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円安とは
uho360.hatenablog.com
元は筑摩書房の日本詩人選の第23巻。新古今集時代の歌人として藤原定家と後鳥羽院と式子内親王は別の巻別の作者によって刊行されているため、本書ではその三名と覗く代表的歌人七名、俊成・良経・家隆・俊成卿女・宮内卿・寂蓮・慈円について論じている。最多入集の西行が含まれていないのは日本詩人選に計画されていたにもかかわらずおそらく未刊におわってしまったためではないかと想定される。本書で題を設けて論じられなかった歌人については『定家百首』、『西行百首』、後鳥羽院を描いた小説『菊帝悲歌』などがある。また、定家、後鳥羽院、西行、式子内親王については、関連性がでてくるごとに言及されていることもあるので、塚本邦雄の新古今時代の歌人観の傾向は本書一冊でかなり分かるようになっている。撰者や判者となり歌論を書くような人物の批評的な言辞については、塚本自身の見解と突き合わせて対抗的になるがために極めて辛口の評価がなされ
中世哲学の勃興から衰滅までの流れと、時代ごと哲学者ごとの思想内容を、難易度の高そうな部分も含めて、初学者にもじっくり丁寧に伝えてくれる頼れる書物。著者のしっかりした研究の成果がみごとに整理されているうえに、中世哲学を読むときに気を付けておくべきこと、現代の科学的思考との違いと繋がりなど、貴重な見解も要所要所に織り込まれているので、読みものとしてもすぐれた一冊になっている。総ページ数593ページと分厚い作品だが、濃厚なのに、爽やかな印象すらある。はじめて理解することができたようなこと、違いがわかったこと、知ることができたことが目白押しで、とにかく飽きさせないし、いたずらに難しく語るようなこともしない。、 神の三位性と父、子、精霊のペルソナ 神と天使と人間 存在(エッセ)と本質(エッセンティア) 主知主義と主意主義 知性と意志 精神と身体 普遍と個物 抽象と個別存在 偶然と必然 唯名論と実在論
未完ながら初期ドイツロマン派の良心が結晶したような詩的な小説作品。夢みる詩人が旅をする中で出会った人たちに関係しながら精神的に成長し世界の奥行きを覗き見るようになっていくとともに、運命の女性との出会い成就するまでが完成された第一部「期待」までの内容で、このプロローグ的な現実界の話が、第二部「現実」において壮大に神話的にもコスモロジー的にも展開されていこうかというところで作者の死によって中断されている。しかしながら一部だけでも十分よく構成されていて満足感は強い。作品中の作品として複数の物語(ノヴァーリスの用語ではメールヒェン)が挿入されていて、それぞれが後々の展開の伏線になりながら完成された世界を描き出しているところが、満足感を産む要因となっている。 いろんな言葉、いろんな考えが、生命を与え果実をみのらす花粉のように、自分の心の奥までふりそそがれ、自分をこれまでの青春の狭い圏内から、一気に広
批評家安藤礼二の名前をはじめて意識したのは角川ソフィア文庫の鈴木大拙『華厳の研究』(2020年)の解説。ずいぶんしっかりした紹介をしてくれる人だなと気になって最近複数の作品にあたっていたが、折口信夫研究からの必然的な展開として新仏教家藤無染を経由して鈴木大拙に出会い西田幾多郎に出会うという形で本書『大拙』が書かれていることが解説の背景にはあるのだなということが知れた。 20世をまたぐ転換期の世に世界的な神秘主義、オカルティズム、新宗教の動きがあり、また社会主義国家成立を目指す運動が盛んになされているなかで、後進ではあるが新興大国として台頭しつつあった日本の、エリート街道からは外れていたがゆえに逆に激烈に海外思想や主流の国内メインストリームと対峙し思考せざるをえなかった鈴木大拙と、同級生で盟友たる西田幾多郎の歩みとの深い関係性を本書は丁寧に跡づけていく。 インド発の仏教とインド哲学の梵我一如
ジブリの鈴木敏夫プロデューサーが堀田作品の中でいちばん好きだという小説『路上の人』。そのことを作者本人に伝えたところ映画化権をあげると言って、もらっている状態のジブリ。いまのところ実現されていないが、アニメーションになったらどうなるだろうかという興味とともに読んでみた。 舞台は十三世紀ヨーロッパ。路上に生きる下層の中年流民ヨナを語り手に、ローマ・カソリック内の厳格派と寛容派の陰謀うずまく対立とカソリックの教えとは異なる教えに向かう異端カタリ派の対立のなかに起こるドラマを描いた作品。路上で身につけた幾多の言語と話術、食料調達の術をはじめ、さまざまな生き延びるための技術を買われて、貴族や僧侶などの上層階級に仕えることの多かったヨナが、ある時、旅の僧侶セギリウスの手伝いをはじめるところから物語ははじまる。法王庁の中枢からは外れたところにいるらしいセギリウスは、公にはできない調査活動を行っているう
