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…ハイハイ。 どうやら、そうらしいです。まあ今更『このマンガがすごい!』についていう事もないけども。 「いやいや、…まあヌルいのは知ってるけど、この本の意義は『自分で面白い漫画を発見できない人らの為なビギナー向けマンガガイド』なので」という言い訳とかして手加減をアピる、ホントの自分は漫画センスがあると思ってる実際は漫画センスのない奴らばかりが選ぶ糞マンガランキング誌、それが『このマンガがすごい!』。しね! いままで一位に選ばれたのって、『聖☆おにいさん』とか『進撃の巨人』とか『テルマエロマエ』とか…、まあ面白いではなく"面白風味"ばかりだよね。面白そうな雰囲気だけ醸してる、実際にはつまんない作品。 筋の良くない、マンガ経験値が上がらない、そのエントリーマンガをキッカケによりディープで面白い作品へと牽引しない、ステマで盛り上げてすぐ消費されてブックオフの百円コーナーに山積みされる、そんな焼き
戦争ダヨーッ! あきらかにぶつけてきました。漫画シーン最先端ツートップ。10月25日発売のアフタヌーンで市川春子新連載、同月27日発売の月刊スピリッツで西村ツチカ新連載。ぶっちゃけ今この二人の漫画だけを読めば十分。それ以外は時間のムダです。両作品だけ読んだら、もう雑誌はゴミ箱に捨ててヨシ! え~まずは市川春子の『宝石の国』、いきなり最初の見開きが素晴らしい。説明してない。そしてこの作品がなんであるか、端的に象徴してる。つまり"こういう"話だ。 このコマが漫画として説明すべきは「草原を並走する少女たち。その一人が振り返る」である。が、正直一読して良く分からない。しかし、そんなものはどうでもいい。何故なびく髪ですべての少女の目は隠れてるのか。状況説明感に乏しく最初からそれは最低限のおざなりで、もっと別のところに関心があるのではないか?そう感じさせる。そしてそうだ。漫画を破壊している。 漫画を外
是非でいうと是、良かった。一番面白かった。一番エヴァだった。 エヴァの定義とは? 見ると不安になり、挑発され、心穏やかでなく、怒りを覚えたり、感情を揺さぶられ、さんざん引っ掻き回され、でも無視できず、けして目を離すことが出来ない。 ほら、キチンと本作はエヴァに則ってる。まごうことなきエヴァだ。 破と序は完全にネタフリだった。今回のQは完全にスピンアウトした。 まったく説明されず観客はいきなり放り出される。皆あまりの事にざわつく。 10分たっても20分たってもまったく説明されない。ますますより放り出す。その張りつめた真空状態にピリピリして耐えられず、あちこちで無言の悲鳴が上がる。 知ってる。罠だろ。殺しにきてる。根負けして「もうダメ…」そう息継ぎしようと水面に上がるところをスナイパーが待ち構えてる。 なので根比べ。涼しい顔で平然と振る舞う。相手が全力で「ブッ殺す」ならコッチは全力で「ブッ殺さ
件のエッセイストの小田島隆氏の発言「>21世紀のバラエティーにおいて、最も確実に笑いが取れるのは、『誰かが心底からおびえている姿を、大勢で取り囲んで笑っているシチュエーション』だったりするわけですよ」に対し、まったく説得力の無い、幼稚な内輪でしか通用しない屁理屈で勝利宣言した、残念なお笑いマニアたちがくだらなく『アメトーーク!』の企画「どうした!?品川」を大絶賛し合ってるのを見て、(以下、自分のtwitterでの発言) >品川って深夜ラジオで伊集院に直接的な言葉は使わなかったけど「所詮、典型的な低リテラシー専の面白風味なテレビ芸人」みたく切って捨てられてた筈。お笑いマニアなら深夜ラジオ、伊集院コサキンあたりは基礎教養(古くはビートたけしのannとか)その辺りの折り合いや理解はどうなのかな?と思う。 >爆笑問題や伊集院は「正直テレビの笑いはヌルいな、くだらねーな」と思いつつプロレスに付き合っ
