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円安とは
sababienne.hatenablog.com
友人のCさんが、女どうしの乾杯にピッタリなワインをもってアペロに来てくれた。猫のイラストがかわいいこのロゼワインの名前は、« La nuit, tous les chats sont gris »。 《夜はどの猫も灰色》というフランスのことわざで、意味は「夜は暗くてよく見えないからブスでも美人でもいっしょ」。もっと言うと「ベッドを共にするのに容貌は関係なし」という意味もあるそうだ。 男性が女性を口説くとき飲むには「どうなんだろう?」なネーミングだけど、お化粧がはげても気にせず、女同士さわぐ集まりにはぴったりのワインであることはたしかだ。 この季節になると毎年、アペロの機会が急に増える。 アペロというのは、夕ごはんの前にちょっとおつまみやお酒を楽しむ習慣。 自宅で家族だけでのアペロももちろんありだが、ヨーロッパは六月が学年末で卒業シーズンでもある。夏休みのバカンスに出かけてしまう前に集まろう
フォーブル・サントノーレ通り14の16番地。たしかこの辺りのはずなのだけれど。看板をひとつひとつ確認しながらきたはずなのに、おめあての帽子屋はなかなかみつからない。これはもう、通りすごしたにちがいない。そう確信がもてるところまできてやっとわたしは立ち止まる。地図がまちがっているのかなとよくよくみれば、住所のとなりに《コートヤード》とあるのに気がついた。店は通りから一歩入った中庭にあって、通りには面していないらしい。 なるほどね。わたしはくるりと向きをかえ、きた道を反対側からたどる。しばらく行くとふいに建物がとぎれ、中庭への通路がぽっかり口をあけていた。立ちどまってのぞきこむと、うす暗い通路の壁にもたれてタバコをすっていた作業員風の男性と目があった。本当にこの先にお店なんてあるのかなぁ。おそるおそる通路をすすむといきなりパッと視界がひらけ、広々とした石畳の中庭にでた。 ぐるり石造りの建物にか
キィーキィー、と聞き覚えのある音がして空を見上げれば、ツバメが縦横無尽に飛び回っていた。満開だとおもっていたマロニエの花はあっというまに盛りがすぎて、街路樹はいっそう色濃くみどりの葉を繁らせている。軒先にかけられたジョウビタキの巣も、ヒナがかえってしばらくはチィチィにぎやかだったのだが、いつのまにか巣立ってしまって空っぽだ。 季節はとどまることなく巡っている。花が咲き散り、鳥が巣をかけ卵を産みヒナがかえる。生まれた命のエネルギーが満ちるこの時期はとくに、日々変化がめまぐるしい。 お昼に外の空気を入れようとベランダの窓を開けると、テーブルの向こう側に何か小さいものが落ちていた。近づいてよくみると、それはスズメだった。小鳥用のエサ入れの傍に、丸いお腹を空にむけ、仰向けにひっくり返ったまま動かない。しゃがんでさらに顔を近づけてみる。眼は閉じられ、脚は宙をつかみそこねたまま、そこだけ時間が止まって
夕方。ピンポーンとドアベルが鳴ったのでドアを開けると、宅配便の配達だった。えんじ色の制服に野球帽をかぶった配達員は、筋肉隆々、思わず見上げてしまうほどの大男。ひょいと小脇に抱えているのは、彼が抱えているから小さく軽そうに見えるけれど、六本入りのワインの箱である。そういえば、ちょっと前にワインのセールがあったのでまとめて注文しておいた、とRが言っていたのだ。 「ありがとう」 箱を受け取り、いつものように「サインを」と言われるのを待っていると、配達員は巨体をモジモジさせながら何やら口ごもっている。なんだろう? と思っていると、彼はサインのかわりにこう切り出した。 「あのう、明日の朝って、家にいますか?」 翌日の午前中は、特に外出の予定もなかった。 「いますよ」 わたしがそういうと、 「えぇっと、でしたら、もう一箱は明日でも構いませんか?」 と、配達員。 つまり、ワイン二箱を届けにきたのだが、残
