サクサク読めて、アプリ限定の機能も多数!
トップへ戻る
Nintendo Direct
www.asukanet.gr.jp
徐福・桃太郎・浦島太郎・金太郎 他 伝説の扉 日本武尊伝説 歴史人物の銅像・石造 お知らせ <2020年1月23日最新更新> 古代史の扉の内容を大幅改訂し、新サイトで公開中
むかしむかし,あるところに,浦島太郎という若い漁師が母と二人で暮らしていました。ある日,浦島太郎が浜を歩いていると,子供たちが亀をいじめているのを見ました。かわいそうに思い,逃がしてやるように子供たちに言いましたが,いっこうにやめてはくれません。そこで,持っていたわずかばかりのお金を渡して亀を助けてやりました。それから数日経って,浦島太郎が海で釣りをしていると,亀が声をかけてきました。その亀は,先日助けてくれたお礼に浦島太郎を乗せて竜宮城に連れて行くと言います。浦島太郎はそこに行ってみたくなり,亀の背中にまたがりました。亀はしばらく海を泳ぐと,すぐに海の底に向かって潜りました。そして,あっという間に立派な門がある竜宮城に着きました。奧に案内されると乙姫様が出迎えてくれました。浦島太郎は歓待され,鯛やヒラメの舞いや踊りを見ながらたくさんのご馳走を食べてしばらく楽しい時を過ごしました。何日か過
先日私のHPで招き猫の話題が出ました。 子供の頃、我が家にはかなり古びた招き猫が大切に飾られていました。 買い物のつり銭を貯め、クリスマスだったかお正月だったか、 溜まったお金で欲しい物を買ってもらうのが幼心に楽しみでした。 「招き猫」についていろいろ調査しましたが、発祥とされる伝説は複数存在しているらしいのです。 その一つが東京世田谷・豪徳寺にありました。 豪徳寺へは京王線・下高井戸駅より歩いて参拝しました。 通常は小田急線や世田谷線が最寄駅なのですが、私は地図を購入して周囲の景色を楽しみながら歩きました。 何分歩いたか記憶がないのですが、狭い商店街が世田谷線沿いに点在し「ビルの森・東京」とは違ったイメージです。 豪徳寺は江戸末期の大老井伊直弼のお家・井伊家の菩提寺であるそうです。 豪徳寺の由緒・招き猫伝説 お寺の案内所で『招福猫児(まねぎねこ)』を購入すると、「由来」が
諡号と言うのは、その天皇の治世に対して死後贈られた評価とも言えます。 例えば、殉死を廃止したイクメイリビコは「垂仁」、家々から立ち上る煙が少ないので三年間の苦役と租税を止めたオホサザキは「仁徳」、自らの血統を顕わしたヲケは「顕宗」と諡されています。 ヲハツセワカサザキの諡号は「武烈」です。「武」はともかく、苛烈とか峻烈とか、烈火のごとくという使われ方をする「烈」と言う字にはあまりいいイメージがありません。 この大君は何故、このような諡になったのでしょうか? 「古事記」に於けるヲハツセワカサザキの事蹟は、実に短いものです。 長谷の列木宮に坐して、治世は八年、御子がいなかったので、小長谷部を定め、御陵は片岡の石坏にある。‥‥とそれぐらいです。 ところが「日本書紀」の方はかなり詳しく書かれています。 「オケ七年に皇太子として立たれ、長じて罪人を罰し、理非を判定する事を好まれた。法令に通じ、日の暮
今から2200年前,日本が縄文時代から弥生時代へと変わろうとしていたとき,秦の時代の中国に徐福(じょふく)という人物がいました。実は徐福は長い間中国でも伝説上の人物でした。しかし,1982年,江蘇省において徐福が住んでいたと伝わる徐阜村(徐福村)が存在することがわかり,実在した人物だとされています。そして,徐阜村には石碑が建てられました。驚くことに,その村には現在も徐福の子孫が住んでいます。代々,先祖の徐福について語り継がれてきたそうです。大切に保存されていた系図には徐福が不老不死の薬を求めて東方に行って帰ってこなかったことが書かれていました。 徐福は始皇帝に,はるか東の海に蓬莱(ほうらい)・方丈(ほうじょう)・瀛洲(えいしゅう)という三神山があって仙人が住んでいるので不老不死の薬を求めに行きたいと申し出ました(司馬遷の『史記』がもとになっている)。この願いが叶い,莫大な資金を費やして一度
あすかの歌(俳句コーナー)選者 速水正仁 氏が11月19日交通事故により、お亡くなりなりました。 突然のお別れに管理者も驚き、悲しみにうちひしがれております。 今まで、あすかの歌(俳句コーナー)の活動ありがとうございました。 感謝して、ご冥福をお祈りします。 しばらく、あすかの歌(俳句コーナー)は休止させていただきます。 このような状況で最後のテーマの、秀逸句は選べませんでした。 ご了承ください。 https://www.asukanet.gr.jp/uta/haiku.cgi
古事記は、和銅五年(712)正月二十八日に、元明天皇に献上された、とその序に記されています。 序によれば、天武天皇が「諸氏族が持っている帝紀および本辞は、もはや真実と違っていて 虚偽を加えている」と聞き、その誤りを改めなかったら数年のうちに本旨がなくなるだろうから、 虚偽を正して後世に伝えよう、と企画したのが始まりです。舎人である稗田阿礼に誦み習わせたものの 天武天皇の崩御で中断。その後元明天皇が太安万侶に命じて続行した、ということです。 歴史書というよりは、ここでは「物語」としての古事記を楽しみたいと思っています。
このページを最初にブックマークしてみませんか?
『奈良文化財研究所~飛鳥資料館』の新着エントリーを見る
j次のブックマーク
k前のブックマーク
lあとで読む
eコメント一覧を開く
oページを開く