが決まってしまうというのである。逆から言えば、かわいそうだと思ってもらいにくい人々は、救済される順序において後回しにされ、畢竟捨て置かれることになる。
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