「Jardin de nuit (夜の庭)」という題名の絵を額装にだしていたのが、出来上がってきた。これはわたしが好きなスイス人イラストレーター・アルベルティーヌさんの絵で、昨年のクリスマスにRがプレゼントしてくれたものだ。 アルベルティーヌ さんは詩的なストーリーを紡ぎだすパートナーのゲルマノさんといっしょに、ちょっと幻想的な世界観の絵本を作っている。その世界観にひかれ、わたしが絵本を手に入れたり個展にでかけたりしていたのをRが覚えていて、ギャラリーに注文してくれたのだ。 アルベルティーヌ さんの絵は、心象風景のような深層心理をあらわしているような、どこか精神的なものを感じさせるものばかりだ。人が何を考えているか? 本当のところは、うわべの態度や言葉では測れない。人はいくらだって嘘がつけるし、他人に対してはもちろん、自分自身に対しても嘘がつける。目を背けたいことや隠したいことがあればある
再婚して十年。合わない部分も多々ある中、これだけは合っていて良かったと思うのは、食の好みだ。中でも二人そろって好きなのは、タイ料理。パッタイなどの定番に加え、タイに駐在していたことのある夫は、地方の郷土料理にもくわしい。ちょうどその日も「カオソイが食べたい」と夫がいいだし、早めのランチをとることにしたのだ。 劇場裏のそのレストランを訪れるのは、これがはじめてだった。入り口で黒板のメニューをみていると、手持ちぶさたにしていたウェイターが、テラスにテーブルを用意してくれた。 「メニュー、お持ちしますね」 流暢だが、かすかに外国語のアクセントが残る。四十代半ばといったところだろうか。笑うと片頬にえくぼができ、人懐っこさが顔いっぱいにひろがった。 「カオソイ、ありますよね?」 夫は、行きかけたウェイターを呼び止めた。 「カオソイ、ですか……」 ウェイターの笑顔が、にわかにくもる。カオソイは北部の郷
こんにちは。 暑い日がつづきますが、いかがおすごしでしょうか? わたしはいま、インク壺の淵に佇んでいます。 「インク沼」というものの底知れぬ恐ろしさは「はまったら最後、ぬけだせない」。つねづねそう聞かされてきました。ですから去年、万年筆を手に入れてからも、インクはブルーブラック一本のみ。沼には極力近づかないよう、細心の注意をはらってきたのです。 ところがわたしはいま、インク壺の淵に佇んでいます。 足を踏み入れようか、踏みとどまろうか? わたしの理性は、ぐらんぐらんと音をたててゆれています。 Lutry(リュトリ)は、レマン湖畔の小さな村。 鉄道の駅からは、いちめんに広がるラヴォーのぶどう畑を縫うようにして、ひたすら坂道をくだるとリュトリの船着場につきます。 このインク壺は、そのリュトリのブロカントからやってきました。 じつをいうとこのインク壺をみつけたとき、わたしはそれが何なのかもわからな
朝。いつもは静かなローヌの岸辺に、レジャーシートのお花畑ができていた。こんな朝早くに、なにごとだろう? あわててメガネをかけてみると、シートの上には何やらごちゃごちゃ品物がならべてある。町内のヴィッド・グルニエ(vide-grenier)が、開かれていたのだった。 プロがメインのブロカントと違い、一般の人が不用品をひろげるヴィッド・グルニエは、玉石混交のさらに上をゆく。子ども服やおもちゃはわかるとしても、はきふるした大人用のくつや、ブラジャーなんてものまでならんでいるのだ。冷やかしながら歩いてみても、目をうばわれるようなものはほとんどなかった中で、ゆいいつ足をとめたのは、ワインボトルを運ぶためのホルダーである。 ボトルが六本おさまるよう、スチールで形どられたケースには、手で提げられるようハンドルがつけられている。その形は子どものころ、牛乳を配達してもらっていたときのホルダーを思わせた。ホル
