サクサク読めて、アプリ限定の機能も多数!
トップへ戻る
都知事選
www.j-world.com
ホームページ 新作・更新 新作紹介 更新紹介 日本と世界 憲法 和の思想 人権思想 日米関係 いじめ自殺 少年犯罪 他 キリスト教 聖書の間違い 死後の世界 他 仏教 無我の思想 空の思想 魂と神々 他 他の宗教 オウム 幸福の科学 終末論 宗教殺人 他 思索 幸福論 真理論 他 日本の知的遺産 日本思想史年表 言の葉 リンク 来訪者の声 無我の思想について 無我の思想 : Philosophy of Non-Self 98年11月1日 仏典でしばしば言及される「無我」あるいは「非我」と翻訳されるアナートマン(anatman)という語は、「我、自身」を意味するアートマン(atman)に、英語で言えば「un-」とか「non-」を意味するアン(an-)を付けたものです。それは明らかにアートマンを否定する言葉です。仏教はこの無我あるいは非我という言葉を駆使してなにを語ろうとしたのでしょうか。本論
しかし、仏教は、たとえば、「アートマンは有る」というウパニシャッドの主張に対して、同じ次元で「アートマンは無い」と単純に言い返したのではありませんでした。仏教の批判は、ウパニシャッド(やその他の宗教各派)の主張が依って立つ土台そのものに向けられた、もっと根本的なものだったからです。 最も古層に属する原始仏典のひとつ(スッタニパータ、4章と5章)には、ブッダの宗教観としてつぎのような洞察が残されています。 或る人々が「最高の教えだ」と称するものを、他の人々は「下劣なものである」と称する。これらのうちで、どれが真実の説であるのか? かれらはすべて自分らこそ真理に達した者であると称しているのであるが。(903) かれらは自分の教えを「完全である」と称し、他人の教えを「下劣である」という。かれらはこのように互いに異なった執見をいだいて論争し、めいめい自分の仮説を「真理である」と説く。(904) も
「被告人として裁かれている信者・元信者たちには、私が知るかぎり、交通事故などの過失犯を除いて、ほとんど前科がない。オウムに関わる前は犯罪とは無縁であり、むしろ人を傷つけることを恐れるタイプだった彼らが、いくら教祖の命令とは言え、どうして殺人まで犯すことができたのか。」 (江川紹子『オウム真理教 裁判傍聴記(2)』「はじめに」より) 神が殺人を命じるとき 神が殺人を命じるとき、わたしはどうしたらよいのだろうか。殺人は明らかに悪であり善なる神がそんなことを命じるわけがない、これは何かの間違いに違いない、そう考えて、わたしはこの命令を無視するだろうか。それとも、神の意思こそが何が善で何が悪かを決定する絶対基準であるから、不完全な人間の眼には不合理な命令と見えるかもしれないけれど、自分の勝手な意見にではなく、神に従うことこそが正しいのだ、そう考えて、わたしはこの命令を実行するだろうか。 イスラエル
次の一文は著名な仏教学者である故増谷文雄氏の『業と宿業』からの引用です。ここに紹介する氏の一文は、わたし自身の「死後の世界」観の形成において、わたしがもっとも衝撃を受けたものの一つです。そして、それはほとんどそのまま、現在のわたしの「死後の世界」観となっているものです。 死んでから結ぶ果などというものは、どうでもよいではないかという者もあるかもしれないが、それはあまりに見解のせまい、まったく現実的で、利己主義な考えだとしなければなるまい。そんな考え方では、結局、真に生きるに値するような人生はおくれるはずがないのである。けだしわたしどもには、みんな子供もあるし、隣人もあるし、同胞というものもある。わがなきあとには、そんなものはどうなってもよいという訳のものではあるまい。 さらに眼をあげて言えば、わたしどもは、いかに微力であろうとも、なおかつ人類とか世界の運命と、まったく無関係ではないかも知れ
「十字架のあがない」と「古代イスラエルの生け贄の儀式」 自然災害などを、神々の怒りとして受けとめていた古代人が、神々の怒りをなだめるため、あるいはその好意をえるために、家畜や人間の生け贄を神々にささげたという事実は、さまざまな古代文明のなかにありますが、旧約聖書を読めばわかるように、古代イスラエル人は羊や牛などを、神の怒りをなだめるための生け贄として捧げていました。 イスラエルの人々に告げてこう言いなさい。あなたたちのうちのだれかが、家畜の献げものを主(ヤーヴェ)にささげるときは、牛、または羊をささげなさい……。祭司はその全部を祭壇で燃やして煙にする。これが焼き尽くす献げものであり、燃やして主(ヤーヴェ)にささげるなだめの香りである。(レビ記1:2-9) イスラエルの人々に告げてこう言いなさい。これは誤って主(ヤーヴェ)の戒めに違反し、禁じられていることをしてそれを一つでも破ったときの規定
ホームページ 新作・更新 新作紹介 更新紹介 日本と世界 憲法 和の思想 人権思想 日米関係 いじめ自殺 少年犯罪 他 キリスト教 聖書の間違い 死後の世界 他 仏教 無我の思想 空の思想 魂と神々 他 他の宗教 オウム 幸福の科学 終末論 宗教殺人 他 思索 幸福論 真理論 他 日本の知的遺産 日本思想史年表 言の葉 リンク 来訪者の声 using Google Engine ここには、日本の文化と伝統に深く関わりのある、宗教的あるいは哲学的問題に関するわたしのエッセイが収められています。広域にわたる問題を取り扱っていますが、とくに、キリスト教、仏教、新興宗教、和の思想、憲法、人権思想、アメリカ、日米関係、日本の民主主義、いじめ自殺などの問題が考察されています。 また、来訪者のみなさんの、感想、批判、賛同、なども掲載させていただいております。 ゆっくり、楽しんで下さい。 佐倉 哲 Wel
