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やりたい仕事など 何も見えていなかった 女性が生きていくには資格を持つことが重要だと、幼い頃から親に言われて育ちました。しかも理系なら医者、文系なら弁護士と職種まで決められ、クラブ活動さえ制限された息苦しいだけの学生生活。弁護士という仕事の魅力も分からないまま、とにかく大嫌いな司法試験の勉強をしていたのです。 そしてついに耐えられなくなり、大学2年生の時、当時高校生だった妹も連れて家出を敢行しました。生活費を稼ぐために一日4時間くらい塾の講師として働き、他に家庭教師もやり、司法試験には意地でも受からなきゃと決めて、午前中と夜は勉強。大学にはほとんど行く時間がなかったですね(笑)。とにかくお金がないし、机にかじりついていると血の巡りも悪くなるから、交通手段はどんなに遠くてもマウンテンバイクを使い、節約して二人の生活を支えました。 でも自分で何でも決められる自由を手に入れたし、この頃の私は解放
好きに作って成功する。 そこに落とし穴があった 30歳になった頃、僕は人気漫画を原作として映画監督1作目を制作するところまで漕(こ)ぎ着けましたが、しかしこれは力不足で酷評されました。次こそは自分で納得できる作品を作りたい。そう思いつめて手がけた2作目も、また同じ漫画が原作です。もう二度と失敗することはできない。考え抜き、準備をし、精魂を傾けた作品『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』は高い評価を集めた。自分の力で成し遂げたその達成感はとてつもなく大きなものでしたね。 ところが僕はこの状況でイケイケになってしまうんです(笑)。「なんだ、自分が好きなように作っても大丈夫じゃないか」と。監督としてやっていける自信がついて独立し、次は天使の卵を温める少女と、銃を持った少年が出会って廃虚をさまようという幻想的な映画を作りました。僕の思いをフィルムに焼き付けた愛着のある作品ですが、興行的には
思想なんていらないと 言われた衝撃 監督をやってくれないかと3年ぶりに話が来たのは、『機動警察パトレイバー』でした。そのプロデューサーは、はっきりと物を言う男で「実際にきちんと映画を作れる監督はほとんどいない。でも君はちゃんとエンターテインメントができるじゃないか」と、僕に依頼してきたのです。いろいろうるさいことを言う監督だし(笑)、訳の分からない作品もあるけれど演出能力は高い。監督としての手腕を信頼しているから、うまくやってくれよということだったんですね。 自分の企画で頭でっかちになっていた僕に、彼は「君の思想とかには何の興味もない。映画というのは口に入れた時においしい味がして、最後まで飽きないことが大切なんだ。その中に思想として薬や毒を隠し入れるのは自由にやればいいさ」と言い切った。中に何を入れてもいいから、観客がおいしいと言うあめ玉として丸めて見せろと。その時にやっと僕は分かったんで
周囲の評価をもらって 初めて社会人になる 現場に入れてもらい、制作に参加する作品を持たされ3カ月で1本完成させなさいというところから、僕の仕事は走り始めました。できたらオンエアするからというのです。基本的に指導は1回のみ。コンテが上がったら見てもらい、フィルムが上がったら見てもらう。撮影の指示の仕方を教えてもらうのも最初だけでした。あとは聞きにおいでと言われますが、そんな暇はないほど追われるので、自分でやるしかない。 現場にいる仕事人の半数は僕よりずっと若いけれど一人前でした。入社後いきなり演出家という肩書だけもらった男は右往左往している(笑)。その約1年間がきつかったですね。一緒に働いている人間、直接の上司、その人たちを自分の仕事でいかに説得できるか、存在感を示せるか。まずこれが一番大事だと思います。同僚が「なかなかよかったよ」と評価してくれて、こいつは給料に見合う仕事をしていると認めて