変則的な訳者訳書構成ではあるがジョイスの『ユリシーズ』の通読完了。ひさびさに「全体小説」©ジャン=ポール・サルトルということばが思い浮かんできた。「全体小説」は、サルトルがジョイスの『ユリシーズ』などの先行作品を想定して作り上げた概念(自作の試みは未完の『自由への道』:未読)。「人間を,それを取り巻く現実とともに総合的・全体的に表現しようという試み」©ブリタニカ国際大百科事典と定義されている。「総合的・全体的に表現しようという試み」の含意の中に、内容ばかりでなく記号表現の全体ということも入っているのだなと、実地をもって示してくれているのが『ユリシーズ』という作品で、神話から現代小説にいたる文体史の取り込み、史的な適応領野の形式と媒体ごとに異なる各種表現スタイル、英語をベースに各種複数言語が取り混ぜられた混交言語表現、さらに言語の歴史と18種ともいわれる各国語に通暁したジョイスが切断混交研磨
貨幣による交易がはじまり世界が無限化したときに人々は衝撃をうけ、その空気感のもとではじめて哲学と世界宗教が生まれたというヤスパースの「軸の時代」という考えの延長上で、環境的にも資源的にも限界状況に踏み込んでしまった現代は、また別の「軸の時代」を迎えつつあると見田宗介は書きしるす。そして、有限で希少な財で持続可能な世界を生きるには、価値基準の転回が必要であり、既に現実の世界ではその転回をなしつつある徴候があらわれはじめていると、各種調査データを使って例示しているのが本書の特徴である。 具体的には、物を取得していくことで欲望充足をはかっていた経済的成長段階の心性から、物に依存しないで得られる単純な幸福への回帰が特に先進諸国の若年層ではじまっているといい、その有限な世界のなかでも「永続する幸福」を著者は称揚する。 転回の基軸となるのは、幸福感受性の奪還である。再生である。感性と欲望の開放である。
物理学はモデルよりもモデルのもととなる数式、方程式が大事。そのことを明確にしかも興味深く教えてくれるのがファインマン先生、さらによりかみ砕いて肝の食べやすい部分だけをさっと取り出してくれているのが竹内薫。本当は方程式を理解したほうがいいに決まっているが、物理学のモデルが実験結果を説明できる方程式から自然言語に創作翻訳されたものであるということを明示して、時に詳細に時にざっくりとモデルを方程式に結び付けてくれて、その上でおおよその世界像を納得させてくれる二人の物理学教師の教えは一般読者にとってはありがたいものだし、すごく助かる。 【ファインマン自身の言葉】 彼(マクスウェル)の理論はなかなか受け入れられなかったが、それは第一にそのモデルのため、第二に最初のうち検証がなかったためである。今日ではわれわれは大切なのは方程式自身であり、それを得るために使ったモデルでないことをよく知っている。問題と
大江健三郎の読書講義。 2006年に池袋のジュンク堂で行われた6本の講演と、同じく2006年に映画「エドワード・サイード OUT OF PLACE」完成記念上映会での講演に手を入れて書籍化したもの。執筆活動50周年記念作。 現代日本の読書人であれば一冊くらい大江健三郎は読んでおいた方がいいと思う。本書は、デビュー作の『奇妙な仕事』から出版時点での最新作『おかしな二人組』まで、大江健三郎自作を語るという側面もあるので、作家の全体像に触れるにはもってこいの一冊となっている。取りつきにくい大きな剛体の、規格外に濃くて不可思議な存在観が封じ込められている感じ。基本的に封じ込められたままなのだが、読書や言葉に対してののめり込み方は、まともに受け止めると相当のショックを受ける。9歳のマーク・トウェイン『ハックルベリー・フィンの冒険』からはじまって、T・S・エリオット『四つの四重奏』、エドワード・サイー
1632年、オランダ。フェルメールとスピノザが生まれたオランダ、デルフトでもうひとり、光とレンズの世界に没入する人物がいた。アントニ・ファン・レーウェンフック。顕微鏡の父、微生物の発見者。福岡伸一はフェルメールの『地理学者』『天文学者』のモデルがレーウェンフックであるとの説を取り、世界に散らばるフェルメールの絵画全37作品のうち、閲覧可能な34作品を巡礼する旅をつつけながら、作品収録美術館が立地する土地にゆかりの科学者、数学者、画家に想いを馳せる。 レーウェンフック、エッシャー、野口英世、ガロア、ジェームズ・ワトソン、フランシス・クリック、トマス・ヤング、ルドルフ・シェーンハイマー、ガリレオ・ガリレイ、ジョバンニ・カッシーニ、ライプニッツ、ニュートン。 ジャン=クレ・マルタンは『フェルメールとスピノザ <永遠>の公式』で『天文学者』のモデルがスピノザである説を説き、哲学的な美しい絵画論を書
アラン35歳の時の処女作。後年の縦横無尽なエッセイを予感させるものの、まだ生硬さがのこるはじまりの書。スピノザの心身合一説を敷衍した箇所はアランの本質を成すしなやかさがすでに垣間見えている。 われわれがもっている外的物体の観念は、外的物体の本性というよりもむしろ、われわれ自身の身体の構造を言い表している。たとえば、或る熱病者がぶどう酒の苦さを知覚するとき、この知覚が彼に教えているのは、飲んでいるぶどう酒の本質というよりもむしろ、彼自身の状態である。 したがってわれわれの魂は、現前しない物体を、現前するかのごとく観想することができるだろう。そのためには、この物体の本性を内包するわれわれの身体の変様は、もし物体がなくても、生じるために十分であろう。それは可能である。なぜなら、われわれの身体のすべての変様は運動の変化であり、すべての運動の変化は物体の弱い部分に痕跡を残すからである。そしてこの変化
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