お祝いごとがあると、その本人が周りにケーキやお酒をふるまう。誕生日の本人が、職場や学校にケーキを持っていくなんておもしろいな。日本ではあまりみられない習慣に、さいしょは「へぇ」と思った。 でもあるとき、バースディ・ケーキを配っていたクラスメイトが、面白がるわたしのことをぎゃくに面白がってこう言ったのだ。 「えぇ? じゃあ、子どものころ誕生会に、友だちよんだりしなかったってこと?」 そういえば。 わたしだって子どものころは、自分の誕生日に誕生会をひらき、ごちそうやケーキをふるまっていたのだっけ……。いつから誕生日は「祝ってもらうもの」になってしまったんだろう? 友人のTさんが誕生日だといって、リンツァートルテとシャンパンをふるまってくれた。フランボワーズのジャムを詰めて焼いてある素朴なリンツァートルテは、Tさんが職場の同僚と誕生日のお祝いにでかけたバーデンのパティスリーのもの。 「ただの誕生
この季節になると、楽しみにしているたべものがある。 ベトナムの人たちが旧正月に食べる、ちまきだ。甘辛く煮た豚と卵の黄身を、もち米でくるんだものを、バナナの葉で包んで蒸してあるこのちまきは、一年のうちでもこの時期にしか売っていない。 じつは一月から二月にかけてというのは「この時期にしか売っていないもの」が目白押しで、けっこういそがしい。たとえば公現祭の「ガレット・デ・ロワ」に、ファスナハトの揚げ菓子。それからこのベトナムちまきである。 なにしろこの時期を逃したら、食べられるのは一年先になる。となるとぜったいに、食べ逃したくない。ところがわたしは、キリスト教徒でもなければ、お祭りに参加するわけでも、旧正月を祝う習慣があるわけでもない。つまり、肝心な行事のほうはおろそかにして、食べものだけを楽しみにしているふとどき者であるため「うっかり忘れて、食べ逃す」という危険性が、なきにしもあらずなのだ。
冬は、油断大敵だ。 午後もおそくなってから散歩にでると、とちゅうで日が暮れてしまう。 寒いし、暗いし、日のあるうちに散歩はすませよう。そう肝に銘じているのに、あっと気づいたときにはもう遅い。太陽は、西にかたむいている。 いつもより遠くまで足をのばした日曜日。国連広場まできたところで、すっかり日が暮れてしまった。つかれちゃったなぁ。足どりも重くなりかけたところへ、タイミングよくバスがきた。 入ってすぐの席に腰をおろすと、休日のバスの車内はがらんとしている。通路をはさんで向こう側に、おじいさんがひとり。ひざに乗せた犬の白と黒のぶちになった背中を、右手でゆっくりなでていた。 後頭部から首、背骨に沿ってしっぽまで。そーっと手のひらをすべらす。それからまた、後頭部にもどってしっぽまで。なんども、なんども繰りかえすおじいさんの手のうごきは、見ているこちらがうっとりするぐらい、なめらかでやさしい。思わず
午後、クリスマスカードを書く。 コーヒーをいれ、ペンを用意し、買っておいたカードをテーブルにひろげる。 先週、ブラシャール(ふだんは行きつけない高級文房具店)でみつけたカードは、もみの木が描かれたシンプルなものだ。 手刷りの絵柄は、撫でるとかすかな凹凸が指に触れ、ななめに透かしてみると、色味や筆致の繊細さに思わず目をみはりたくなる。 クリスマスソングをかけ、カードの美しさを愛でながら、まずはコーヒーをひとくち。 うっとりしていると、夫がいった。 「あのさー、ボーッとしてないで(怒)さっさとすまそうよ」 さっきから隣でしゃかしゃかと、せっかちにペンを走らせる音が、うるさいなぁと思ってはいたのだけれど……。どうやらこの人には「クリスマスカードを書く」プロセスを、楽しもうという発想はないらしい。 むろんこれは、今にはじまったことではなく。たとえばマルシェでゆっくり店主とのおしゃべりを楽しんだり、
