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sugitasyunsuke.hatenablog.com
一部で話題になっているようだったので。 シンポに向けてのメモ(http://www.hirokiazuma.com/archives/000361.html) シンポに向けてのメモ2(http://www.hirokiazuma.com/archives/000362.html) よくわからない。 《おそらく、ぼくが採りたいのは、イデオロギーなき革新というか、物語なき進歩主義の立場なのだ。つまり、世の中は変わっていると考え、その変化を基本的に肯定するが、しかし特定の物語は信じず、「諸物語の均衡」にこそ支点を見出すという立場だ。》 《ぼくは「政治」という言葉は、個々人の立場表明を意味するのではなく、社会共通の資源のよりよい管理方法を目指す活動を広く意味するべきだと考える。だとすれば、それは必然的に、物語なき進歩主義、というか物語なき改革主義の立場になるはずだ。それなのに、物語の衝突ばかりが「
世の中の殆どの事柄に、ぼくは自分なりの結論(納得)を出せていない。 死刑制度の是非もその一つなのだけれど。 以下の論考には考えさせられるものがあった。 ◆井上達彦「「死刑」を直視し、国民的欺瞞を克服せよ」(『論座』2008年3月号) 《民主国日本において、死刑制度存続に対する最終的責任は【法相でも刑務官にでもなく】主権者国民に、特に死刑存置を望む国民多数派にある。死刑の正当化根拠としては、犯罪抑止効果、凶悪犯罪という法の否定の否定による法秩序の自己回復、被害者・遺族の復讐感情と一般社会の応報要求の満足など種々のものが挙げられるが、問題は、これらのメリットが本当にあると言えるのかだけではない。仮にあるとしても、それらが「国家による殺人」や「司法的殺人」と呼ばれる死刑の重大な倫理的コスト(誤判により無実の者を処刑するリスクも含む)を補って余りあるほどの比重を本当にもつのか否かを十分熟慮する責任
引き続き、子どもポルノについて。 森岡正博氏の愚直な提言は、考えるに値する。 《それは社会のロリコン化についてである。現在の日本のテレビや雑誌やインターネットには、女の子たちを性的な視線で眺め回すような商品がたくさん出回っていて、数多くの大人がそれを購買し、消費して楽しんでいる。呼応するかのように、12歳までの子どもへの性犯罪もここ数年増加傾向にある(警察庁調べ)。その点に目をつむったまま、小児性愛者だけをしたり顔で批判しても、それほど説得力はないのではないか。 速水由紀子は、ロリコンは日本の「国民病」になったと指摘している。これが誰の目にも明らかになったのは、モーニング娘。が話題沸騰したころからであろう。彼女たちへの視線がきわめて「性的」なものであり、12歳前後の女の子のイメージがいかにして性的商品として堂々と販売されたかについては拙著『感じない男』でも詳述したとおりである。》 『感じな
法制化の可能性は五分五分、と言われていたけど、ちょっと変な流れになってきた。協同組合は伝統的に失業者対策/失業者の自主的雇用創出の面をもつので、おかしな話ではないのだけれども、少しきな臭くもある。 協同組合の法制化もまた、「行政からの補助金など、公的支援に頼らない点も特徴だ」「地方自治体の行政サービスを民営化する際の委託先などになることも想定されている」など、社会的企業やらワークフェアやらの流れに沿って、下請け産業・孫請け産業の水際へと押し流されていく危うさもありそう。まあ、阪神淡路大震災の「後押し」もあって特定非営利活動促進法(NPO法人法)ができたみたいに、歴史の後押しは常に必要であるわけだし、行政・企業の思惑と草の根の動きが必ずしも一致するわけでもないわけで。 ちなみに、これも歴史的に、労働組合運動と協同組合とは相性が悪いので(労働者が協同組合を自主的に運営してしまえば、使用者と労働