まずキッカケ、エッセイストの小田島隆氏のツイートまとめとソレに関連するブログのエントリー http://togetter.com/li/365582 http://takoashi.air-nifty.com/diary/2012/09/post-d92e.html そしてソレ に対するお笑いマニアな人らの反論。 http://funuke01.cocolog-nifty.com/blog/2012/09/post-f573.html http://d.hatena.ne.jp/karatedou/20120904#p1 自分は小田島氏寄りな考え。テレビのイジメ芸は低俗だと思ってる。芸人の程度が低いから、そういう安易で楽な方法に逃げている。 ただ自分はテレビをまったく見ないので、事の発端である、スギちゃん胸椎破裂骨折でテレ朝お詫び(http://www.nikkansports.com/
まあ自分の観測範囲、主にkanoseさんだけど。 kanoseさんは上條淳士のto-y大好きっ子。蔦屋が「田舎者が考える東京のイメージ」ならまさに上條淳士のto-yなんて蔦屋以上の田舎者が考える東京のイメージそのもの。ダブルスタンダードじゃん。 まあ場違いなアトモスフィアでプギャーとファビョったんだろうけど(いいじゃないか蔦屋。大友克洋の画集の見本が置いてあってタダで読めた。渋谷パルコの本屋はしみったれだった。/あんな高い画集を買うヤツの気が知れない。値打ちコキたくて吹っかけてる。ボッタクリ。どうせ買うのはアートコンプなオタクだけ。きっと メビウスの漫画もそのマヌケ面でありがたがって買うんだろ。 まあkanoseは東京都心ど真ん中で生まれ育ったので自分を都会モンだと勘違いしている。 オタクはバカッペ(バカ+カッペ)とおんなじ。オタクは精神がバカの田舎モン。なので例え東京で生まれ育ってもオタ
大衆は文化を理解しないばかりか必ず破壊する。「大衆に開放された文化を!」そんなやり口で脅迫する。真に受けたヤツは文化殺戮者。如何に聞き分けの良いフリして、のらりくらりかわしスリ替え、誤魔化して煙に巻くか。 文化偏差値70がボーダーだったものを65まで開放しろという。開放すれば次は60にしろという。いちいち応じればすぐに50の平均値、もうソレは文化では無い。はい、文化死にました。そうやって何度も殺されてきた。 なのでファインアートはうわべだけ受け入れた。65でなく30を。一番下。そうすることで守った。むしろ100あった椅子を明らかにアートでないものに20ほど譲ってやる事で、よりエリート主義にした。 彼らの要求を飲むフリで逆に彼らの要求の反対のことをまんまとしてやった。 あと批評の二律背反がある。批評家としての優秀さを示すのとファインアートをキチンと相対化して正しく評価する、この二つは並ばない
あまり気乗りしないけど(一ヶ月更新しないと広告が出るからそれを消す目的で。 最初の五分ですぐ飽きて携帯を弄ってた。「(チラッ)え~まだ一時間も経ってないの~」そう何度も時計を見ては早く終わるのを念じてた。手前にいる親子連れの子供が退屈そうで、ずっとグズってた。 まず動機が分からなかった。アニメは二種類あって、作家の内なる訴えたいもの、まあ作家性?を発露する為の映画と、 純粋アニメートの表現をより高める為の実験場として表層的に「ストーリー」という世間のコンセサスが得られる方法を一応借りる、その二通り。 どちらでもない。一応後者である「作画アニメ」なのだろうが、その要素は薄い。最後のスタッフロールは豪華メンツだが、そんな超一流どころが八割程度で余力を残して流した感がある。おそらくコンテを読んで「…まあ断れない義理汁な仕事で」という大人の事情だろう(それでもアニメを千本見たぐらいで「オレは審美眼
オタクは「真のアートはきっとオタクコンテンツである、だから現代アートは我らにひれ伏し『どうぞこのアートを称号する王冠をお受け取り下さい><!』そう泣いて敬うべきなのに、何故いつまでもそうしないのか」そう本気でイライラ誇大妄想してる。 何故、長い年月かけて苦労し培ったアートの権威をタダでオタクにくれてやらねばならないのか?当然政治的に利用できるから近付く。まあ良くてギブアンドテイク。「かりそめの権威をやるから金を寄越せ。或いは客寄せパンダになれ」みたいな。 A:アカデミズム・美術・コンテクスト有り B:アカデミズム・美術・コンテクスト無し C:アカデミズム・デザイン(イラスト含む、コマーシャル全般) このAからCまでが広義のアート、広義のアートの話をしてる時にAのみに限定して話しを掘り下げる際にはファインアートという言葉で分断する。そして厳密な意味でのアートはAのみ。A>B>Cとなる。 で、