ちょっと早めに起きてしまった朝。窓を開けると、わたり鳥のながいながい隊列が、明るみはじめた南の空を西から東へ、横切っていくところだった。よくみると、ひとつひとつの鳥の黒い影が連なっている。それはまるで墨をふくませた筆で、ゆるゆると線をひいたような、やわらかなV字を空に描いていた。先頭の鳥がもうかなり先にいってしまっているというのに、線はなかなか途切れない。ついに、と思っても遅れて一羽、そしてまた一羽、二羽ときりがない。こんな大所帯は、いままでみたことがなくて、わたしはしばしみとれてしまった。 アパートの前を流れるローヌ川のことを、わたしは胸のうちで「鳥たちの東海道」と呼んでいる。というのも、わたしが東海道沿線で生まれ育ったからなので、人によっては中山道とか甲州街道とかに差し替えたほうがしっくりくるのかもしれない。が、何道であるかは、この際なんだってかまわない。ようするに、ローヌ川のような大
郵便物をとりにアパートのエントランス・ホールに降りてゆくと、掲示板の前で管理人のサントス氏が仁王立ちしているところだった。その視線の先にあるものは、みなくてもわかった。中央に猫の写真が印刷された貼り紙である。この貼り紙にはわたしも、数日前から気がついていたのだけれど、どうせいつもの「Le Chat Perdu」(ル・シャ・ペルデュ)だろうと、気にもとめず通りすぎていたのだ。 「Le Chat Perdu」というのは、迷い猫のこと。Le Chatが猫で、Perduが英語でいうとLostなので、直訳すると「失われた猫」ということになる。ちなみに、かたくなったフランスパンを卵と牛乳に浸して、バターで焼いてメイプルシロップをたらして食べる、あのフレンチトーストもフランス語では「Pain Perdu(パン・ペルデュ)」である。 古くなったパンのことを「失われたパン」だなんて……。プルーストの「失われ
帰ろうと思えば、いつでも帰れる。そう思っていた日本に、なかなか気軽に帰れなくなってからかれこれ一年になる。 わからないぐらいちょっとずつ。一年かけて胸の底にふり積もってきたものが、重石みたいに居座わりはじめていることに、ちょっと前から気がついてはいたのだ。 見て見ぬふりをきめこんでいたのが、さいきん何かの拍子にドーンと重みを増すことがあって… そろそろ出番かな? と先週わたしはひさしぶりに『救急箱』をひっぱりだしたのだった。 この『救急箱』には「自己嫌悪につける薬」から「夫婦ゲンカにつける薬」まで、ありとあらゆる常備薬がつまっている。 手にとったのは「ホームシックにつける薬」だ。 軽度のホームシックには『嵐』 中等度のホームシックには『大河ドラマ』 重症化したホームシックには『日本の不動産サイト』(日本に移住するため家を探す、という妄想に真剣にふける) と、大抵のホームシックは、このあたり
この週末、引っぱり出して読んでいるのは、メアリー・ノートンの「床下の小人たち」だ。 人間から必要なモノを「借りて」、古いお屋敷の床下に暮らす小人の一家を描いた児童文学の名作。スタジオジブリの映画「借りぐらしのアリエッティ」の原作である。 きっかけをくれたのは、先週、わたしの住むアパートでおきた事件だった。 アパートは、ローヌ川に沿って切り立った高台の上に建っている。川の反対側からみると、五階建てのビルぐらいはある絶壁の上に、建物が建っている様子がよくみえるのだが、やや緩やかなところを選んで降りていくと、野鳥やりす、ときにきつねなども姿をみせるちょっとした森に続いている。 事件がおきたのは、その絶壁にとつぜん姿をあらわした穴だ。 先週のある日。何やら外が騒がしいので窓からのぞくと、アパートの敷地と崖をしきるフェンスの一部が取り外されており、作業員が数人忙しく行き来している。 みると、絶壁の上
