サクサク読めて、アプリ限定の機能も多数!
トップへ戻る
都知事選
sukebeningen.blog46.fc2.com
絵というのは色々な要素で出来ている。「技術的な上手さ」と「完成度」は違う。ソコの部分の誤解がある。 ヌルオタは完成度の高い絵を好み、作画オタクは技術的な上手さを好む。圧倒的にヌルオタの方が数では多い為、レベル的には低い(技術的な上手さはソコソコな)完成度の高い絵を描く絵師がやはり受ける。例えば矢吹健太郎みたいな。 「技術的な上手さ」と「完成度」には悩ましい問題がある。両者は矛盾する。 ボディビルに例えてみる。ボディビルは「バルク」と「カット」で構成される。 バルクは筋肉の量。出来うる限り大きい方が迫力があって良い。カットは筋肉のブロックがカッチリと割れているシャープなラインを作る事(六つのコブに割れたパツパツの腹筋とか)。 コンテストの期限までに出来るだけ大きな筋肉を作りたい。でもあまりにソレを欲張ると、カットの時間が間に合わず「メリハリの無いただの風船デブ」になる。だからといってカットば
メジャー系は編集者主導で作る。漫画家はただの絵描き。マイナー系は作家主義、すべてを漫画家自身が作る。メジャーだと編集者が優秀でマイナーでは作家の方が優秀な場合が多い。おそらくマイナー雑誌の方が漫画家は高学歴(その典型がアフタヌーンとIKKI。特にIKKIは極端過ぎ。東大と芸大しか居ない。難し過ぎて全然読めない)。 漫画は沢山の能力が求められる。絵を描く能力、ストーリーを考える能力、そしてソレらを(映画監督のように)構成して、演出する能力。 そしてコレ等を一人で完璧にこなせるような人間はかなり優秀。ハイレベルなので当然その内容も難しくなる。つまり「優れているけど売れない作品」。 メジャー誌はその辺りを上手くクリアーしている。 魅力的な絵を描く、若くて未熟な漫画家の卵に必ず目をつける。そして絵だけを描かせる場合においても、決して一番絵の上手い人間というのを選ばない。選ぶのは地方で外の世界とは隔
よく「一般的に絵が上手いと言われている漫画家の評価」をコメント欄でリクエストされるけど、正直、答えるのに困る場合が多い。語りようが無い作家ばかりをみんな選ぶから。 鳥山明や大友克洋の絵について語る事なんて無い。語る価値のある絵じゃないから。(逆にコレ等の作家の絵について熱心に語れる人は、絵というのをあまり良く理解してない証拠だと思う) ぶっちゃけ美大出身じゃない人の描く絵はどんなに上手くても興味を惹かない。批判性が無いから。 絵の核心というのはブラックボックスになっている。最初はソレが何か分からないまま絵を描く。分からないままでも絵というのは全然描けるから。 鳥山や大友というのはブラックボックスのまま平気で絵を描けるタイプの人たちなんだよ(きっとブラックボックスという概念さえ気付いてない)。だから「ああ、上手いですね」以上の感想がまったく出てこない。 自分の求める価値は「ブラックボックスを
「ロクに読みもせず断定口調で書くな!」 そんな事ばかり言われたので、少し反省した。とりあえず鳴子ハナハルの「かみちゅ!」を買ってみた。 パラパラ捲り三秒ぐらいでウンザリし、そのままその辺りにテキトーに放った。まだ全然読んでない。そしてたぶん永遠に読まない。※自分にとって「鳴子ハナハル」「上山徹郎」「篠房六郎」はただ義務感で読むだけの苦痛マンガ。頼むからコレ以上マンガを描かないで。 もう確信した!鳴子はエロ以外、ヤッパリ描いちゃダメだ! 鳴子は加減を知らない。寝る時間以外のすべてをマンガを描く事に捧げている。キモイ! 例えば1ページに6コマあるとしたら普通2、3コマはそれなりに手を抜く。 重要なコマだけ力を入れ、その次に重要なコマはソコソコ、あとはサッと流すのが基本的なやり方だ。 でも鳴子は全部力を入れて「ミッチリと埋める」から逃げ場が無い。何処にも息をつく場所がない。「おまえのマンガ息苦し
