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GPT-4o
paca-no-haca.hatenablog.com
隣の芝は青い。 この諺の意図は、単純に「人は常に他人を羨ましく思ってしまうものだから、あまり他人と比べても心が波打つだけで幸せにはならない」という個人主義的人生論におさまらず、「自分の手の届かないものにこそほんとうの美しさが潜んでいる」という神秘主義的美意識にまで広がりをもつ。 ここでその美意識の是非や賛否につき議論するつもりはない。ただ、ぼくは性懲りもなく、この意識を作品鑑賞のうちに読み取ってしまう。つまり、こうだ。誠実な鑑賞者とはおそらく感動のその一部を、作品中に自分がいないということ、そして作品中の事実が自分の掌中にないということに由来せざるを得ないものだと、かたくなに信じ続けている。これがもし井蛙の思い込みだったら、以下に書くことはすべておじゃんになってしまうわけなんだけれども。 なんだか端から雲行きが若干不透明で怪しいので、色を付けるために、美少女ゲームについての話でもする。不幸
鬱傾向の一番激しかったとき、風は生温くさわさわと吹いていた。ぼくは一生懸命に自転車を漕いでいた。海辺を目指して、あるいは夕焼けを目指して。自転車の上で感じる風は立ち止まっているときより幾分か涼しかった。 部屋にあんまり帰りたくなかったんだろうなぁ。憂鬱な人間にゆっくり考える環境を与えると、思考が空回りを始めて、自分で勝手に首を絞めてしまうから。一番良いのは頭をなるべく使わずに何かをひたむきに眺めること。心の問題を頭で解決できるのはある一定の限りまでだということをぼくは無意識のうちに了解していた。だから、とりあえず自転車を漕いだ。平日も休日も夕方に時間がある限り自転車を漕いだ。 なるべく大通りを避けて、裏道を通った。といっても、大通りなんて避ける必要があるほどは多くないんだけど。色んな道をくねくね過ぎ去っていくうちに、建物の配置がまばらになって、田園に挟まれた小道を進んでいくと、とつぜん集合
それから私は、最寄りの小学校から横断歩道を一つ渡った先の団地にかつて住んでいた、と思い出した。そこはこぢんまりとしたところで、中庭のようなものがあり、木々と生垣が生い茂っていた。秋は自治会全員で落ち葉の掃き掃除をしていた。まだ自宅が世界の中心だった頃の話になる。 そして、年に一度、夏祭りが小学校の校庭で開催されていた、ということを思い出した。夕闇が広がり始めるころ、貰った小遣いとともに、横断歩道を渡った。笛や太鼓や鈴の音が徐々に大きくなり、校門をくぐると賑やかで眩しく煙たい場が広がった。水蒸気の匂いと聞きなれぬモーター音が織り交ざる中、間もなく人混みに揉まれた。ひ弱だった私はすぐに空気に中てられて、家で何度か休んだ。普段は煌々と照らす蛍光灯の下で夕食を食べている時間帯に、薄暗い灯り一つしか灯っていない家の様子はかなり異質だった。暗闇の中座っていると、遠くから盆踊りのリズムが聞こえてきた。
この記事は前回の記事の続き。 予鈴 再び幕を開ける本鈴の鳴り響く前に一つお喋りを済ませておこう。 先日、前回までの記事を読んでくれた聡明な友人から「記事の方向性が少し不鮮明かも」という指摘を得た。再度フレッシュな視点で初めから読み返してみるとたしかに、天下りに議題が生まれて終着点もいまだ分からないままいざ出発、という印象を受ける。この分かりにくさの由来を突き止めようと、まずその発端を執筆中の記憶という自己体験のうちに探し回ってみたところ、どうやらある程度は意図したものであり、また一方で意図を超えた過失もあり、その境界を明らかにするためには記憶を遡るときに直面した三つの問題について述べておく必要があると考えた。 第一に、記事の指針における問題。既存の整備された山路を辿るのではなく、「世界」「幸福」「素晴らしき日々」といった一見バラバラの概念を標に登場人物たちの山路を辿るということを目的として
白鳥は死に臨んで歌うと言われている。 白鳥が売りに出ているのを見つけた男が、最高に歌の上手な生物だと聞いて、これを買った。そして宴会に人を招いた時、白鳥の所へ行って、飲んでいる横で歌を歌ってくれと頼んだ。白鳥はこの時は黙っていたが、後に死が近いことを悟ると、自ら悲しみの歌を歌った。飼い主がこれを聞いて言うには、 「お前が死ぬ時にしか歌わないのなら、歌を頼んだあの時、お前を殺さなかったのは愚かだった」 このように人間の場合でも、進んでする気はないことを、不本意ながら果たす人もいるものだ。 ー『イソップ寓話集』「白鳥と飼い主」(中務哲郎・訳) Le.Chocolatにより発売されたノベルゲーム『SWAN SONG』についての感想を書く。6000字弱。 多分本作品をプレイしたことが無ければ伝わりにくい内容だと思うので、対象として本作品をプレイ済みの方に絞って語っていく。故に、ネタバレは気にせずバ
……あゝ!あゝ! どうしてお前はあたしを見なかつたのだい、ヨカナーン? 一目でいゝ、あたしを見てくれさへしたら、きつといとしう思うてくれたらうに。さうとも、さうに決まつてゐる、恋の測りがたさにくらべれば、死の測りがたさなど、なにほどのことでもあるまいに。恋だけを、人は一途に想うてをればよいものを。 ─オスカー・ワイルド『サロメ』(福田恆存・訳) 『魔女こいにっき』というノベルゲームをプレイしたので、それについての雑感を述べる。シナリオ的にネタバレ無しには何も書けないので、毎度の事ながら読者の対象はプレイ済みの方(もしくはネタバレを気にしない方)のみに限る。あと引用は部分的に僕の記憶からです、ごめんなさい。 章立ては 0.そんなに粗くないあらすじ 1.物語の先頭と物語の果て 2.瞬間と永遠、不確実と確実、語り手と読み手 3.美しいから触れられないなのか、触れられないから美しいのか といった感
謝辞 元々この場は自分のこころを書き留める為の備忘録であったはずなのに、今となっては筆不精もあり色鮮やかなイメージが身体中から奈落へとぽろぽろ零れ落ちていくのをアーと口を開けながら眺めるばかり。思えば、近頃はネクラなオタクの反省会を実況中継するのみで、外界の事象によりデバッグした自己流の道徳をウーム一層盤石になったかナと眺めては、先走った衒いを御し切れずに「公開する」ボタンを押すのが常だった。ただ文字を書き連ねるときには感じなかった焦燥感や疚しさが投稿行為を皮切りに己を苛み始めたことは、この“公開オナニー”の自覚を示す十分な証跡だろう。 これ以上の前置きは言い訳の領分を超えて、また反省会の様子を見せびらかすことになるから慎む。とりあえず今回は『素晴らしき日々 ~不連続存在~』(以下、『すばひび』と略称)について、グダグダ管を巻くことで、自意識第一主義から脱却して少しでも自分以外のものに対す
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