映画作りに興味はあっても まったく当てはなかった 大学時代に映画の面白さにのめり込んで、とにかく映画以外のこととは縁を切って見まくっていました。映画代を得るために肉体労働のアルバイトをし、そのうちに見るだけでは満足できなくなって自分で撮り始めます。仲間と暗い自主映画を数本作りましたね。誰も僕の映画を理解できるものか、とか思いながら(笑)。思い返せば幼い頃から映画監督になりたいという漠然とした願いは持っていたような気がします。 ところが結婚をすることになり、6年通った大学を卒業せざるを得ない(笑)。知人の紹介で、従業員が3人しかいない小さなプロダクションに入れてもらい、ラジオのディレクターの仕事を担当しました。3時間以上の番組を十数本作る。スタジオで収録や編集をし、取材に出たりレコード会社を回って素材を集めたり、何でもやりましたが給料が出なくなって退職。 次は広告会社の下請けで、ラジオやテレ
私も、もっと教えて欲しいと 甘えた気持ちの新人だった 私は最初から放送界に就職したわけではありませんでした。自分に何ができるか、何がやりたいのかといった明確な思いもなかったのです。ただ、当時は外国の大学を卒業した私のような者には日本企業の門戸は狭く、就職が本当に難しい時代でした。 結果として、実家のあった関西で、外資系の家庭用品メーカーに入社します。研修を受けてから実際の仕事に就くのだと思っていたら、入った時からいきなり化粧せっけんの担当になり、明日は東京出張へ、来週は沖縄へマーケティング調査に行ってきてとか、日本中あちこちのマーケットを見てくるようにと指示されるのです。同じ時期に入社した人はなく、まったく私一人だけ。仕事の内容もまだ分からぬまま、東京の広告代理店へ行き、そこでテレビCMの絵コンテを見せられて、さあ意見を言ってと促される。女性の感性でということだったのでしょうけれど、私は貝
元気づけてくれなどと 人を頼らないでいこう 僕は与えられたチャンスには挑んでいったけれど、自分の背中を誰かに押して欲しいと思ったことはまったくありませんでした。若い時には、たとえ1歳でも年上の人間は全部敵だと思っていて、その人たちの言うことは絶対に聞くものかと思って生きてきたからです。それくらいの気概を持っていないと本当は何もできないのです。 2年ほど前に、ある大学に招かれて行った時のことです。学生たちが僕に、自分たちを元気づけてくれと発言したのですね。モチベーションをあげるための言葉を聞きたいということでした。僕は、普段あまり語気の強い話し方をしないし、音楽を仕事にしていることもあって柔らかいイメージを持たれているかも知れませんが、この時ばかりは頭にきて、「甘ったれるな!」と思わず怒鳴りつけていました。なぜ自分でやらないのか、なぜ自分のチカラを振り絞って少しでも前へ進んでいかないのか。情
レベルの違う相手が 私を引き上げてくれる 誘われたから参加する、と気軽に始めたYMOの活動でしたが、思い入れはどんどん強くなり、自分の表現したい音楽も確立されていきました。YMOのポップな形式の中に僕は現代音楽も使い、3人の持っているものがいい形で結晶していく。もちろん葛藤(かっとう)も衝突もあったのですが、半人前だった僕はこのバンドの中で成長させてもらいました。 やがてバンドが散開し、そろっての活動がなくなった時に、僕はただ一人裸で社会に放り出されたような気持ちになりましたが、この時にやっと「大人」になり、坂本龍一として歩き始めたのだと思います。 その少し前に大島渚監督から、映画『戦場のメリークリスマス』に役者として出てみないかと声をかけられました。こんな演技素人の僕が役者をと驚きながらも、次の瞬間には「音楽もやらせてください」と言っていたのです。映画音楽なんて一度も手がけたことがないの
YMOが始まるまで 僕は音楽フリーターだった 男っていくら好きなことを自由にやりたいと言ってみても、家族ができれば気が進まないまま稼ぐために仕事に絡め取られていく(笑い)。僕もその例外ではなく、酔客相手にピアノを弾きながら、友人がかかわっている劇団のために曲を書いたりし、やがてロックやフォークミュージシャンのライブやツアーに参加するようになりました。 それは音楽を本業にする決心をしたわけではなく、呼んでもらったから出かけていくという状況だったのですが、それでも音楽の仕事が生活の中心になっていく。しかし、そこでいろいろな人との出会いもありました。フォークの友部正人さんに誘われてコンサートツアーについていき、半年間も日本国中を回る面白い体験もしています。そして在籍していた大学院を卒業してからも、どこかに就職するという発想はまったくなく、昼から夜まであちこちのスタジオを駆け回って演奏してはお金を