友人のNさんから、手編みのカーディガンをいただいた。 いつも自分で編んだニットをすてきに着こなしているNさん。会うたび「すてきね」とほめていたら「編んであげる」と。秋ぐちに会ったとき、好きな色を聞かれていたのだ。 とちゅう採寸してもらったりしながら、楽しみに待つこと三ヶ月。 できあがったカーディガンは、空気をはらむようにふんわり軽くて暖かい。よくみると袖ぐちと裾と肩のところには、透かし編みの模様が入っている。アイスグレイ色の毛糸は、Nさんの貯蔵する膨大な毛糸コレクションから、わたしがえらんだものだ。 じつは、海外を旅することが多いNさん。 「知らないうちに、両手に大きな紙袋がぶらさがってるんだよね」 と、旦那さまのJさんが苦笑いするほど、旅先で毛糸屋をみつけると”つい毛糸を買いこむ病”にかかっているらしい。 「こんなにあるんだけどねぇ...」 いまにも雪崩がおきそうな毛糸の棚の前で、うっと
クリスマス・イブに髪を切った。 二十年ぶりのショートヘアだ。 「おーっ、だいぶ若返ったねぇ」 日本の実家にスカイプすると、父が言う。 「そうお〜? そんなことないと思うけど〜♪」 なんて、うっかり喜びをにじませた、わたしがバカだった。 てっきり二十歳ぐらい若返ってみえたのかと思ったら、 「うん。三歳ぐらいね。いひひ」 だと。 それはともかく。 なぜショートヘアにしたのか?といえば、それは「年齢による髪質の変化」というつまらない、しかし切実な理由からである。 もっとハッキリいってしまうと、ほんとうはセミロングぐらいあったほうが、少々お手入れを怠ってもまとめられるので楽だったのだけど、あんまり毎日ひっつめていたらなんだか生え際が心許なくなってきたからなのだ。 いやはや、女子高生だったころには「剛毛連盟」に名を連ねていたあのわたしが、まさか薄毛を気にする日がくるだなんて。いったい、だれが想像する
氷点下ちかくまで、冷えこんだ朝。窓をあけてベランダにでると、どこからか雄叫びが聞こえてきた。 ウォーーー! みれば眼下のローヌ川で、おじさんが一人。海パン一丁で泳いでいるところだった。 コロナ第二(三?)波にみまわれ、ジュネーブは再びジムやプールが閉鎖されている。「だったら川で泳げばいいじゃん」という発想は、春の第一波のときならばいざ知らず、午後からは雪かもしれないというこの寒空では、正気の沙汰ではない。 (そりゃあ、叫びたくもなるだろう。) ブルっと寒気がして、わたしはそうそうに窓を閉めた。 (しかし、そこまでして泳ぎたいかねぇ) 心の中でつぶやきながら、わたしはふと思ったのだった。 そこまでしてしたいこと、わたしにはないなぁ、と。 もちろん、いまは世界中がこの状況。だれもがひとつやふたつ、日々の習慣や楽しみを奪われていることがあるだろう。むろん、わたしにだってそういうものがないわけじゃ
秋ぐちに、食洗機がこわれた。 買い替えてほっとしたのもつかの間、こんどは高速道路で車がこわれてスイス版JAFのお世話になった。 こういうのって続くんだよね、と警戒していたある日。 外出先から家に帰ってみると、家じゅうプールみたいな匂いがする。鼻をたよりにみてまわると、壁一面に床から数センチほど、帯状のしみが滲みでているのをみつけた。 「床下か壁の向こうで、水漏れしているようなのですが」 水漏れの緊急用電話番号に電話すると、なんと次の日にPlombier(配管工)が来てくれて、わたしはその対応の迅速さに心底感動してしまった。 「緊急なのに、翌日? 当日じゃなくて?」 日本に住む母からそう聞き返されたのだけど、たしかに緊急なのに翌日だなんて、日本だったら感動どころかクレームをつけたくなるところだ。 でも、けっして言いまちがえたわけじゃない。 此処に流れているのは、数ヶ月待たされて当たり前の「ス