アニメの本質が動きにあるとした場合、一体どんな絵が求められるか? おそらくソレは「静止画だと醜い絵」だ。ディズニーのムーランなんかがそう。 「西洋人から見たカリカチュア的東洋人キャラ」 ヒロインがもう有り得ないぐらいにブス。イキナリやる気をなくす。 でも動き出すとまるで印象が違う。あんなに不細工だったキャラが俄然、魅力的になる。アニメの魔法だ。 つまり動かした時に初めて価値を持つ絵こそ、アニメにおいて意味のある絵だ。 そして今の日本のテレビアニメは低予算。そのため殆ど動かない。限りなく紙芝居的。その為一枚絵でも魅力的な「萌え絵の美少女キャラ」ばかりになる。 逆に動くアニメでは美少女絵は相性が悪い。「大きな瞳」は画面を安定させる象徴的なパーツだから。※きっと「よく動く作画アニメ」ほどキャラの目は小さくて不細工。スタジオ4℃なんかは絶対そう。(よく知らないけど) それから動画のアニメートのみの
オタクが村上隆を嫌うのは分かるのだけど、サブカルが嫌う理由がイマイチ良く分からない。お前らいつもオタクを小馬鹿にしてるじゃん。(もしかしてIQが低い低能だから「知恵の輪を解けないチンパンジー」みたく、ただ単純にヒステリーを起こしているのか?) そしてヒドいのは彼等の批判というのがまるで「刺さって」はいない事。ただギャーギャー喚き散らしているだけ。 村上は試金石。オタクとサブカルのレベルというのが試されている。 ネット上にあるムラカミ批判を一通り読んでみた。全滅だった。(むしろバカなのが完全にバレるから一言も喋んない方がイイよ) 「オタクとサブカルはアートが理解出来ない低レベルが遊ぶ幼稚な砂場です」 その事を村上に逆に証明されてしまった。完全な負け。しかもどうしようも無くオツムが弱いのでソレにさえも気付けない。超泣ける。 あっ、そういえば唯一鋭い批判をしてたブログがあった! DOB君のパチモ
本当の芸術が理解出来ない人達の為にある慰めじゃないですか、あんなの! 美術の世界では「君、才能ないよ」と真っ先に言われた人が「世界の巨匠、映像派」なんて呼ばれているチョロい世界でしょ? フランスのオゲージュツ映画なんてバンドデシネ崩れが殆ど。美大で現代アートが理解出来ない「手先だけ器用なノータリン」がやるのがバンドデシネ。 そしてソコからも落ちこぼれた奴らがフランス映画のトップを張っている。 つまり美術や文学などマトモな芸術分野で挫折した連中が未練たらしくクリエーション世界にすがり付いている、そんな吹きだまりのシミッタレ文化こそが映画だ。 そしてそんな挫折感を抱えてウジウジとやっていた頃はまだ良かった。 最近では「初めから映画志望」という低レベルな連中ばかり、だから完璧に下らなくなった(まるで最初から声優志望なアニメオタク上がりの女の子と同レベル!)。 結局、映画は産業として巨大になり「金
まぁさんざん酷くPerfumeの事を言ったから罪滅ぼしの意味で。オマケの付いている高い方を。(決して内容は悪くはないのだけど、どうせならキリンジのアルバムの方を買えば良かったかも〜) どうやらyoutubeで繰り返し何度も聴いてるうちに段々と好きになっているみたい、Perfumeの事を。(でもやはりブスだと思う。ソコだけは決して譲れない) チョコレートディスコは「安美味しい」ので好き。カルディやソニープラザで買ったティムタムを食べてる時の気分。「ジャンクな美味しさ」がつい癖になる。 それとPerfumeの存在を知った時、「またか!」と思った。 どうせPerfumeに群がってるのは「森高千里はロックだ!」とか「原田知世はイイ!」なんて言ってた連中に決まってる。 また何時もの様に消費して次の獲物を見つけたらケロッと忘れ「平気ですべてを無かった事」にするつもりなんでしょ? 何時だってアイドルオタ