【追記】font-daさんの→http://d.hatena.ne.jp/font-da/20080214/1202980795が、ずっと優れた東記事へのコメントをすでに書かれていた。そちらを参照して下さい(2008年2月20日)。 以下、メモ。 まず東は擬似こどもポルノの全面禁止の問題【C・2】については、「そちらにはあまり危機感を抱いていない」「日本では規制推進派のあいだでも、マンガやゲームまでひっくるめての禁止があまりに非現実的で、法外な結果を引き起こすことはあるていど知られているからだ。日本でマンガやアニメのロリコン表現が全面的に抑圧されることは、おそらく近日中にはないだろう」と述べて、話を終える。 その上で、「三次元、いわゆる実写の児童ポルノの問題」【C・1】についてのみ意見を述べる*1。論理は以下の通り。 (1)「児童ポルノの制作や販売は固く禁止すべき」。理由は「児童の性的虐待
非モテについてちゃんと考えるためには「非モテとは何ぞや?」という問い方だけではとてもダメだとわかったので、少し前から、ウーマンリブ/男性学/メンズリブなどについてちょこっと調べていた。 ご存知のように、非モテについてはすでに一定の研究(?)、というか、議論がある。 小谷野敦『男であることの困難』『もてない男――恋愛論を超えて』『帰ってきたもてない男――女性嫌悪を超えて』、本田透『電波男』『萌える男』『喪男の哲学史』、滝本竜彦『超人計画』、渋谷知美『日本の童貞』、酒井順子『負け犬の遠吠え』、斎藤環+酒井順子『「性愛」格差論』、渡部伸(全国童貞連合会長)『中年童貞〜少子化時代の恋愛格差〜』、赤坂真理『モテたい理由』、森岡正博『感じない男』(これは非モテからは少しずれるが)など。 森岡さんはブログでも非モテに関するエントリーを続けている。 そして何よりも、ネット上で、有名無名の人をふくめ、膨大な
http://d.hatena.ne.jp/dojin/20080210/p1 http://d.hatena.ne.jp/lessor/20080210 http://totutotu.seesaa.net/article/83448488.html dojinさんにトラックバックを貰ったので、少し。 自分は、lessorさんやとみたさんのように学問的にNPOを勉強しかつ自分で法人を立ち上げ日々地道に運営しているわけじゃないし、dojinさんのように学者的に研究しているわけでもないので、以下はたんに直感的なものだけど。まとまりもなく、だらだらと。 色々教えて下さい>皆さん ちなみに自分は、障害者サポートのNPO法人(療育ねっとわーく川崎サポートセンターロンド)で働き始めて5年目で*1、また、2007年1月に友人・仲間たちと有限事業責任組合(LLP)フリーターズフリーを立ち上げ、雑誌の発行
以下のイベントに行った。 「障害者自立生活運動の原点に学ぼう!」 第1部 映画上映会 14:00〜15:40『こんちくしょう――障害者自立生活運動の先駆者たち』 第2部 パネルディスカッション 15:55〜17:30「自立生活運動の前進と介助者の当事者性獲得に向けて」 パネリスト 福永年久さん(「こんちくしょう」製作総指揮) 関根善一さん(町田ヒューマンネットワーク) 菅原和之さん(世田谷介助者ユニオン〈仮称〉準備会) コーディネータ− 横山晃久さん(自立生活センターHANDS世田谷理事長) 主催 NPO法人自立生活センターHANDS世田谷 共催 世田谷介助者ユニオン(仮称)準備会 協力 東京ケアユニオン パネルディスカッションでは、障害者運動(青い芝〜JIL系)と介助者運動の連帯が強く主張された*1。 ケア労働者のワーキングプア化がメディアでも伝えられるようになった。しかし、障害者介助の