MG、という古い車を、リストア(修理)することになった。夫が十代のころお姉さんに借金して手に入れた、クラシックなスポーツカーだ。 かれこれ数十年、倉庫にいれっぱなしだったので自力走行はできない。修理してくれる修理屋を探すのにひとしきり苦労したあと、やっとの思いで運送してくれる業者を探し出したのだ。 トラックには、運転手と夫と甥っ子のNくんの三人がかりで押して載せた。 やれやれ。 トラックを見送りながら、わたしはふとLさんの横顔を思い出していた。 「新品買ったほうが、安いのにね」 無理やり財布をいれるのできまって同じところが破れてくる夫のジーンズは、お直しでツギを当ててもらうと五千円くらいかかる。 ヴィンテージでも何でもない普通のジーンズなので、買いかえたほうがよっぽど安いのだ。 お直しのお店の外で、夫を待つ車の中。後部座席に座っていた友人のLさんにそういうと、Lさんはこう返してよこしたのだ
夫は、毎朝バナナを食べる。 お米やパンが切れても平気なくせに、バナナが切れるとあわててスーパーに買いに走る。 夫の体の5%ぐらいはバナナでできているのではないか?とわたしは怪しんでいるのだけれど、世の中に「バナナ依存症」というものがあるとしたら、夫はまちがいなくそれだと思う。 夫は毎朝バナナを半分、わたしによこす。 理由は単純で、一人で食べるには、バナナが大きすぎるからだ。 わたしはといえば、バナナは嫌いじゃないけれど、毎朝食べたいほど好きでもない。たまには他の果物も食べたいし、たとえ好きなものでも毎朝は飽きてしまう。週に1〜2度ならうれしいけど、毎朝鼻先につきつけられるのはちょっと…というのが本音だ。 でも。 わたしが半分食べなかったら、どうなるのだろう? 食べたいかどうかよりも、ついついわたしはそんなことを考えてしまう。 夫が一本無理して食べてカロリーオーバーになるか、毎朝バナナが1/
アッペンツェルは、スイスの東の端。 ドイツ国境にほどちかい、ビールとチーズと、赤いチョッキの民族衣装、それから「こぐまパン」という焼き菓子が有名なのどかな街である。 「空色」の絵の具でひたすらぬりつぶしたような、どこまでもつづくあかるい空。 その空の下に並行して幾重にもつらなるのは、こどもが「みどり」のクレヨンで気ままにぬりかさねたような大小の丘だ。 丘のあいだをぬうようにすすむと、おもちゃみたいな小さな教会や、牛の群れ、オレンジがかった茶色の屋根の民家がポツリポツリとすがたをあらわす。 まるでページをめくるうち、絵本の中に迷いこんでしまったようなこの街に、ジュディとマーチンは暮らしている。 厩舎の前に車をとめ、ぶどうの蔓とゼラニウムで縁どられた母屋に面した中庭をのぞくと、草まみれのモジャモジャの黒い巻き毛をこすりつけ歓迎してくれたのは、ドゥードゥル犬のアマドゥだ。 「ちょうどケーキをオー
おきたらまず窓をあけ、ベランダにやってくる鳥たちのためにエサをやる。 それからひとしきり、ローヌ川のながれをながめる。 まるで、隠居したおじいちゃんみたいだけど、これがわたしの朝の日課だ。 季節をおしえてくれるのは、樹木や草花だけではない。 飛来する鳥たちにも夏には夏の、冬には冬の、それぞれの顔ぶれがあっておもしろい。 いまの時期なら、ツバメだ。 濃いブルーの空に、くっきりと黒いちいさな機影のコントラストをつけ、空たかくてんでの方向に飛びまわるようすには、まるで秩序というものがない。 キーキー甲高い声をあげながら、こどもが鬼ごっこしているようにもみえるツバメたちをみあげて、わたしは夏の訪れをしる。 ローヌ川には、じつにさまざまな水鳥たちが生息している。 白鳥、かるがも、かもめに、名前もしらない不思議なもようの鳥。 こちらはいつもおなじ顔ぶれだけど、ローヌの流れにのってすぃーっと泳いでいく姿