「コミケ帰りのゆりかもめ」はいつも殺人的な混雑。乗車率200%オーバー。 後から乗って来た親子連れ、お父さんに抱かれた男の子は(あまりにも辛くて)グズりだす。みんな居たたまれない空気になる。 その傍らで「キッチリ対面席を確保した」オタクグループ。大きな荷物でバリケード。 周囲の空気など、お構いなし。ひたすら仲間達とのバカ騒ぎにソレはもう「どん欲」に興じる。 「何です?「申し訳なさそうな顔をしてもっと小さくなれ」とでも言うのですか?状況は変わんないですよ?結局同じですよ?そんなのナンセンスじゃないですか!」 そうやってオタクは「自分の欲を正当化する時」にしか、理屈というのを使わない。 そしてこんな事を書く度にオタクは素敵なことを言ってくれる。 「それなら何故その場で彼等を注意しなかったんです?コレって「小心者のコソコソとした憂さ晴らし」ですか?」と。 更にウンザリさせられる。 (オタクは想像
「密かに想いを抱いている男の子に「実は好きな子がいて告白しようと思っている事」を相談される。内心ショックを受けてるのに(表向きはそんな素振りも見せず)明るく振る舞い、冗談めかしてその女の子の役を自分で演じて「告白の予行練習」をしてあげる。でも段々と自分の気持ちに嘘が付けなくなり、ついには泣き出してしまう」 そんな「ささやかな物語」を陽気婢はよくエロ漫画雑誌で描いていた。そういった「ナイーブな感性」を描く人はソレ以前は、まるで居なかった。 そして陽気婢の絵はそんな物語を描く為だけにある絵だと思う。 オタク絵によく有る「過剰で威圧的なモノ」は無い。自分の気持ちを身の丈でシッカリと伝える為の誠実な絵。そして「この価値」は、オタクにはあまり評価をされない。 その事が悲しい。オタクという人種を自分が信用出来ない部分。「視覚的なビックリ装置」にばかり、いつも夢中になっている。
※折角なのでもう一つ書いた方もアップしとく。高円寺系サブカルの人達どうか泣かないでね。 プロレスラーが強い筈無い。プロレスラーなのに強いのは「柔道やレスリングの元メダリスト」だったからだ。 UWFはガチ風味のプロレス(グラップラー刃牙の板垣恵介が言っていた)。異種格闘技でプロレスの最強を証明する時はいつもズルばかりをする。 「ボクシングの元ヘビー級チャンピオン」そんな名前だけはあるロートルを無理矢理引っ張りだしてくる。「ファイトマネー欲しさ」が見え見え。グランド対策さえもしていない「ブヨブヨとした体」で、いつもリングに登場してくる。 そして「パンチの届かない距離」でプロレスラーはローキックを連発。(ロートルデブは)すぐに戦意を喪失してリングの外に飛び出す。試合終了。そんな茶番に大喜びする下らないプロレスファン。 彼等にとって試合内容など、どうだって良い。何故ならプロレスラーは自分達自身だか
コイツら最悪。オシャレな下北系を敵視している癖に同族のオタクに対しては近親憎悪して、すごく蔑んだ態度を取る(「クラスで一番最下層なオタクグループ」を一番馬鹿にしているのは彼ら「ブービー賞グループ」と、いつだって相場は決まっている!)。きっと世界で一番性格が悪い。 そして手の込んだ優越感ゲームが凄い。「少しかじったサブカル君が陥りがちな中二病的な行為」を病的に恐れる。昨日までの自分だから。だからソレを回避するのに、もう必死! 「あえて年間ベスト映画に「チャーリーズエンジェル」や「クレヨンしんちゃん・オトナ帝国の逆襲」を選んじゃう、このオレ的センスってどう?」 キターーーーーーーーーーッ!!wwwwwwwwww 「アジア映画にも超詳しいけど敢えて一番好きなのはジャッキーチェンって、オレ言っちゃうよ!」 キターーーーーーーーーーッ!!「店長、高円寺系サブカルのウザイ自意識、大きいの入りま〜〜す!