無間道 作者: 星野智幸出版社/メーカー: 集英社発売日: 2007/11/05メディア: 単行本購入: 2人 クリック: 16回この商品を含むブログ (28件) を見る よかった。 人々は生の空虚に耐えかね死を選ぶが、死んでも死ねずに甦る。リセットとリプレイ。三つの短編が入れ子構造になっている。それぞれの短編の最後に主人公が見出す、この世界の基本設定(無意味な自殺→無意味な再生)に抵抗し抜け出すための行動(「無間道」の「この生」を生ききる覚悟/「煉獄ロック」の愛と逃亡/「切腹」の本気の死)すら、他の短編の中では無意味化されてしまう。三つの作品は発展関係にないし、どれか一つの作品が特権的な意味を帯びることもない。 物語の形式としては桜坂洋『ALL YOU NEED IS KILL』などに似ている(参照→http://d.hatena.ne.jp/sugitasyunsuke/2007061
労働よりも生存(生命)の価値は大きく、重い。現在の労働運動のポイントは、このシンプルなひと言にある。われわれが最も剥奪されているのは、雇用機会や賃金だけではなく、生存/生命それ自体だから。 「生きることはよい。生存を貶めるな!」(自由と生存のメーデー07)。 ベーシックインカムは労働と生存を切り離し、後者のために生存給付を無償で保障する制度のアイディアのことだし、フリーターユニオンふくおか(代表・小野俊彦)は、労働組合と同時に生存組合を名乗り、デモや団体交渉はもちろん、「不安定な人々が集まってお互いのサバイバルを助け合う」「組合員相互の生存を地味に支えあうために米やタバコなどを供給しあ」う、などの活動をプログラムに組み込んでいる。 労働の争いは、すでに生存の争い、生存運動へとステージが上がっている(最初からそうかもしれないが)。 そのポテンシャルを、われわれもまだ、十分に出し切っていない。
下記のイベントだった。 http://d.hatena.ne.jp/sugitasyunsuke/20070830/p1 「こわれ者の祭典」の月乃光司さんが、mixiで 《最近、プレカリアート運動と「心の健康問題」を持つ人々の持つべき考え方について、 相反する部分があるような気がしてきました》云々と書いていて、この労働運動/精神障害・メンヘル系のずれや「相反する部分」のことはとても大事ではないかと以前から思っていたので、その辺りを月乃さんには聞いてみた。 月乃さんは最後に「自分が労働問題に積極的に関わることは一生ないとわかった」とはっきり言っていた。今日皆さんと話していてそのことがわかった、と。 「怒らないこと、闘わないこと、論争しないこと、 現状をなにがなんでも感謝すること」 ということが、アルコール依存症者が再飲酒しないポイントであるらしく、それは月乃さん自身が精神病院を退院してからず
単なるメモです… ◇(http://d.hatena.ne.jp/mojimoji/20070908/p1)より。 リバタリアンA:政府の徴税・再分配は失敗する(と信じる)→諸個人の自発的贈与でセーフティネットはうまく行く(と信じる) リバタリアンB:政府の徴税・再分配は失敗する(と信じる)→諸個人の自発的贈与もうまくいかないだろう(と信じる)→全員からの徴税を均等に頭割りする(ベーシックインカム(a))=ゆえにリバタリアンはBIに賛同しうる(ヴァン・パレイスは「真のリバタリアン」を自称) フリードマンの「負の所得税」:所得が一定水準以下の人に、その水準を下回る差額(の一定割合)だけ負の課税=給付を行う、というアイディア。ミーンズテストなどもなく、働いた方が全く働かないより総所得は増える仕組みなので、労働インセンティヴを阻害しない、とされる。ただ、所得税の定率化(非累進税化)を前提としてい