以下「俺的絵柄の分析」というページの冒頭部分を引用する。 >近年の絵柄の最大の分岐点は童夢以降の大友克洋にあると思われる。リアルな絵柄として大友以前にも劇画があったが、劇画のリアルとは、写真を絵に変換して得られるリアルさであり、物体の存在感は<影>によって表現される。写真をトレスして仕上げる池上遼一が良い例だし、よくギャグ漫画で使われる劇画調の表現は、普段の絵柄より頭身を高くし、陰影をつけたものである。大友はそのような劇画の違うラインにいる。大友が目指すリアルとは影でなく、輪郭線によって物体の存在感を出す事である。近年の「上手い絵」と称される絵はほとんどこの条件を満たしている(もちろん例外もある)。これを「オブジェ感」と定義しよう。 この辺りについては、いしかわじゅんか夏目がBS漫画夜話で語った内容の方がよりストレートに本質を言ってる。 「劇画絵はマンガ絵に斜線の陰影を足して情報量を増やし
「アニメをまず1000本見ろ。でなければアニメなど分からない」は真理として、同時に「アニメは1000本見れば十分。むしろそれ以上は見るな」も真理だと思う。 良いも悪いもひっくるめて大量に浴びるように摂取する。それによりアニメというジャンルの「フレーム」を理解する。 70年代80年代90年代、それぞれの生まれた多感な時期、そのほとんどは消えるジャンクのような作品群を見てフレームを理解したらもう後は文脈的に意義のある作品、それ以外は時代性を反映してるトレンドなヒット作を(知識として)補足的に押さえればOK。 そして余ったリソースをアニメ以外、よりハイカルチャーな分野に割いて、それらとアニメを相対化するコトでより深層化してくのがオタクの成熟だと思う。 いい大人なのに若い子が見るくだらないアニメを週50本も追ってるよ自慢や、地方の遊園地のプリキュアショーにお仲間と大挙して遠征し、子連れ親子を押しの
youtubeで天使のたまごを少し見た。 最初のカットが手のアップの長回しの芝居。手を結んだり開いたり。作画的に手間がかかり面倒な割に、お客は喜ばないアニメート。あれは「これはアニメではない。アニメをつかった映画である」という押井の宣言なので、まあいい。次のカット。天野喜孝のキャラデザした女の子の登場シーン。ここで切った。もう見るのをやめた。 つまりこの2カットまで見たのみで以下の感想は書いてます。 これってアート映画オタの押井が「アート映画を知ってるし、作れるよ」のつもりで作った「アート映画を知ってるだけ(作れない)」な映画だと思う。押井の絵心の無さが顕著に出てる。(絵が描けない監督は大抵「できるコンテマン」がいるので、その審美眼が見極め辛い。ハイクオリティなIGなら尚更に) 押井が天野にアニメ絵でないイラスト絵のキャラデザをさせたのは「いわゆるアニメ」を作りたくなかったから(天野を選ん
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映画のレイアウトは絵画の模倣から始まった(「いや、写真だ」という人もいるかもだが、写真もやはり最初は画家のアルバイトだった)。古い映画を観ると笑う。あまりに厳密に画面を作り過ぎてるから。奥にいる女優の赤いワンピースと画面上で韻を結ばせる為、対角線状に赤いチューリップを生けた花瓶など置いてる。 コレが廃れたのはウソっぽさが見え、映画の「現実を記憶するメディア」という特質性が否定的になるから。たとえフィクションでもやはり実写というのはドキュメンタリーだ。絵画ほど真実は追求出来ない、かなり現実に縛られるメディア。 劇場アニメのレイアウトは普段テレビでは出来ない「まるで映画のように凝ったレイアウト」を志向する。広角レンズ、斜め上あるいは斜め下など難しいアングルからのパースを付ける。それらはとても印象になる。 でもその手法は絵画ではあまり無い。何故か?絵画は永遠性を求めるから。それらのレイアウトは映
