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6、 薩英戦争 と 下関戦争 背景 幕府は安政の5カ国条約にしたがって開港したが、当初の期待通り「人心の折り合い」に向かうどころか「人心の離反」が進む逆境になり、井伊大老の安政の大獄で多くの処罰者が出た。こんな状況下で上洛した島津久光は、朝廷にその事後策を建策し、朝廷は久光の案を実行すべく勅使の江戸下向を決め、久光に勅使の護衛を命じた。この江戸からの帰り道で、久光一行は文久2(1862)年8月21日、英国人を殺害するという生麦事件を起こした。イギリスは翌年の5月9日幕府にこの生麦事件の賠償金として44万ドルを支払わせたが、まだ薩摩へ要求した殺人犯人の断罪と賠償金支払いの結論が出ていない。この交渉のためイギリスは、支那艦隊司令長官・キューパーが指揮する艦隊を薩摩に向け、薩摩側の発砲で薩英戦争が始まった。 一方、その後真っ向から攘夷要求を掲げる朝廷は、文久3(1863)年春に上洛した
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