メモ。 市野川容孝がフーコーの「生権力」(生きさせるか、死の中に廃棄するという権力)を「餓死するにまかせる権力」として再解釈している(「生‐権力再論――飢餓という殺害」『現代思想』2007年9月号)。 市野川は、餓死というとき、食糧不足や栄養失調のみならず、HIV/エイズの薬剤や人工呼吸器がないこと、それらを与えられないまま放置されて死んでいくことをふくめている。作為的に殺すのではなく不作為のまま死ぬにまかせておく権力。 ナチズムの安楽死もまた(ある部分では)、作為的に殺しただけではなく、不作為(放っておくこと)によって例えば精神病院内の精神病者を殺害した。もともと第一次大戦中には、ドイツ国内の精神病院では、約七万人の精神病者が飢えと栄養失調で死亡している。この数は、ナチの安楽死計画によって一九四一年以降に殺害された精神病者の数とほぼ等しいという。ここから目を転じて、市野川は、現在の日本の
今月は仕事が山積みで全然時間が足りないんだけど、今日は連れと恵比寿ガーデンプレイスへ行き、待望のデイヴィッド・リンチ『インランド・エンパイア』(2006年)を観ました。 細かい部分は殆ど意味不明だった。でも凄かった。黒沢清『叫』やアンゲロプロス『エレニの旅』の時のように、作家が自分の限界を自力で超えていく時のブレイク感がぼくの中に吹き込んだ。リンチはもちろん、新しい何かを導入してはいない。いつもと殆ど同じ貧しい素材や道具しか用いていない。それでいながら、何かが別の水準へと切りひらかれた感触。 (何しろ非常に難解で複雑な映画だし、一度観ただけの感想なので、基本的な勘違いなども多々含まれると思うが、ファーストインパクトを書きとめる。このあと、他の評者の感想や見解を色々調べて、間違いは修正していく。) 「一人の人間が、二つの別の人生を生きること」は、リンチ的世界の無条件の公理としてある(黒沢清の
『ユリイカ』2007年8月号に「生きのびることのオリジン――安彦良和小論」という原稿を書きました。前半は宇野常寛・東浩紀(的なもの)への批判、後半は安彦論です。よろしければ。(個人的にはイズミノウユキさんの視覚論が楽しみ。) http://www.seidosha.co.jp/index.php?%B0%C2%C9%A7%CE%C9%CF%C2 27日に発売の『雨宮処凛の「オールニートニッポン」』(祥伝社新書)に、赤木智弘+雨宮処凛+杉田俊介の鼎談(第4章「フリーターの希望は戦争か」)が掲載されます。こちらも、よければ。 http://www.s-book.com/plsql/com2_detail?isbn=9784396110864 だいぶ前に、オールニートニッポンのウェブマガジンに「弱者暴力との抗争――内藤朝雄氏のよわよわしさについて」というエッセイ(2回分)を寄せたのですが、一向に
叫 プレミアム・エディション [DVD] 役所広司Amazon 黒沢は「Jホラー史上最恐」をねらったのかもしれない。 ありふれた幽霊物語ではある(『ドッペルゲンガー』『LOFT』のように、複数のジャンルが奇形的に組み合わさっているわけではない)。しかし、葉月幽霊(赤い服の女)は、もう一般的な、Jホラー的な「幽霊」のイメージをだいぶ過剰している。むちゃくちゃ変だ。 地震と共に現われる幽霊なんて普通おかしいだろう、というだけではない。最初に役所の部屋に現れたとき、葉月幽霊が普通にドアから帰って行ったときは、ひっくりかえった。超スローでゆっくりゆっくり近づいてきたり、壁の亀裂を破壊しながら登場したり、部屋の片隅でしくしく泣いたり、役所をベッドに押し倒したり、団地からふいに飛び降りたり、空を飛んだり(この飛び降り→飛行シーンがマジやばい。「えーっ?!」と叫んでしまった)、高飛び込みのように天井から
上山和樹氏のブログはここ2年ほど全く見ていなかったが、久々にのぞいたら、下記のようなエントリーがあった。 http://d.hatena.ne.jp/ueyamakzk/20070714 http://d.hatena.ne.jp/ueyamakzk/20070719 http://d.hatena.ne.jp/ueyamakzk/20070720 貴戸理恵氏『コドモであり続けるためのスキル』を論じるエントリーであり、杉田が直接名指されているわけではない。しかし、杉田が用いる「無能力者」「もっと怒っていい」などの言葉が頻出しているのを見ると、上山氏はやはり、杉田の『フリーターにとって「自由」とは何か』「無能力批評」等を、どこかで念頭に置いているのだろう、と思う。 私はここしばらく、論争/相互批評から、少し身を引き気味だったところがある。 正直に言って、論争/相互批評の過程から何が出てくるか