職業を持つとは 何になることなのか なぜ僕が今、音楽の世界で食べているのかと問われれば、ただ偶然が重なった結果だというほかはありません。家族や親族に音楽家はいないし、父は書籍の編集者、母は帽子デザイナーという畑違いの職業です。初めてピアノに触れたのは確かに3歳ではあるけれど、それは入園した園児みながやる情操教育の一環だったからで、音楽を志す子供の英才教育とは別次元のものでした。 子供の頃、僕は将来何かの職業に就くとか、何かになるということが本当に不思議で仕方がありませんでした。大人はそういうことを言わせたがりますよね。目標とか夢とか何でもいいから書いてごらんと。僕にはとても違和感がありました。僕がこのまま僕でいてはいけないのかと心配していたような気がするのです(笑い)。 それでも音楽の周辺にいたのは、指導してくださったピアノの徳山寿子先生が面白い話をしてくださったとか、作曲を習ってみないか
どんな時でも 人生の主人公でいよう 僕の生き方を見て勇気をもらったと言ってくれる人は多い。現役でがんばり、手痛い目にあっても必ず立ち上がってくる姿がいいって。でも、僕のことを観客席から声援しているだけじゃなくて、みんな自分の人生を目いっぱい走っていますか。 リストラされて、もう生きる気力がなくなったなんていう人がとても多いけど、考えてもみて欲しい。リストラされるのはその人の能力がないからじゃないし、人格を否定されたわけでもない。単なる会社の都合だけだ。経営者は税金を払ったり、会社を継続させるために苦しい選択として、必死でリストラをしている。そんな会社の都合だけなのに、自分の人生を自分でとことん否定するなんて違うと思いますけれどね。辛(つら)いのは分かる。でも皿洗いでも何でもやって、また立ち直れるじゃないですか。 雑誌やテレビ、新聞にも惑わされないほうがいい。マスコミはリストラされた人間に対
いえいり・かずま ●1978年福岡県生まれ。地元福岡のデザイン会社在職中にウェブデザインに興味を持ち、コンピューターシステム会社に転職して技術を習得。2001年長男の誕生をきっかけに福岡で合資会社を設立、「ロリポップ!レンタルサーバー」を立ち上げ、のち03年(有)paperboy&co.を設立。04年GMOインターネット(株)資本参加に合意し株式会社化して現職。レンタルブログサービス「JUGEM」、ドメイン取得サービス「ムームードメイン」、ネットショップ構築サービス「Color Me Shop!」など、個人が気軽に始められるインターネットサービスを多数展開。著書に『こんな僕でも社長になれた』(ワニブックス)がある。公式ホームページ http://www.paperboy.co.jp/ 国内で最大級の個人向けレンタルサーバー、月会費263円でホームページが持てる「ロリポップ!」は、若い人に絶
最先端から 逃げない 将棋の世界も大変な勢いで変化しています。ルールは400年以上も変わっていませんが、コンピューターによる情報の波は将棋の研究方法を明らかにスピードアップさせ、局面のかなり先まで読みきるという状況を作り出しました。 たとえば若い棋士たちが集まって一つの戦型を徹底的に研究し、分析して体系的に学ぶことが当たり前になってきた。もちろん若い棋士に限らずプロは常に研究や勉強を続けます。しかし、かつては個人と個人のぶつかり合いと考えられていた将棋が、新しい時代を迎え進化してきたとも言えます。新しい手はたちどころに知られ、研究、分析によって学術的な領域にまで組み込まれてきたのです。 確かにスピードは速くなり、情報量も格段に多くなった。でも、その最先端から逃げたくはありません。研究し尽くされている戦型を知らなかったばかりに負けたなどということが、プロにはあってはならないと思います。 私が
強くなるための 私のやり方 アマチュア時代から今日まで将棋の学び方は変わっていません。そのプロセスはシンプルに四つの段階を経ています。最初にするのはアイデアを頭に思い浮かべること。次はこういう手を使って対局しようと新たな発想を考えるのです。 そして次にそれがうまくいくだろうかとさまざまに検証していきます。盤に向かい、あるいは前例を調べ、自分が考え付いたアイデアを成功させるにはどうすればいいのか、徹底して時間をかけます。相手は当然強敵ですから、こう打ってくるだろうとか、あの手を使うかもしれないと一手一手細かく検証していくのです。 新しいアイデアだと思っていても過去に同じ手が用いられたかもしれないし、類型があったかもしれません。その手は勝ったのか、どのような展開をしていったのか。最初のアイデアで戦うためにこの検証のプロセスは非常に大切だと思います。 そして実践に臨む。ところがどれほど検証して準
