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ドラクエ3
sr-ktd.hatenablog.com
2018年秋クール(10月~12月放送)のテレビアニメとして話題をさらっていった2つの作品、『ゾンビランドサガ』と『SSSS.GRIDMAN』。この両作品が先日、あまりにも対照的すぎる最終回を迎えた。比較することで際立つのは、両作品において「現実」と「アニメ(作品/キャラクター)」が取り結ぶ関係性の違いである。 ゾンビランドサガ 『ゾンビランドサガ』は佐賀県の「ご当地アイドル」としてゾンビとして蘇った(=故人の)キャラクターがアイドルとして活動する姿を描く。「すでに死んでいる」キャラクターが「生き生きと」描かれることで逆説的に「生きる」とはどういうことかが掘り下げられるのだ。 「アイドル」と「キャラクター」はしばしば似たものとして扱われる。重要な差異として、いわゆる「リアルアイドル」には当然現実世界における肉体があり、加齢もすれば怪我や病気でステージに立てなくなることもある。一方、「つくり
なぜオタクは新条アカネに夢中なのか 『SSSS.GRIDMAN』が盛り上がっている。とりわけ本作のダブルヒロイン(とされている)のうちのひとり、新条アカネには少なくない視聴者からの熱視線が注がれている。下記の記事に典型的なように、「スクールカースト最上位に位置する女子が、実はハードなオタク趣味を持ち合わせている」という点にアニメの主な視聴者層である男性オタクがメロメロになってしまっている……という構図があるようだ。 nyalra.hatenablog.com 基本的に彼女は悪役サイドの人物で、「パンを潰されたから」とか「歩きスマホでぶつかってきたから」とか、本当にささいな理由で身の回りの人間を存在ごと「なかった」ことにしてしまう問題人物として描かれている。通常の倫理を逸脱した悪人にある種の憧れを抱いてしまうとか、日常のイライラを歪んだ形で解決してしまう悪人に共感を覚えてしまう、というのは自
※本稿は「ゲンロン 佐々木敦 批評再生塾」第3期の渡邉大輔さんゲスト回にて提出した評論文を改稿したものです。 邦画の興行収入歴代2位という記録を塗り替えた『君の名は。』を筆頭に、「アニメ映画の当たり年」と言われた2016年。それら「当たり年」の諸作品は、映画における「観客」という制度に忠実であったからこそ、多くの動員を記録したのではないか。 それらは一様に「名無し」の存在論についての物語だった。 「名無し」とは「観客」のメタファーである。映画館での映像鑑賞において、暗がりに身を潜め、能動性を奪われた存在に私たちは「なる」。眼前で展開する光景、そこにはいない存在、視点と同一化することを迫られる。そうした世界に対して無力な、何もできない存在を慰撫するような物語が展開されたのが昨年のアニメ映画群だった。 そこでは言わば「観客の再発明」が行われていたのである。 2016年「観客の再発明」 『この世
タイトル通り。ぱっと思いつくかぎりで理由を箇条書きにしてみる。 なんかKeyが負けた感じがする ゼロ年代批評って無力だったのだなと突き付けられる やり始めた人が知らない言葉を話すようになるのが怖い 原作(stay night)が好きだからこその複雑な気持ち 順に詳しく見ていく。 1. なんかKeyが負けた感じがする まあぶっちゃけ逆恨みである。ノベルゲームブランドの中ではTYPE-MOONが一人勝ちみたいな状況になってしまった。まあ何をもって勝ちとするかというのはあるが、とりあえずここでは売上である。経済効果。自分はそういうの重視しないって主義だけどノベルゲームの歴史とか知らない人までちやほやしだすのはやっぱり「金になる」からで。痛快っちゃ痛快なんだけどそこにはKeyがいてほしかったなんてことも思ってしまう。まあそうなったらもはやKeyじゃないのかもしれないけど…僕はやっぱり常にマイノリテ
第22回電撃小説大賞「大賞」を受賞した作品『ただ、それだけでよかったんです』がとても読み応えのある作品で、同時にこれは「ライトノベル」なのかどうなのか? ということでも話題になっているようなので(なんというか、そういう自問自答をしたくなる作風なのだ)、あまりライトノベルというジャンルを読まない自分が、「これは『ライトノベル』だろう」と思って読んでみて面白かった作品というのを振り返ってみたくなった。以下順不同に紹介してみる。 ・ただ、それだけでよかったんです ただ、それだけでよかったんです (電撃文庫) 作者: 松村涼哉,竹岡美穂 出版社/メーカー: KADOKAWA/アスキー・メディアワークス 発売日: 2016/02/10 メディア: 文庫 この商品を含むブログ (7件) を見る 説明のしづらい作品なのだが、徐々に浮かび上がってくる真相、その出し方が上手いのと、語り手が相互に入れ替わる構
『ハイ☆スピード! -Free! Starting Days-』(以下『ハイ☆スピード!』)は京都アニメーションの最高傑作である。いやアニメーションの歴史を塗り替える一作と言っても過言ではない。この稿を最後まで書き上げて、そのような確信に至っている。 まずは「京都アニメーション的」と言われるものが何であるかを明らかにしておく必要があるだろう。いろいろな切り口が考えられようが、私にとってそれは過去が「最も美しかった瞬間」として現前してくることである。これはKey作の「複数ヒロインを擁するマルチエンディングタイプのノベルゲーム(以下、ギャルゲー)」を原作とする『Kanon』(2006年)にその起源を見て取ることができる。 『Kanon』というのは7年ぶりにかつて暮らした街に帰ってきた主人公が、置き去りにしてきたヒロインたちとの過去を想起しつつトラウマを解消していく物語だ。なかでも物語の根幹をな
「ゲンロン批評再生塾」の第3回ゲスト講師が渡邉大輔さん、テーマが「映像」ということで触発され、アニメ『Charlotte』を題材に文章を書いてみました。「今日、映像=映画とは何か」を改めて問い直すという今回の課題に、『Charlotte』のとあるモチーフについて着目することはまさしく有意義であるように思えたんですね。 『ポスト映画の世紀』に、『映画(批評)』は再起動できるか | ゲンロン 佐々木敦 新・批評家育成サイト 渡邉さんの求めるところとはずれている可能性があることに加え、そもそもこの企画に殴り込みをかけようなどというつもりは毛頭ないのですが、渡邉さんの「映像」をめぐる関心の持ち方には以前から共感を寄せていたこともあり、ご本人へのアンサーを送れる良い機会かと思い、このような文章を書くに至りました。 以下本文です。 これから行われることはある種の反則行為である。というのは未だ完結してい
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