野崎泰伸さんへのレスは長くなるので、少し時間がかかります。 lessorさんのエントリーを読み、暗い気持になった。 http://d.hatena.ne.jp/lessor/20070720/1184955068 長い間言えなかったことを、はっきり書こう。 「利用者と家族のために、生贄になろうではないか」というlessorさんの感覚は、間違っている、と。 このエントリーのこの箇所は、つい筆が滑っただけかもしれない。あるいはやけっぱちの皮肉を込めたのかもしれない。このエントリーにも、いつものような煩悶や揺らぎがある。しかし、今現在の「苦境」に限らない。ここ数年、遠い他人から勇気付けられるように、或いはぼく自身のケア労働者としてのダメダメさを思い知らされるようにlessorさんのブログを読み続けてきた人間として、言う。長い間言えなかったのは、他人の生き方に容喙する資格などてんで無い自分のダメさ
速攻で書いた大雑把なエントリーです。間違いは謝罪します。 lessorさんの苛立ちには心から共感する。 しかし、 http://d.hatena.ne.jp/x0000000000/20070717 性急に「支援者」にレッテルを張り、それを叩こうとするこういう上ずった言葉に心の底から嫌悪を憶える自分を、どうしようもない。 たぶんlessorさんの苛立ちは、こういう上ずった批判=正義には回収されない。「支援者」である以外ない人の、微妙な失語や言い淀みを含んでいる。ぼくにはそう読める。 「地域」という言葉には、福祉関係の世界では、独特のニュアンスがこもっている。「困った時は地域でカバーしろ」というか、マジックワードのようになっている。 ある時期から、行政は、介護の社会化をたぶん(介護の市場化や介護の十全な公的保障ではなく)「地域ボランタリー+主婦パート」という形で構築して来ているわけで、そこに
少し前に『新現実』をぱらぱら読んでいたら、武田敦さんという人の「ゆめみるオタクの杞憂」という文章が、妙に気になった。 新現実 v.4 出版社/メーカー: 太田出版発売日: 2007/04メディア: 単行本購入: 1人 クリック: 29回この商品を含むブログ (12件) を見る 武田氏は『涼宮ハルヒ』の世界を「僕らオタクにとってのユートピアそのもの」と言っている。その上でこう書いている。 《僕は涼宮ハルヒの「世界を大いに盛り上げる」という思想と言うか感情と言うか、彼女自身を突き動かしている「世界への挑戦と愛情」を支持する。決して「世界を壊す」だとか「世界よ消えろ」だとかではなく、世界は「盛り上げる」ものなのだということを改めて僕は認識した。そこで僕は聞きたい。みんな盛り上がっているかい?と。》 「世界を壊す」(革命)でもなく「世界よ消えろ」(ニヒリズム/テロリズム)でもない。「世界は大いに盛
たんなるメモです。ちゃんと勉強しないと…。 たくっちさんが、ケア労働分野で、雨宮処凛『生きさせろ!』のようなことを述べていられる。さながら「ケア労働者も生きさせろ!」と叫んでいるかのように。 http://blogs.dion.ne.jp/karintoupossible/archives/2007-06.html#5820235 介護労働者が、がんばりやさんのための低賃金長時間不安定労働を強いられていること、そんなことはたぶんだれにとっても自明なことで、それはおそらく、障害者が貧乏で世間の迷惑にならないように生きるよう強いられていること、あるいは障害者ががんばりやさんでなければならないこと、そうしたことが自明であるのと一緒であり、あるいは、生活保護受給者が貧しい暮らしに甘んじなければならないこと、贅沢をしてはいけないこと、そうしたことが自明なことと根っこは一緒なのだと思います。 結局、わ