増えていく常識は 迷う材料となる 実力を発揮していくには、やはり経験が必要であると思います。経験を積み重ねていくことでわかる道筋もあるし、いたずらに恐れを抱かず落ち着いて物事に立ち向かえる。非常に大切なことのひとつです。 ただそれは逆に、うまくいって成功した経験も、悪くなって失敗した経験も数多くなっていくことです。責任も重くなり負けるわけにはいかないというときや、悪い状況にあるときには、かつての苦い経験が頭をもたげてきて、どうしようかと迷う要因になってくるのです。今目の前にある戦局は過去の戦いとは違うはずなのに、自分の中に積み重なっている常識が顔を出してきて、そちらの判断に引きずられそうになる。 そういうものに打ち勝つ力、打ち勝てる理性というか、踏み込む力が年を追うごとに必要になってくるのではないかと思います。 私が10代のころに指していた将棋は非常に粗削りで、怖いもの知らずでどんどん前に
一通り仕事がわかると 落とし穴がある 誰でも、何もわからないというところから仕事をスタートするのですが、学ぶべきものを全部聞いて、全部やってみて、ある程度積み重ねていくまでは夢中です。将棋の世界はまだ小学生のうちから入ってきますが、学ぶことが非常に多い。私も必死に勉強し、勝負を重ね、そしてタイトルを獲得するという歩みでした。ところが20歳か21歳くらいでしょうか、将棋はこういう指し方をすれば、大体こんな結果を予想できるのではないかとわかった気になっていた時期がありました。何でも一通りできてしまうと考えていたのです。 でも、それはとんでもない思い上がりで、ただ自分に見える世界だけを見ていたからだと気づいたのです。それは、先人が舗装してくれた道を突っ走るという、簡単なことをしていただけではないのか。20歳の私は、舗装された道なら早く走れる力をつけ、腕を上げた。だが、砂利道や道なき道を猛スピード
なぜうちだけが違うのか。 惨めな思いだった 僕が3歳の時に母は家を出てしまったし、小学校2年で父が亡くなった。だから僕はあちこちの親類に預けられ、そして祖母に引き取られて育ててもらった。 貧しかったですね。生活保護を受けていたし、学校の給食費も、教科書代もすべて免除される。そういう特典が恥ずかしくて、悔しくて、何で僕だけがそうなのか、こんな屈辱的なことはないと思っていた。自分が親になったら、息子の給食費や教科書代は絶対払ってやると誓っていましたよ。道具が買えないからスポーツなども参加できなかったし、いつもおなかが減っているし。つまらない、つまらないと言うのが口癖だったけれど、それを聞くとおばあちゃんは「面白いところに行け」と言うだけ。でも涙ぐんでいることもあった。 それでも僕がぐれなかったのは、音楽に出会ったからです。ベンチャーズがすごい人気で、エレキギターの音にまず夢中になった。もちろん
心に大きな穴が開いた オーストラリア事件 僕自身は懸命に、誠実にやってきた。矢沢の音楽を枯らさないようにさまざまな工夫もしてきたけれど、でも悲しい事件は起きた。 その頃僕は、雑誌で読んだオーストラリア、ゴールドコーストに強く引かれて、そこに拠点を作ろうと考えた。1987年のことだった。大自然に抱かれて、ここから世界に発信していくスタジオや音楽学校を作る夢が膨らんだ。当初26階のビルを建てる予定で土地の取得を始めたりしているうちに、日本でバブルが崩壊してしまい、新しいビルを建てるのは時期を待つことにして、買収したビルにテナントを入れ、その収益で土地購入代の返済を続け、十分に採算の取れる運営を行った。 このオーストラリア事業は、信頼している2人の部下に任せていた。英語がうまく、現地で交渉ごとをさせるには適任と思えた人間と、金融関係や不動産関係の仕事経験が豊富な年長の人間。うまくやってくれる人選