オタク絵について書かれたブログなどをネットで読んでると「いとうのいぢ」という人の名前を良く見かける。どうも「いとうのいぢ=下手」みたいな認識をオタクの人達は持ってるみたい。で、少し調べてみた。ああ、ハルヒのイラストを描いてるのが、いとうのいぢなのね。 (ハルヒの表紙を数点見た感じだと)別に下手ではない。イマドキな感じ。おそらくコレがオタク絵では今一番のトレンドあたり。 そして何故「いとういのぢがヘタ」という事になるのかと言えば、おそらく「デッサン」とか「空間表現」みたいな所に「絵の優劣の重き」を置いてるから。その辺りの価値というのは言葉だと語り易いので、どうしても優位になってくるのだ。 言葉で絵を理解しようとする時、一番危険なのは「言葉に引っ張られる」という事。 言葉は神様ではなく人間が作ったもの。不完全でバグだらけ。万物について完璧に言い当てられる訳ではない。 特に芸術方面のボキャブラリ
も〜君たちの大好きなデッサン(笑)についてですよ♪ でもこの言葉、美大ではあまり使わないです。レベルの低いヤツに見えるから。(まぁ、自分は油絵科で現代アートをやってたから、周りが特に尖った連中ばかりだったという事情もあるかも。そもそも美大に入ってから絵なんて全然描かなかったし) え〜と、デッサンだっけ?プッwど〜せ〜、意味も分かんないで使ってるんでしょ〜〜?「空気遠近法」なんて聞きかじった言葉を得意げに使ってシタリ顔してるんでしょ〜〜? 大体オタクの世界で使われている「デッサンの概念」は特殊。ごく一部の技術だけを抜き出し、それをデッサンといってるだけ。そしてソレは下位のデッサン。だからオタクは見下される。 「美大受験の時に描かされる絵」と「美大に入ってから描く絵」は全然違う。 まず受験の絵は芸術性を全く必要とされない。ひたすらに客観的なテクニックだけを求められる。いわゆる「予備校絵」という
つまりキルビルの事です。プロダクションIGが作ったアニメパートの事です。いつも通りに作れば良いものを変に入れ込み過ぎて、何だかおかしな事になっている。 まずキャラデザが寺田克也でコスチュームデザインが田島昭宇というあたり。おそらくは「オタクに見えないような絵柄、及びファッション」を狙った。でも「オタクがそう思っているだけ」で、実際には違う。 原宿にイエロールビーというショップがある。以前は(マイナー時代の)ラッドミュージシャンやグランジ系デザイナー(ズリーベット、ジェフリーBスモール)を扱っていて、その中に寺田克也と村田蓮爾のTシャツが何故か一緒にあった。 アレは本当に異様だった。あの一角にだけは決して誰も近づかなかった(痛い服ばかりなイエロールビーにおいてさえも)。 つまりはそういう事。「夢見んじゃねーよ!この糞オタク共めッ!プギャーーーーーーッッwwww!!」 ※でもコレってオタクの中
マヒロは富野御大と闘いたがっている。両端に吸盤の付いた紐で「シュートなハゲ綱引き」を本当はしたいと思っている。 貞本派か前田派かと問われれば、ダンゼン前田派、つまりマヒラー。だからこれからも「ハゲ!このハゲ!」とマヒロのことを全力で罵り続ける。貞本はまるで興味がないのでDisってなんかやらない! (っていうか、マヒロはイケメンでセンスも良く、絵も上手な完璧超人だから、もうハゲぐらいしか叩くところがないんだよ。あと監督した作品が死ぬほど詰まらないとか) ホラ、例えばマヒロが監督した作品の・・・ファイナルファンタジー・・・リミテッド?(ワザと間違えました)あのデルパワーXみたいなヤツ。あんなのデルパワーXだよ!もうマヒロ自身がデルパワーXだよ! それと今の貞本義行って完全に「一時期の美樹本晴彦状態」じゃないですか。トレンドからはとっくに外れているのにネームバリューだけはあるから(スポンサー側の
