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「先達はあらまほしき」と徒然草に吉田兼好は書いた。卒業論文は普通、一人では書けない。その分野の先生を選んで、指導をうけなければならない。そして、論文の審査をして単位を出すのは、大抵はこの先生である。 大学や分野によっては、学生の希望が全部は通らないこともあるが、多くの場合は望んだ先生を指導教員にすることができる。では、何を基準に自分の指導教員を選ぶか。 私は、「先生の人柄では選ぶな」と言っている。「自分が何の勉強をしたいかで選べ」という。たとえば私なら、江戸文学や紀行文学がやりたいと思って、その分野の専門家だからというので選んでくれるのがいい。ゆめ、優しそうとか楽しそうとか自分と気が合いそうとかその先生の研究室の先輩たちがいい人そうだからとか恋人や親友がその研究室にいるからとか、そういう理由では選ばない方がいい。 学問研究とはとても孤独な作業である。恋人も親友も先輩も指導教員も、肝心なとこ
一九九二年の現在、若者や学生たちの間で特に流行している思想や哲学のようなものがあるのだろうか?そういうものが流行する社会や時代が、しない時代と比較して、別にすぐれているとは私は思わない。しかし私が大学生だった三十年程前の、更にその少し前、実存主義という哲学は、やはりひとつのブ-ムを呼んでいたと言ってもいいだろう。(その少し前は多分マルクス主義が、そういう存在だったのだろう。) 実存主義のリ-ダ-的存在で、当時の知識人たちにとってはスタ-だった、フランスの哲学者であり作家でもあるサルトルの次の発言は、だから、かなりの話題となった。平井啓之氏「文学のすすめ」から、引用しよう。 一九六四年にその幼少期の特異な自伝『言葉』の爆発的な好評の直後に、ル・モンド紙の記者のインタヴィユにこたえて行なわれたサルトルの発言は、まさにこの問い(文学の社会参加の可能性)に対する一人の雄偉な人間主義文学者の挫折の告
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