気持ちが悪いことは 放っておくな 僕は自分の中に鋭敏なレーダーを持っている。自分はまともな人間だと思っているから、芸能界で当たり前のように人が準じているルールに対しても、変だとレーダーが働く。それはきっと僕自身が臆病であるからだ。これからもずっと矢沢らしく歌って生きたいと願うから、それを阻むものに反応する。 だからいつでも自分に質問を投げかけてきた。後悔はしていないか。何かおかしいと感じていないか。今の僕は間違っていないか。その質問に、頭で理屈を考え、自分を納得させることが大事だ。 自分で臆病だと認めるのはなかなか難しい。しかし、本当は臆病と緻密(ちみつ)な考えとは背中合わせにあって、怖いからこそ有効な防衛策を繰り出せるのだと思う。とにかく目をそらさずに自分の現状をはっきり把握したいと僕は思う。 うちの会社ではいつも若い人に言う。例え先輩に対してでも、言うべきことをのみ込むなと。やっぱり上
親たちの時代とは 大きく異なる現実がある 職業や就業条件に何らかの差はあっても、社会全体が安定した仕事人生を送れた時代は、本当に過去のものになりました。1990年ころから長期不況で正社員の仕事がぐっと絞られ、採用は目に見えて厳しくなり、95年には日経連が「新時代の日本的経営」という報告書を出しています。その中で就業者を三つのタイプに分けて示しています。 一つ目は企業内で長期にわたって雇用することを前提とするタイプ、二つ目は専門性を持ちながら流動するタイプ、三つ目は明確な専門性なく不安定に流動するタイプです。実際に企業は、経費削減の柱として流動的なタイプを増やし続けました。仕事の形態が多様化する中で、総体として若者の仕事の劣悪化が速い速度で進んできたと思います。 その劣悪化の中身も仕事のタイプ別に違います。かろうじて正社員として比較的安定した職を得ても、そこで持てる限りのエネルギーや能力、そ
みずの・けいや ●1976年生まれ。慶應義塾大学経済学部卒業。大学在学中に友人と、新橋・新宿・渋谷の路上にて1分100円で人を褒めちぎる「ホメ殺し屋」を始める。解散後執筆活動を開始。デビュー作『ウケる技術』(共著、新潮文庫)がベストセラーとなる。雑誌『KING』『サイゾー』などでコラム連載、講演多数。主な著書に『BAD LUCK』(インデックス・コミュニケーションズ)、『夢をかなえるゾウ』(飛鳥新社)、DVDに『温厚な上司の怒らせ方』がある。また、水野愛也の名で『LOVE理論』(大和書房)などがある。個人ブログ「ウケる日記」http://www.mizunokeiya.com 人を笑わせる、ウケる。モテる。そうなれたらいいなと思うけれど、そういう人はきっと持って生まれたセンスや才能があるに違いない、と私たちは尻込みする。やってみたけれどうまくいかなかったという苦い経験もあるからだ。 しかし
海外へ出て、有給で働きながら、日本と自分をしっかり 見つめてみる。キャリアアップにアクセルがかかります。
あきもと・ひさお ●静岡県生まれ。高校卒業後、自衛隊体育学校入学。ウエートリフティング選手としてオリンピック出場を目指す。その後、大手住宅メーカーに入社、8年間営業の経験を積み、地場有力ゼネコン企業へ転職し4年間勤務。1989年(株)平成建設、(株)平成総研設立。ビル、マンション、住宅の企画・設計・施工、不動産業務などで大きな業績を上げる。建築業界では初の、すべての業務を自社内で行う内製化を実現した。平成建設ホームページ http://www.heiseikensetu.co.jp 大学や大学院の新卒学生を対象に、大工や職人を募集する。秋元さんがそう決めたのは会社設立から4年目、1993年のことだ。まったく経験のない学生を正社員として採用し一から育てるという、建築業界では前例のない試みだった。 多くの建築会社やハウスメーカーは、大工作業や工務をすべて外注し、通常、仕事は細かくそれぞれの職人
誰もあなたのための 答えを持っていない あてがわれたライフコース・プランが無効化したいま、就職という転機に「自分探し」というモチーフが頭をもたげてくるのは、ある意味で当然のことです。 しかし「自分探し」には大きな落とし穴がある。これは最近のスピリチュアルブームの背景とも通じているんですが、いくら頭で考えをめぐらしても端的な答えなんか出ないということです。「自分探し」は確かに人生の大主題かもしれないが、そうであるが故に簡単に答えなんか出ない。ということは、目前の課題である就職の動機づけとしては不適当ですね。 人生は複雑です。人生の原因と結果はいつも曖昧(あいまい)な糸で結ばれている。それなのにちょっとした歯車の狂いから急激に暗転するし、逆にタナボタの幸運に恵まれたりもする。世間的な成功とか、失敗とかは、たまたま「そこ」に居合わせただけで、自分とは何の関係もないのではないか。必然性なんて何もな