以前簡単なレビューを書いたのだけど、掲示板に貼られて「プッw、この程度じゃ動揺しないよ。全然平気だよw」みたく余裕な態度を細田守ファンに取られたので、もう少しちゃんと書く。キャン言わせる。 まず主役の三人がまるで好きになれなかった。真琴はガサツ過ぎ。男二人もイケメンだから魅力的なだけ、人間的な魅力というのはまるで感じなかった。 そしてコレは「オタクが一般の人に観てもらう為、作ったアニメ」だと思う。ソレは作中に出てくる「オタクの扱い方」で分かる。 「オモシロ顔で軽く扱われがちな苛められっ子」アレがこの作品の中に出てくる唯一のオタク。あの手加減しない、少しも優しい救済をして上げない徹底さが、「ヨソ行き」の時にオタクが取るスタンダードなファッションだ。 そしてこの作品には嘘がある。オタクは受け入れられたい気持ちの一方で、「一般人と自分等は違う人種である」という事を本当は望んでいる。彼らを下等な人
オタクはズーズーしい。細田守と今敏が一般人に受け入れられるアニメ監督だと本気で信じている。アレって典型的な「オタクが考える一般人に受け入れられそうなアニメ(そうオタクが思い込んでいるだけ。実際は全然受け入れられない)」そのものじゃないですか! 「オタク受けする美少女キャラを出さず、なおかつオタク臭のしない物語」というのをただやってるだけ。「オタク向けじゃないアニメ=一般人向け」という、あまりに単純過ぎるロジック。 あなた達って「(オタクをよく知らない人達が)オタク受けを狙ったけども、まるで見当違いの方向な商品、又はコンテンツ」を見ると、いつもゲラゲラ大笑いするでしょ?「こんなのありえね〜〜っ!!」って。 まさしくアレの逆バージョン。「う〜〜〜〜ん、よく人間の事を学習しているよね?この宇宙人」みたいな。 あの二人に喜怒哀楽という感情はたぶん無い。理解できない。おそらく周りの状況を見て普段はカ
たまにアクセスが大量に増える時がある。大抵は掲示板にブログが貼られている。様子を覗きにいくと案の定、オタクどもがキーキーと金切り声を上げている。 「電脳コイルを糞アニメ呼ばわりしやがって!」「どうせ人と反対の事を言うのがカッコ良いと思っている中二病だよ」「フ〜ン、どうせお前の言う良いアニメなんて実験アニメかなんかだろ?ノルシュテインとか」 「フフフフフ・・・」 「何が可笑しい!」 「お前らオタクの一族はいつも同じセリフを吐く。「中二病」「優越感ゲーム」「ブーメラン」だから笑ったのだ」 結局これは「現状に満足している人間」と「そうでない人間」との価値観の戦争な訳で。 自分は今のアニメが好きじゃない。宮崎駿が死んだ日に日本のアニメも死ぬと思っている。だってオタク以外に分かる言葉でキチンと喋れる人間がもう他にはいないから。 押井守なんてオタクしか観ない。むしろ押井守という存在が必要になった「オタ
okamaはデスポップ。今思いつきで名前を付けた。批判性のあるポップという意味。 表面上は無邪気で可愛らしく呑気でノホホンとした表情しか見せない。だから素人は軽くみる。でもアレを見て玄人はゾッとする。かなりピーキーな表現だから。 okamaはアンチアカデミズム。多分アカデミックな技法を知っているのだけど敢えて使わない。むしろかなり憎んでいる。 それを極めてポップな手法で体現している。一番重要なのが色。あの狂ったような色使いは悪意的かつ殺意的。超殺人的ハレーション。 アカデミズムだと色は「光」や「重力」に支配される。ソコには質や量を必ず含んでいる。 そのルールを絶対的にokamaは破る。というか、「ルール破り」という絶対命題がまず先にあって、そこから逆算したのがあの「色使い」であり「チョイス」なのだ。 あらゆる「絵の約束事」から自由になろうとする貪欲さが半端ではない。 そして線やフォルムに関
人間の頭の中で最初に浮かぶイメージというのは完全な電波。そのままではとても飲めないような泥水。 つまりテクニックというのは濾過装置。間接のジョイントにフィルターを取り付ける様なもの。 「肩」「肘」「手首」と通過する度に段々イメージが精錬されていく。そして最後に紙の上に置かれた時、ソレははじめて「飲める水」になっているのだ。 つまり上手いけど魅力がない絵というのは「濾過装置が多過ぎるために旨味まですくってしまった」「最初のイメージが濾過に耐えられないぐらいに弱かった」そのどちらか。 石恵の面白さは「明らかに濾過が足りてないのに平気で飲める。しかも濾過をしていないので旨味が殆どすくわれない」そんなデタラメさあたり。泥入りエビアンdeトレビアン。 技法的な特徴としては好きなモノほど大きく描く。女の子の眼は魅力的なので出来る限り大きく。オッパイも当然大きく。興味のない部位は限りなく小さく(或いは描