こんどの週末、田舎の家で、いっしょに過ごさない? フランス人の友人カップルから、招待状をうけとった。 フランスの、 田舎で、 週末を。 この言葉のひびきだけでもう、うっとり、とろけてしまいそうな私である。 ここ数日など、あんまり楽しみで、なんども招待状を読み返しては、ほくそえむ毎日。 しまいには一言一句にいたるまで、完ぺきに暗記してしまうほどだった。 ”Middle of Nowhere”へようこそ ちょっとユーモラスなタイトルではじまる、招待状。 「S字カーブをすぎたら左折」 「1.5キロすすんだ右手」 「一軒家がみえたら右折」 いまいち心許ない道案内につづき、 このすばらしく丁寧、かつ簡単明瞭な道案内にもかかわらず、道に迷ってしまったあなたへ。 残されたオプションは2つ。 1. 泣くか? 2. 祈るか? ちなみにケータイは、電波がないから、つながりません。 グッドラック! ジャッキー&
**リンク情報など更新しました(2021年2月4日)** 北欧インテリアがすてきなのは、寒くて家ですごす時間が長いから。 とどこかで聞いたことがあるのですが、冬はでかけず家にこもるのが楽しい季節ですね。(なにごともポジティブに♪) ホットチョコレートやコーヒーをいれて家カフェしたり、かんたんなおつまみとお酒で家飲みしたり、ゆっくりバスタイムを楽しんだり。 雪景色をながめながら、暖房のきいた室内でぬくぬくすごすのは至福のじかんです。 そんな冬ごもりに欠かせないのがBGM。 わたしは、TuneIn Radioを一日中ほぼ流しっぱなしにしています。 TuneIn Radio TuneIn ミュージック 無料 TuneIn Radio - Google Play の Android アプリ TuneIn Radio – Windows Apps on Microsoft Store 世界中のすてき
レラは、わたしの「クスクスの先生」だ。 はじめて会ったとき。 レラがモロッコ出身ときいて、わたしが「クスクスが大好きだ」と猛アピールしたのが、そもそものことのはじまりだ。 ほどなくして、クスクス鍋と、オリーブの木鉢と、おタマと、スパイスをかついで、ウチにきてくれたレラ。 そのレシピと人がらに、すっかりハートをわしづかみにされてしまったわたしが、勝手に弟子入り宣言するかっこうで、結ばれた「師匠と弟子」のちぎりなのである。 不定期開講の「レラのクスクス学校」。 生徒はわたしひとりなのだけど、試食係のともだちを集めては、いっしょにクスクスをつくるのを、わたしはとても楽しみにしている。 基本のレシピは、丸どりと羊肉、香味野菜、スパイスをオリーブ油でソテーしたら、トマトと野菜の水分でコトコト煮込むだけ。 クスクスは、専用の蒸し器で蒸して、レーズンとシナモンをスープで煮詰めた「甘いソース」と、青唐辛子
世の中には、サプライズが好きなひともいれば、嫌いなひともいる。 すべての嗜好は、個人の自由だ、とおもう。 もんだいは、サプライズする人が「するか・しないか」を選べるのにたいし、される側にはまったく選択の余地が与えられていない、ということだ。 サプライズは、する人のモノであると同時に、される人のモノ。 甘くみると、痛い目にあう。 たとえば、プロポーズ。 大学時代の友だちの話だ。 彼女は、スキー場の民宿のコタツでみかんの皮をむいているとき、おもむろに「ぼくと結婚してください!」とプロポーズされた。 ジャージ姿のふたり、絣のコタツ布団、石油ストーブの上では、やかんがしゅんしゅんと湯気をあげている。 数秒の沈黙のあと、彼女はいった。 「無理!」 結婚が、ではなくて、この状況が無理なのだ、と。 彼にしてみれば、あえて生活感あふれる状況でさりげなく、と計算の上でのサプライズだったらしい。 けれども、と
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