「やりたい仕事」と やるべき仕事」 私の仕事は評論家ですが、こればっかりはなりたくてなれるものじゃない。なりたくてなるような職業でもないしね。 例えば学者や研究者ならば、一つの領域を徹底的に掘り下げていくんです。歴史学者が研究対象とする時代の短さ、テーマ設定の数の少なさを知れば、多くの人は驚くでしょう。仏教学者ならば、一つか二つの経典や論書を一生をかけて研究する。他の分野でも、専門論文の世界とはそうしたものです。それは素晴らしいことだし、尊敬しますが、私のやりたいことではなかった。もっとラフで、機動性があり、浅くとも広い世界を相手にしたかったのです。 他方で、ジャーナリストになるのも抵抗があった。ジャーナリズムは目の前の取材対象に深く規定されてしまうところがあるんです。他の事象や他のポジションがみえなくなりがちで、何か自由でない気がした。 そういうわけで、立ち位置のはっきりしないことを続け
プロの仕事人は いつも変化を歓迎する 私は、仕事の楽しさって、自分の思い込みや価値観が壊される可能性のことだと思っています。新しい人に出会って、自分とは異なる考え方、物事の捉(とら)え方に出合うことほど面白いことはない。それによって、部分的に「自己」がぶっ壊され、そこが何らかの形でまた新たに作り変えられていく……。それがなかったら人生つまらないでしょう。融通無碍(むげ)にみえるかもしれないけど、これが大人の仕事の作法だと思う。 基本的に中学、高校生くらいまでは自分の形成期だから、他者から強い影響を与えられるのは嫌なものです。けれど「自分は出来上がった」と思っている段階は、まだまだ子ども。やっと手に入れ身に着けたものにしがみついているだけなのです。 その自己完結的な価値観や信念を揺さぶられ、壊されていく不断のプロセスの中でこそ大人になっていく。仕事もまさにそうで、たとえばプロの世界は、ある仕
さとう・かしわ ●1965年東京都生まれ。博報堂を経て(株)サムライ設立。SMAPのアートワーク、キリンビール「極生」の商品開発から広告キャンペーン、「TSUTAYA TOKYO ROPPONGI」のビジュアルアイデンティティー(VI)と空間ディレクション、ファーストリテイリング、楽天グループ、明治学院大学のブランディング、NHK教育テレビ「えいごであそぼ」のアートディレクション、NTT DoCoMo「FOMA N703iD」のプロダクトデザイン、ユニクロ「NYグローバル旗艦店」のクリエーティブディレクション、国立新美術館のVIとサイン計画などを手がける。東京ADCグランプリ、毎日デザイン賞、亀倉雄策賞ほか受賞歴多数。著書に『佐藤可士和の超整理術』(日本経済新聞出版社)がある。公式サイトhttp://kashiwasato.com/ 頭の中を覗いてみたい。必ず話題をさらっていくそのクリエー
著書『五体不満足』が 突きつけてきた痛さ 子どものころから、やりたいことは何でもやる性格でした。周囲もそれを当たり前のこととして支えてくれたし、わがままな部分もたっぷり抱えて成長したと思います。両手両足に障害があるのは不便でしたけれど、別に不幸ではないし、僕は僕。それはいつもずっと変わらない感覚です。 障害者の本=悲壮な物語。そんな固定観念を崩したいと思ったからこそ、大学在学中に本を書いてみないかとお誘いを受けた時にも、お引き受けしたのです。スポーツもし、けんかもし、勉強の苦労もしたたくさんの思い出を詰め込んで『五体不満足』は世に出て、本当に多くの方に読んでいただいた。 でもこれが、僕の迷走の始まりになりました(笑い)。本の中では、無意識のうちに明るく元気な自分ばかりを書いていたのかもしれません。その存在が勝手に一人歩きしていったのです。人に勇気を与えてくれる主人公、10歳の「オトくん」と
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