河下水希の方が上手い。奥浩哉は典型的な素人騙しの絵。素性のあまり良くない絵。 確実に美大出では無い技巧派。ああいった絵を美大出身者ならば絶対に描かない。 視線のシフトチェンジが弱い。ロー、セカンド、サードと絵を描く段階に応じたギアチェンジをあまりしていない。ディティールの集合体。部分部分のリズムがよく似ている。 とても立体的な絵だけど、それはデッサンによる立体感ではない。建築家の描く設計図(45度の傾斜ですべての奥行きを表す)みたく記号的かつ説明的。「圧倒的なスクリーントーンの物量」にみんなが騙される。 そして河下水希は上手いけど立体感はない。フラットな絵にする。その辺はあくまで美意識の問題。 また、下書きと本書きの意識というのをかなり変えている。下書きの延長ではない。特に時間的な余裕がない「切羽詰まった状況の仕事」だとソレが良く分かる。公式も書かずに、いきなり答えを書いている。 「女の人
日本人は自分達の価値をいつも外人に教えられる。浮世絵や桂離宮もそう。一番最初に自分達が認めたことなど一度も無い。 優れた浮世絵作品などは殆どが海外にある。その事を忌ま忌ましく思っている人もいるが、でもその認識は間違っている。 ジャポニズムブームのきっかけは浮世絵。何故西洋人がそれを知ったのかと言えば、その頃日本が海外に陶器を輸出する際のクッション代わりに「時代遅れの紙屑」でしかなかった浮世絵をクシャクシャに丸め敷いていたからだ。 そんな酷い仕打ちをしておいて今さら自分達の誉れにするな。孤児院に捨てた我が子が成人し成功したら急に名乗りを上げる、猾い親みたいだ。 むしろ全部を彼等に差し出せ。日本人に浮世絵など勿体ない、価値など決して分かるものか。 そして、よくアニメや漫画などのオタクカルチャーを浮世絵に例える人がいる。「大衆に支持された、エンターテイメントの皮を被っている芸術」だと、どうやら言
大きく分けると、この三通りのどれか。 □予備校絵 一番幅を利かせているタイプ。一般の人はコレを美大絵だと思っている。例えば「沙村広明」や「鳴子ハナハル」あたりがそう。 特徴的なテクニックを上げると、「アタリ線の遊びの入れ方」「ハッチング」「カラー絵の下地の作り方(ベースに強い色を置いてからグレーの中間色をのせ、その擦れた部分から下地をハレーション気味に覗かせる。強すぎたらグレースし、幾分押さえる)」。そして多摩美のマン研出身者は何故か冬目景のエンジンをみんなアレンジして使う。(そういう伝統なのか?) それとココで上げた人達は実際には予備校絵ではない。(本当に予備校絵な漫画家はもっと他にいる。でも印象にはまるで残らないから、名前さえも出てこない)きっと自分の「予備校絵的な要素」に悩んで、試行錯誤もしてるのだけども、「保険要素」としてソレを完全には捨てきれないような感じ。(そして血の滲むような
オタクが良くする議論で「漫画家とアニメーターのどちらが絵が上手いか?」というのがある。 一般的にはアニメーターの方が上手いという結論。「あらゆる種類の絵」を「あらゆる角度」から「あらゆるポーズ」で描ける。汎用性が段違いに高い。まるで勝負にならない。 そして、ソレに対する漫画好きたちの「お決まりの切り返し」はこう。 「でもアニメーターの描く絵は魅力がない。漫画家の方が個性的で気持ちのこもった良い絵を描く。その証拠にアニメーター出身で成功した漫画家というのは居ない」 (後に演出家や監督になる場合もあるけど)アニメーターは基本的に絵描き専門。でも漫画家には他にストーリーや演出的要素も必要になる。つまり求められる才能というのが違う。 また絵的な部分でいうと、アニメーターは「八割程度で流す癖」がどうしてもついている。おそらく静止画状態で丁度良い絵にすると、動きがついた時にうるさくなるのだ。(「老人Z