アニメは映像、つまり絵そしてアニメートに依存する表現である。 まず脚本家出身の有名な監督がいない。極めてストーリーの比重というのは低い。 コレは映画にも言える。映画で一番重要なのは監督。脚本家がクローズアップされるのは大抵テレビドラマ。 どういうことか考えるに「映画のような映像で訴える事ができないチープなテレビドラマは、ストーリーの引きで観せるほかないメディア」だという事。 つまり映像が仕方の無い場合の代用品がストーリというものだ。 さらに声優出身のアニメ監督は全くいない。映画のように伊丹十三やクリント・イーストウッドが生まれない。ストーリー以上に声優(俳優)の演技の比重がアニメにおいてより少ない事を示唆している(実写映画は「俳優の演技というハプニング性」にかなり頼った表現だが、アニメはそうでは無い)。そして音楽にいたってはアニメも映画も監督は全くいない。 「映像>脚本>声優>音楽」アニメ
ジャンプで追ってるから既に知ってる内容だった。パラパラと流し読みし内容を確認する程度。 最近は段々軸となるモノが無くなり迷走してる印象がある。 当初こそ「ジャンプで連載する」という明確な目的があったが今はもうデビューしたその後、その次となる動機を作中からは見つけづらい。 おそらくこの迷走の理由は「当初ガモウが考えてたストーリーに対し、ジャンプ編集部からことごとくNGを連発されたからではないか?」そう睨んでる。 例えばこの4巻では金未来杯という「新人マンガ家による連載コンペ」があり、そのライバルの一人として人気アーティストの新人マンガ家、KOOGYが出てくる(初登場シーンではまるで一番のライバルであるかのような引きで終わってる)。 ここしばらくジャンプ本誌でのバクマン。の掲載順位はいつも後ろの方で「編集者やマンガ家からの注目度、評判は高いが一般受けは、やや微妙」という雰囲気がある(同業者から
ジャンプは「ノルマンディーひみつ倶楽部」の時もそうだけど、漫画描きを主役にしたマンガをやる際には慎重。 クラスのイケてるグループに属してる二人がマンガを描いてる。「だから彼らは特別ですよ。君らのイメージする根暗なオタクじゃないですよ」そうイメージ操作する。(読者の想像する「マンガを描く典型的なオタク」の印象を押し付けたステレオタイプなキャラ(石沢)を登場させることで切断処理する) あとぶっちゃけてる様で全然ぶっちゃけてない。世の中の仕組みが分かったと思ってる「すこし賢ぶった厨房」を騙す為のマンガ(そして「手加減してあるけど本当はこう描きたかったんだろうな、こういう事を行間に含ませてるんだろうな」と補正しながら大人は読む構図) また編集サイドが「ジャンプの理想とする投稿者を教育する目的で入れさせてるエピソード」とかもあると思う。けしてガモウ自身が考えてる信条ではなく。 例えば「(ジャンプの他
アニメの現状に対し思ってることを(固まってない抽象的な思考を捕まえる為)アバウトにつらつらと羅列してみる。 自分はよく美術のコトバや理論を持ち出してきてアニメを叩く、批判する。 アニメは歴史が浅い。せいぜい半世紀ちょい。過去の歴史からは学べない。 価値観も「良い、悪い」しかない。美術には「良い良いもの」「良い悪いもの」がある。オタク(作画オタク)は「良い悪いもの」を刺せない。ソレらを表すコトバを持ってないから。その為に問題が可視化されない、認識できない。 だから美術からコトバを輸入する。例えば「予備校絵」と「サロン的」というコトバ。 美術には何度も危機があった。決して盤石だった訳ではない。主流派は容易く間違える。その度に傍流のチンピラが救い生き長らえてきた、そんな綱渡りな歴史。 世の中に真実は無い。勝者が絶対。ソコにあるのは現実だけ。だから皆それがすべてだと信じ込んでいる。 美術、つまりア
商業セルアニメの元祖にして最高峰がディズニー。半世紀以上前に作られたファンタジアが最高傑作。アレを越えるアニメート作品はおそらく無い。 そしてディズニー原理主義で考えた場合、「一秒24コマの絵」で作るフルアニメが至上。そのルールに照らした場合、「電脳コイル」より「らき☆すた(ハルヒ)」の方が優れている。 ニョロニョロと滑らかに動く。つまりそれだけ動画枚数を多く使ってる。よりフルアニメに近い。よって「電脳コイル<らき☆すた」となる。 コレに作画マニアは反論する。アニメは「アニメーターのスキル」こそが最も重要。「スキル>作画枚数」、だから優れたアニメーターである磯光雄の手掛けた電脳コイルのほうが偉い。 じゃあ磯光雄がフルアニメにしたら?今の2コマ3コマ打ちの磯光雄より偉いの?より優れてるの? >フルアニメの磯光雄の方が優れている。 この場合、「リミテッドアニメという制約の中で独自の進化をした日