佐倉哲のキリスト教関連エッセイ 聖書とは 殺せ!と神が命じるとき 「世の終わり」は1914年に始まったか 聖書は書き換えられたか 十字架のあがないと日本人 死後の世界 永遠の命 反論サイト 「聖書の真偽」(野々垣さんの「聖書の真実性について理論的かつ知的な道筋を示す」サイト) 「聖書の間違い」を批判する(岡野なおみさんの反論サイト) 「同類は憐れむべきなのだろうが・・」(platon さんの批判) 「聖書館」(pisgah さんの「聖書は驚くほど正確な本」サイト) キリスト教・聖書関連のサイト 「神癒の正体」(小岩井智子さん) 「切支丹(クリスチャン)に贈る仏陀の言葉」 「内村鑑三『聖書之研究』巻頭英文及び訳文集」(山本孝寿さん) 「Awake, JW!」(エホバの証人の教育機関「塔聖書冊子協会」の教えを、科学的・倫理的に考察する) 「聖書・薮睨み」(「いのちの木魂舎」大槻昌之さん) 「イ
ナーガールジュナは、空の概念によって、単に自性を否定しただけでなく、「縁起」という、仏教のもう一つの重要な概念持ち出して、これを自性と対立させます。縁起とは「依って起こる」という意味ですが、ナーガールジュナは、ものは依存関係のなかで存在しているのであって、自性主義者が言うように、ものに内在する不変の本質のようなものによって自存しているのではないという主張を展開し、空とは縁起のことに他ならない、と語ります。 自性と縁起 空とは、ナーガールジュナによれば、存在がないことを意味するのではなく、存在には「自性(スヴァバーヴァ)」というものなどない、という意味であることを、前章では説明しました。すなわち、人間には永遠に自立自存する「個我」(魂、アートマン)などないように、ものには永遠に自立自存する「自性」などない、という主張が空の主張でした。自性という考え方が、仏教の基本思想である無我や無常の考え方
空の意味を知るためには「自性」とは何か、ということがどうしても明らかにされねばなりません。「すべてが空である」とは「すべてに自性が欠如している」ということだからです。したがって、空の理解とは自性の理解である、といっても過言ではありません。 空と自性 ナーガールジュナによれば、空とは、「ものが究極的には存在していないこと」を指す言葉でもなく、また、「ものの存在の仕方が幻想のように主観の創作にすぎないこと」を指す言葉でもなく、また「存在の仕方が何となくぼんやりしていること」を指す言葉でもありません。そうではなくて、空とはものに自性が欠如していることを指す、極めて意味の明確な言葉です。 自性とは「スヴァバーヴァ」(svabhava)というサンスクリット語の漢訳です。直訳すれば「自己自身の存在」というふうにでもなるでしょうか。現代日本語訳では「実体」と訳されることが多いようです。英訳では "sel
わたしは空の思想に関する解説書をしばらくおいて、自分の目で確かめることにした。つまりナーガールジュナ自身の書に直接いどむことにした。 空の思想の解説書の問題点 空の思想に関して、アメリカの著名な仏教学者リチャード・ロビンソン博士は、「この主題に関する幾つかの優れた研究を調べてみた結果、中観派について『わたしたちはまだ知らない』とはもう言えない」と語られた。中観派とは空の思想を説いたナーガールジュナ(竜樹あるいは龍樹と漢訳される2世紀の仏教哲学僧)の学派につけられた名前であるが、ロビンソン博士は、長年の多くの仏教研究者の努力の末、いままで最も難しいと言われていた中観派の空の思想の実体がついに明らかになった、と宣言されたのである。 しかし、わたしの経験はまったく逆であった。ナーガールジュナの思想に関する研究をいくら読んでも、いったい彼の説く「空」(スーニャタ)とは何なのか、いっこうに明確になる
仏教の無我説は何もない真空状態の中に突然生まれてきたのではなく、それなりの理由があって生まれてきたはずです。否定の主張にはそれが否定した、ある特定の主張の存在が前提となっているはずだからです。だれも肯定していないところにわざわざ否定の主張をするわけがありません。つまり、アートマン否定の背景にはアートマン肯定説があったはずです。それがまさにバラモン教であり、ウパニシャッドの思想(バラモン教の哲学的展開)です。 しかし、仏教は、たとえば、「アートマンは有る」というウパニシャッドの主張に対して、同じ次元で「アートマンは無い」と単純に言い返したのではありませんでした。仏教の批判は、ウパニシャッド(やその他の宗教各派)の主張が依って立つ土台そのものに向けられた、もっと根本的なものだったからです。つまり、ブッダは、「アートマンは有る(無い)」という主張は間違っていると批判したのではなく、そのような問答
このページを最初にブックマークしてみませんか?
『www.j-world.com』の新着エントリーを見る
j次のブックマーク
k前のブックマーク
lあとで読む
eコメント一覧を開く
oページを開く