『PLANETS』Vol.3(http://www.geocities.jp/wakusei2nd/p3.html)に掲載されているという三ツ野陽介「 内輪のリアルを語る者は誰か? 東浩紀『ゲーム的リアリズムの誕生』を出発点に」を僕は読んでいない。しかしあるところで、その原型となる三ツ野氏の文章を読んだ。 人生をもう一度やり直したい。こんなはずではなかった。時間を巻き戻して、別の選択肢を選び直せるなら。そうしたリセット・リプレイ願望の原型を、三ツ野氏は、たとえばニーチェが批判した「ルサンチマン」の中に見る。ルサンチマンとは、今ここにある現実に不満を抱き、もう一つの現実を夢見るようなメンタリティである。滝本竜彦『超人計画』や本田透『喪男の哲学』など、非モテ/喪男系を自認する論者たちが、ニーチェの永劫回帰論を参照し、「これが人生だったのか、それならばもう一度」という運命愛=覚悟の意味を論じるの
『ゲーム的リアリズムの誕生』(二〇〇七年)の「付録B」の「萌えの手前、不能性に止まること――『AIR』について」に心を動かされた。もともと、共著『美少女ゲームの臨界点』(二〇〇四年)に収録されたものだという。そちらの論集は僕の手元にはない。 ゲーム的リアリズムの誕生~動物化するポストモダン2 (講談社現代新書) 作者:東 浩紀講談社Amazon 『ゲーム的リアリズムの誕生』に付された短いこの「付録」は、おそらく、前作『動物化するポストモダン』(二〇〇一年)ばかりか、本作『ゲーム的リアリズムの誕生』の中の一つの死角をも、内側から食い破るように自己批評している。そのように感じられた。そこに心を動かされた。 東浩紀はそのオタク論を展開する場合に、しばしばエロゲー/美少女ゲームについて論じてきた。にもかかわらず、エロゲーのポルノ的な側面、あるいは性暴力的な側面には積極的に触れようとはしてこなかった
ウルトラジャンプで『スティール・ボール・ラン』を立ち読み。 新しく登場したウェカピポがヤベェーくらいカッコいいや。リンゴォ的な「生の悲哀」を、そしてそれを超えてきた者の凄みを自然に漂わせてもいる(敵に敬意を払え、敵を低く見積もるのではなく、その最も優れた能力とこそ戦え、という感覚も似ている)。 友人が「SBRのテーマは自己犠牲だよね」と言っていた。 しかし、正確には、SBRのテーマは「自らの足で立つことを望む精神が、なぜ自己犠牲に至るのか」にあると思った(『フリーターズフリー』の「無能力批評」で少し書いた)。逆にいえばそれは、一人自ら立とうとする精神を通過しない自己犠牲(献身)はありえない、その場合は単なる滅私奉公にすぎない、ということなのか。 死刑執行官のジャイロは冤罪で死刑を科せられた第三者の子どものために、自らの生命を賭してレースに参加する。ジョニィ(かつて兄の「身代わり=犠牲」によ
DVDで見直した。 時をかける少女 通常版 [DVD] 仲里依紗Amazon 哲学者のキルケゴールは、その謎めいた著作で、真の「反復」とは、過去を向いて失ったものを想起することではなく、未来へ向けて過去を取り返すことだと述べた(『反復』)。「追憶されるものはかつてあったものであり、それが後方に向かって反復されるのだが、それとは反対に、ほんとうの反復は前方に向かって追憶されるのである」。 マコトのタイムリープは、そのままではこうした意味での「反復」にはならない。リセットとやり直しを延々と繰り返すだけだ。キルケゴールは反復という精神の態度の中に、過去の誰かの絶対的な喪失をそのままに受け止めて弔うことによって、それをやり直すのでもなく忘却するのでもない形で、人が未来へと再び向き直す、そのための転回軸を見通していた。逆にいえば、喪失や別離という過去から目を背けてそれをなかったことにするとき、私たち