今回は「鉄腕バーディーの作画崩壊の件」がキッカケのエントリーです。詳しい事情とかはこの辺りを読んで下さい。 鉄腕バーディー DECODE:02 第7話の作画について知っておくべきこと 鉄腕バーディー DECODE:02 第7話の作画についてダラダラと まず大原則として「アニメーターはひとかどのクリエーターではない」って事。 リスキーな作家になる事を放棄して彼らは安定してる「職人絵描きなアニメーター」になった。その安定の代償として「個性を殺して原作(マンガ)の絵をひたすら忠実にコピーするロボット」となるのが決まりだ。 アニメの世界で作家性を発揮しても良いのは自分のオリジナルの企画で(監督なり演出家となり)アニメを作った時だけ。そういうリスクを取らずに自己表現をしてはならない。 80年代前半にアニメーターの個性的な作画表現を評価するような風潮が出来た。でもソレは「本来なら許されない行為」をお目
藤島康介は余白の白でケッコウ絵を作るタイプ。緊張感があるので背景無しでも抜けない。美少女マンガ家なので「如何にカワイイ女の子を描くか」みたいなベクトルと思われる
漫画を絵だけで批評すると反発される。彼らにも納得出来そうな「漫画の本質とは」という定義をもしココで示すなら「漫画は絵でもストーリーでもない。その間で空気の様に存
漫画の絵は線だけで描く。量を描かない制約のある描写方法なので、描けない(描き辛い。割いたリソースに対して見返りが少ない)モノも結構とある。その一つがシャツだ。 漫画のキャラはシャツを単品で着ることは殆ど無い。大抵はカットソーを着る。理由は「絵を作り辛い」から。 線で描く絵は「縦の要素」と「横の要素」のバランスで作る。シャツは縦の要素ばかりが多く、横の要素は殆ど無いのでバランスというのがつけにくい。また疎密のバランスも極端なので、つい敬遠されがちになる。 だから単品でシャツ着る場合はポケット等のディティールを誇張したり、ボタンを描かなかったり数を減らしたり、(描き易いように)柄を付け足すなど、「横の要素を増やす(縦の要素を減らす)」「疎密の偏りを無くす」という画面操作をする事で違和感というのを薄める。但しどうしてもデコラティブになりがちで「ブリーチのようなオサレ感」が、やはり現れてくる。 ソ
前回のエントリーの流れで書いてみる。君たち、いたく気に入ってくれたみたいだし。 美大出身の奴らは学問としてのマンガをやっている。厳密に詰める為、イレギュラーな要素は極力排除する。「面白いかどうか」というのは曖昧かつ不確実な要素なので、もう最初から「絶対に面白くしない」という方法をとる。当然「ただ娯楽としての漫画のみを求める人」にとっては退屈極まりない漫画となる。(彼等は「詰まらなくても文脈的に意義のある漫画」という価値を知らないのだ) ソレ以外にも詰まらなくしている要素は色々とある。 絵というのはいざ描いてみないと「何処まで出来るのか」が分からない。美大出がマズいのは絵の可能性というのを信じ過ぎてるところ。自分が出来る一番良い絵にまで必ず仕上げてしまう。 漫画はストーリーに沿ってコマ割りをし絵コンテを作る。物語の演出的な優先度で各々のコマの描写レベルは決まる。その重要さに応じ、A、B、Cと
寺田克也、鳴子ハナハル、五十嵐大介を絵の上手い順に並べてみる。 五十嵐大介(美大上位)>鳴子ハナハル(美大下位)>寺田克也(専門上位) 作画オタクは美大上位の絵がおそらく理解できない。また美大下位と専門上位の区別が付いておらず、同等あるいは専門上位の方をむしろ高く評価している。 鳴子と寺田の差は単純にデッサン。美大というより予備校レベルでのデッサン。 石膏デッサン、静物画、ヌードクロッキーなど、対象を見てひたすら写実描写をする訓練の基礎があるかどうか。漫画の絵は想像で描くけど、そういったベースの有る無しはやはり現れてくる。 寺田は限りなく1(100%)に近づく絵。09999999999と何処までも続くけど、でも結局最後まで1にはならない絵。そして鳴子は限りなく1から離れられない絵。 五十嵐と鳴子の差はオリジナリティーの差。予備校では鳴子の方が偉かったけど、美大に入った瞬間、鳴子は落ちこぼれ