アニメのキャラデザはその「動かし方の程度設定」で、ほぼ決まる。動かす絵はシンプルにする。動かさない絵はディティールに凝る。 日本のアニメはテレビが主流だった。だからリミテッドアニメがすごく発達した。 最初はフルアニメの出来損ないに過ぎなかったが、やがて独自のスタイルを確立しはじめた。 そして一言でいえば「動きのケレン味」こそが日本のアニメの特徴だ。 ディズニーはメロディーでジャパニメーションはリズム。「何を描くか」も重要だけど、「何を描かないか」の裏打ちキックで仕事もする。 求める動きで欲しい動画の枚数は絶対的に決まる。どう見ても繋がるとは思えない絵ばかりを繋ぐ。ひとつ前の絵と隔絶しているほど次の絵の破壊力というのは、より増す。 そしてこれ以上コントラストを付けられなくなると、今度は「絵柄」の方に手を入れはじめる。 ディティールを削る。丸いところをなくし、すべてを角張ったデザインにする。(
少し前テレビでやっていたのを途中から観た。「かなり攻めている作画アニメ」だったので驚いた。ネットで色々調べてみた印象だと、見事なまでにその評価はまっぷたつだった。 否定していたのは「ドラえもんファン」と「一般の人」。 「絵がグニャグニャして気持ち悪い」「ヘタクソ」「あんなのはドラえもんじゃない」大体こんな感じ。 そして肯定していたのは「作画マニア」。 「フゥ〜ヤレヤレ、あのアニメの素晴らしさが分からないなんて低レベルな人たちだなぁ〜」「ジブリ出身のアニメーター達による実験性に溢れた作画が多い。見応え充分なアニメ。あくまでドラえもんなんかは飾りだ」 自分も正直この作品の評価には困っている。音を消して絵だけを「ながら」で見ていたのだけど、やはり面白かったのだ。単純に「絵が動く」その面白さをプリミティブに追求しているアニメだった。 でも一方でコレを「国民的アニメ」であるドラえもんでやるのは果たし
漫画に対して想像力を使わなかったり、美意識を見出せない人ほどビジュアルで漫画を見ますよね。 表現の技法だとか、デッサン力だとかばかりでストーリーや設定、つまり作品の面白さ自体に関しては一切触れないのが共通していることだと思います。 そういう、頭で処理する情報のすくない漫画(大暮のとか)が、ライトオタク~キモオタに対して好まれるのは明白なんですが、この「巨乳美女のエロさえでてればいい」という層と「難解な設定、掘り下げた世界観が好き」な層では、どういう漫画が素晴らしいかをいくら言い争っても時間の無駄です。 これがオタク同士の枠を出て、オタクと一般人になると 漫画オタクが「漫画なんて中学生までだろ」と思ってる数多くの人間に向かって良さを必死に伝えるようなもんです。 管理人さんの文章からは、アートと同価値になれば、オタク文化は世間一般から舐められずに済む、みたいな思想が出てるんですが ここでいうポ
ホラ、居るじゃないですか?「如何に電脳コイルというアニメが素晴らしいか」を、ネットで吹聴して廻る「作画オタク」というモイキー過ぎる人たちが。 彼等は主流派である「萌えオタ」を目の敵にしている。「アイツらは低レベル。自分達こそ本物を見極められる真のオタクだ」そう完全に信じ込んでいる。彼等にとってオタクコンテンツとは「一般人に対し自分が優越感を感じる為だけにある装置」でしかなく、最終的に「アートの末席」あたりに加えてもらえれば、きっと大満足なのだ。 でも自分はそこをゴールだとは思っていない、だからあなた達の価値観というのを断固拒絶する。 そしてあなた達は本当にバカ。 アートの世界にオタクは永久に入れてもらえない。きっと死ぬまで外様扱いされて、ひたすら搾取をされるだけに決まっている。 だから自分は「ポストアート」というゴールを設定した。オタクという言葉自体がアートと等価値、或はそれ以上になる為の
次のページ
このページを最初にブックマークしてみませんか?
『SUKEBENINGENSUKEBENINGEN』の新着エントリーを見る
j次のブックマーク
k前のブックマーク
lあとで読む
eコメント一覧を開く
oページを開く