東浩紀は二〇〇七年に刊行された『ゲーム的リアリズムの誕生』において、『ALL YOU NEED IS KILL』『九十九十九』『ひぐらしのなく頃に』『時をかける少女』など、登場人物が人生のリセットとリプレイを繰り返すタイプの小説・アニメの形式に「ゲーム的リアリズム」を見出そうとした。 よく知られているように大塚英志は、様々な著書の中で、自然主義リアリズム/まんが・アニメ的リアリズムを理論的に区別している。日本の伝統的な自然主義リアリズムは、自然・風景・心理などを客観的に、そのまま模写しようとする。これに対し、「まんが・アニメ的リアリズム」は、まんが・アニメの中に登場するような「キャラクター」(宇宙人や超能力者や未来人)を写し取り、それを小説化しようとした。そしてそこにこそ自分たちのリアルがあると見なした。まんが・アニメ的リアリズムを代表するのはライトノベルであり、大塚はその感覚の原型をたと
宇野常寛「ゼロ年代の想像力」(『SFマガジン』07年7月号)を立ち読みした。全然ダメだろう。90年代の想像力は「ひきこもり」系「セカイ」系で『エヴァ』『ハルヒ』、00年代の想像力は「サバイブ」系「決断主義」で『コードギアス』『デスノート』、と。東浩紀のオタク論は前者に属し「古い」、後者の想像力が「新しい」。――こんなの、ただのマッピングに過ぎない。しかもかつて例えば磯田光一が左翼(共産党系)/サヨク(新左翼)を分離=切断した時の社会的な問題提起の感覚さえない。わずか10年の世代感覚の差異をちまちま論じ、後者を絶対化し前者を叩く。「コップの中の差異」以下の、この時間的空間的な狭さは何だろう。宇野は東には00年代的なサバイブの感覚がない、と難詰する。しかし、例えば最初期の東浩紀のソルジェニーツィン論やデリダ論は、「生きのびようとする戦略や意志の全く通じないスターリニズム的な世界の中で、生きるこ
ヤングジャンプ(07/5/24号)が「めざせ!働王」という特集を組んでいる。 プロレタリアマンガ?のポテンシャルにはすさまじいものがあるはずだってずっと思っていて。 友人から薦められて中村珍さん(21歳女性)の『チェリオ』という読切マンガを読んだ。かなりグッときた。 28歳フリーター男性の話。コンビニ夜勤とハンバーガーチェーン店バイトかけもち。 「頑張ったら報われる」ことは嘘だってわかっていて、「頑張ったって報われる事はない/ただ暮らしていられるだけ」なのだけれど、「それにスネたら不本意に負けるだけ」だから(この世の何かに本当に負けてしまうから)、なお「頑張る」。 自己責任論としての「もっと頑張れるはずだ」じゃない。「頑張る」の意味がチューンアップされている。 このぎりぎりの感覚から出発して、純粋被害者として破壊願望に身をゆだねるのでもなく、しかし自分の鏡像に「お疲れ」と言うだけでもなく—
あんぱんまんの絵本を幼い頃に読み、なにか不吉な凄みを感じたことのある人は多いんじゃないか。 アニメのアンパンマンの歌詞の「暗さ」も気になってた。 http://takoweb.com/~mebi/text/2006/anpan.php 歌い出しからして「なにが君のしあわせ/なにをしてよろこぶ/わからないまま おわる/そんなのはいやだ!」だからなあ…。 ちなみにテレビの主題歌は「2番」なんですね。確かに「1番」の歌詞は子ども向け番組にしてはヘヴィすぎるかも…。 こんな記事があった。 http://www.excite.co.jp/News/bit/00091155140127.html ネットで調べたら「やなせたかしは闇属性」「あんぱんまんの世界は基本的に鬱」みたいな感想は、多くの人が抱いているらしい。 wikiには「アンパンマンの『正義』」の項目に、次のようにある。 《やなせたかしがアンパ
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