奥浩哉と大暮維人の漫画はキチガイ専用です。(ついでに桂正和も) まず、女の子を見る眼がキモイ。ナチュラルに視姦目線。 そして読者の期待どおり、必ず三週以内に裸に剥かれてレイプされる。 その時の征服感を増す為に、ひたすら生意気でプライドが高い女の子に描く。汚してやる時の快感を増す為に、ひたすら清純で穢れの無い女の子に描く。全て強姦から逆算してキャラクターを作る。 そしてストーリーはもっとキモイ。「底辺高校でいつもヤンキーに虐げられているオタクの考えた妄想」みたい。感情の癇癪玉が、ひたすら連続で破裂し続けている。「イケメン(美男美女)」「ヤンキー」「オタク」、その三種類しかキャラクターが出てこない。視野狭窄、まるでお子さまランチ。 またマンガの中で現実への復讐をする。(映画のガメラで)樋口真嗣が怪獣イリスに憑依し、渋谷のセンター街を「コギャル」や「チーマ」もろとも吹き飛ばした様に。 そうやって
ガンダムを観た事はないけれど、「若井おさむのガンダム漫談」なら元ネタがすべて分かるSUKEBENINGENです。 断片的な情報なら結構知っている。富野作品は台詞だけを読んでみても結構面白い。何よりも富野由悠季本人が一番面白い。 言っている事がまるでメチャクチャ。この人って頭がおかし過ぎるよ! そして自分が唯一観た事があるのが「逆襲のシャア」。 ファーストガンダムを観ずに、いきなりコレ。だから「キャラクターの相関図」や「前作の因縁」などが全く分からなかった。 そして正直に告白すると、(アニメとしては)まるで詰まらなかった。 富野由悠季はアニメ監督じゃない。アニメを実写の代用品にしている人だ。 そしてアニメは物語の説明の為だけにあってはならない。そこから「独立した表現」をやはり何処かに持っていなければならない。(大抵どちらかにフリ過ぎてしまう) 富野作品は物語とセリフだけでもう十分、そこで既に
「あまり電撃大王らしくない漫画」「一般人にもお勧め出来る、なごみ系ユル漫画」でお馴染みの「よつばと!」ですが、やはりアレはキモオタ漫画。欲望が見えづらい様、上手くカモフラージュされている。 そしてワリカシ年長者オタク向けの漫画。だから色々と達観してる雰囲気。 面倒くさい事が全部煩わしい。小さな女の子のとる「少しだけ意外な行動」を気心の知れた男友達と一緒に愛でる事で、ささやかな心の安らぎを得る。ソレだけで十分。あまり多くを望まない。 「こんにちわ、可愛い犬ですね♪」そんな愛玩動物をキッカケに(美人揃いの)女系家族のお隣さんとも自然な感じで仲良くなれる。ガツガツしないけど「あわよくば」という雰囲気も少しだけ残っている。まだ完全に欲は捨て切れていない。 そんな仙人の領域までには至らない、ほどほどに未練を持つオタクの、「穏やかな精神の持っていき所」があの漫画にはある。
□福満しげゆき モーニングの方(僕の小規模な生活)が編集者がチェックをして直しを入れている分、練れていて面白かった。アクションは(編集者が勝手に決めた)タイトルがあまりにヒド過ぎ。「ウチの妻ってどうでしょう?」 もう全然センスが無い、「水曜どうでしょう?」みたい。(大泉羊などを見て笑えるのは頭がイカレている北海道民だけ。人間が素朴過ぎる。あいつら牛がモーと鳴いただけできっと二時間は笑う) あと久しぶりにコンビニで読んだアクションがすっかりダメ雑誌になっていたのも軽くショック。 まるで漫画サンデーやゴラク。向上心の無くなったダメ大人が慰めに読む為のマンガばかり(アクションはB級だけど、もっと何処かで尖っていた筈)。 まぁこの雑誌で漫画読みが注目する様な作品は「鈴木先生」ぐらいなんだろうけど、コレも正直自分は否定的。どんな人達がこの作品にコロリとコカされているか、もう容易に想像がつくから。 つ
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